第三章
恵志は、車事業で大成功を収めた自信家の父と、美しい母の下に生まれた。
周囲は、彼を愛する人々であふれ、泣けば支えられ、笑えば持ち上げられる日常が続いていた。
悪人は常に手伝い人の手によって排除され、恵志を否定する者は生まれてから一人もいなかった。
恵志は、周りから愛されることに慣れすぎていた。
それゆえ愛することを知らなすぎた。
舞台はいつも愛される自分にスポットライトが当たるものだと思っていたのに、ライトを消されてしまったら、もう一度向けさせる手段がわからない。
照らされるばかりの人生をはじめて詩苑に否定され、大我に自分自身のことと台本の感情を知らないことを指摘されてから、ずっと自分が変だ、と恵志は珍しく悩んでいた。
「……起きて、起きろ乙成恵志!」
「ぶわっ!?」
図書室にある中央の広い机の隅で大きな寝息を立てていた恵志は、誰かの大声で飛び上がった。
「誰!? 鼓膜が無くなるよ!?」
「そんな簡単に無くならないよ。そろそろ十九時だし、閉館するよ? まさか君が本の山の中でよだれを垂らしてるとは思わなかった」
恵志の目の前で声を掛けたのは、詩苑だった。
いつの間にか考えごとをしながら、本の山に埋もれて眠ってしまっていたらしい。
「今日、水曜日だろ。サークルは?」
詩苑の声で気が抜けた恵志は、目を擦りながら少し浮ついた声で返した。
「あったけど、勉強したくて。一日中調べものしてたんだけど、文字いっぱいあって眠くなっちゃった……」
「なに、恋愛作品ばかりじゃん。恋についてでも調べていたの?」
「うん、まぁ……」
「本当に調べてたの」
「詩苑、今時間はある? 聞いてくれない?」
「え~……手短にな。そろそろ閉まるから」
「なんだかんだおまえは優しいよな……」
恵志が眠気を飛ばすべく、大きく伸びをして、髪型を整えている間に、詩苑は隣の席を引き寄せ、腰を下ろした。
「はい、話して」
「うん……。昨日さ、大我先輩に練習付き合ってもらったんだけど。怪盗って、姫のことが愛しているからどうしようもなくて、攫いに行くんじゃん」
「そうだね」
「俺、愛するってよくわからないんだよなって……」
「へぇ……。はあ!?」
予想外の恵志の言葉に、詩苑の目は丸くなる。
恵志は、思わず顔を赤らめた。
「なんだよ、バカにするなら今だぞ」
「純粋に驚いたんだよ。君、すごいファンに愛されてたのに」
「確かに愛されることはあっても、自分から先に愛することは今までなかったからさ」
「へぇ、ええ……?」
詩苑は、恵志に向かってまじまじと宇宙人でも見ているかのよう見つめた。
普段の自信満々な姿が消え、珍しく恵志が足元を見ながら話していたので、最初はあきれたように肘を机に立てて話を聞いていた詩苑も、肘を机から離して、恵志を正面から見る形で座った。
「でも、愛されることを近くで見ていた君なら、一番他の人への愛し方がわかるんじゃないか?」
「えっ?」
「それともなに、愛することを怖がっているの?」
唐突な詩苑の返しに、恵志はつい、顔を上げた。
「怖い?! この俺に、怖いものがあるなんて!?」
「あっ、ちょっと調子が戻った」
くすりと笑う詩苑を見て、恵志の肩の力が少し抜けた。
「調子悪かったか?」
「見ている限りではね」
詩苑のおかげで落ち着きを取り戻せた恵志は、そのまま、過去の自分と向き合うように視線を下げた。
「俺、愛すること……というか、仲良くなりたくて、歩み寄っても、良い経験がなかったかも。思っていたのと違ったって言われることが多くて……。黙ってた方が良いとか言われたり」
「君の容姿じゃ、そう思われても無理はないね」
詩苑のその一言に、恵志はうなずく。
それは単なる外見の話だけでなく、彼が今まで身につけてきた「かっこいい自分でいること」の重さに触れたような気がした。
恵志は少し沈黙してから、ゆっくりと続けた。
「勝手に期待されて、勝手にがっかりされるなら、愛される環境にいた方が楽かもしれない、なんて考える癖はあったかもな」
詩苑は、恵志の言葉に合点がいったのか、何かを感じ取ったように深くうなずいた。
「ああ、なるほど」
恵志の目をじっと見つめたまま、詩苑は静かに言った。
その視線の先に、恵志は自分の弱さや恐れを見透かされたような気がして、思わず顔を背けそうになったが、詩苑はそれを逃がさなかった。
「傷つきたくないんだ」
その言葉は、恵志の心に直撃した。一番、知られたくなかったこと、恐れていたことを表していたからだ。
詩苑の言葉を噛み締めるように、恵志はうなずいた。
「そうだな。俺は、いつだって余裕があってきれいで、かっこよくて……どこにいても歓声が上がる人でいたいんだよ。だから、自分を傷つけてまで、誰かの期待を裏切ってまで、愛しに行くだなんて、そんなかっこ悪いこと……」
自分を守ろうと必死な思いを吐き出す今の状況だって、恵志にとってはかっこ悪いのだ、と思いはするが、詩苑はそんな彼を見つめて、微笑みを浮かべた。
「僕は結構、素直な君を見るの、面白いなと思っているけど」
詩苑の言葉に、恵志は思わず顔をしかめ「面白いって、どういうことだよ?」と反論した。
少し考えこんだ詩苑は
「人間らしくて、良いよなって思ってる」
と、口元を緩ませながら言葉を続けた。
「普段は『かっこいい』でしかない君が、こうやって悩んでいる姿を見るのは新鮮だし」
恵志はその言葉に、複雑な気持ちだった。
普段の「かっこよさ」とは違う、もっと素の部分を見せてしまっている自分に気づかされたような気がした。
それでも、詩苑の言葉には否定的な意味合いは感じられなかった。
「褒めているのか、なんだかわからないな」
「どうだろうね。でも君は、不安を抱えても、自分をちゃんと見つめ直して、どうにか今を変えたくて、必死に動いてる。今も愛することを知りたくて、慣れない読書までしてたんだろう?」
「……そうだよ」
詩苑の言葉に図星だったのか、恵志は少し恥ずかしそうな表情を隠せなかった。
「そういう姿勢は、評価しているよ。ここまで考えられる素直な君なら、演技力も、変わるんじゃない?」
詩苑の言葉には、まるで自分を包み込んでくれるような温かさがあった。
恵志は、その温もりに思わず胸を打たれる。
普段は、何もかもを完璧に見せることばかり考えていた自分が、今はただ、詩苑にはありのままで受け入れられているように感じた。
そして、詩苑の言葉が心に響いた瞬間、恵志はふと気づく。
自分の中で、何かが弾けたのだ。
その感覚は、言葉にしようのないほど強烈で、恵志の胸の中で大きな波が立つようだった。
鼓動が速くなり、頬や額がじんわりと熱を帯びていく。詩苑を見つめるその目には、これまで感じたことのない感情が込められていた。
「今、俺、胸が震えた」
その言葉が口から出た瞬間、恵志の心の中に新しい感情が芽生え始めた。それは、詩苑に対する、まだ名も知らぬ特別な感情だった。
「何かわからないんだけどさ、詩苑の言葉を受けて、今、こう、心臓ぎゅ~ってなった」
「いや、褒めたというか……嬉しかったの?」
いつも周りに褒められる感覚とは、明らかに違った。
ずっと、認めてほしかった相手からの言葉だったからかもしれないが、それ以上に嬉しいとか喜びとかそういう気持ちで表せないくらい何か、目の前の視界が開かれるような感覚だった。
「ガツンって、ズガンッて感じ!」
恵志の言葉に、詩苑は眉をひそめた。
「なにその落ちたときみたいな音」
「そう! 落ちる!!」
恵志は座っていた席から椅子を倒さんばかりに勢いよく立ち上がり、詩苑に喜びを伝える大型犬のような無邪気さで、駆け寄った。
「俺、おまえに落ちた!」
「何言ってるんだ」
「いや待て、落ちるってどういうことだ?」
「僕が聞きたいよ」
恵志は自分でも説明がつかないような感覚が体中に広がっているのを感じながら、次の瞬間にはまた言葉を続けていた。
「でもなんだろう、今から走り出したいくらいにテンション超上がってる!」
「ねぇここ図書室なんだけど。気持ちを収めてくれる? ほら閉館の音が鳴り始めたよ、蛍の光」
詩苑の注意なんて何も聞かずに恵志は思わず座ったままの詩苑に近づき、大きな腕を詩苑の背に回して力強く抱き寄せた。
「さんきゅー詩苑! 俺、おまえのことめちゃくちゃ好き!」
周りの静けさや注意の声が、恵志にとってはすべて遠いもののように感じられるほど、心の中が熱狂していた。
突然の恵志の行動に、詩苑は驚きで頬を赤らめてしまった。
「はぁ!? なに!?」
「じゃ! 俺今いてもたってもいられないから、練習してくる! 怪盗に俺はなれる! いや、なる!!」
「なに、自分だけ解決した気持ちになって、ちょっと待って……」
恵志は、自信を取り戻したかのような表情をし、そのまま全速力で図書室を後にした。
呆然としたまま椅子に座っていた詩苑は、その場で小さな声をつぶやいた。
「好きって、どういう好き……?」
恵志は図書室を出て、階段を駆け下りながら、胸の高鳴りが治まらなかった。
周囲の景色がまるできらめいているかのように感じられ、今までくすんでいた世界が一瞬にして開けた。
何の保証もないのに、絶対に大丈夫だと思えるこの自信は、一体どこから来るのだろうか。
思えば、自分の中身を評価されたのは初めてのことだった。
見た目を肯定されたり否定されたりすることはあったが、こんなふうに自分を開示して、誰かに肯定された経験はなかった。
詩苑の言葉は、余計に胸に響き、落ちる感覚が……。
「あれ?」
気づけば食堂の方まで走っていた長い脚を止めて、恵志は、はたと気付いた。
食堂は二十時になれば閉まるが、まだレポート課題のためにパソコンを開いている学生や、談笑に花を咲かせている女子たちがまばらにいる。
彼を見てひそひそと話しながら、好奇の視線を送っている学生もいる。いつもなら手を振るくらいのファンサービスをしている恵志だったが、今は自分のことでいっぱいいっぱいだった。
「この落ちる気持ちは、どういうことなんだ……?嬉しいだけだと思っていたけれど……」
誰かとの出会いで、自分の気持ちばかりが頭に埋め尽くされたのは、生まれて初めてだった。
恵志は、詩苑に会ってから知らない感情ばかり増えている。
さっきの詩苑の言葉に心臓を掴まれたように、落ちる感覚も初めてのものだった。
それはまるで事故のような衝撃。
「俺、何口走ってここまで来たんだっけ……」
恵志は、いわゆる興奮状態だった先ほどの光景を思い出す。
「『怪盗に俺はなれる! いや、なる!』」
確かに言った。
「待て、でもまだもう一つ……」
恵志はその前に言った、
「『俺、おまえのことめちゃくちゃ好き!』」
という重大な一言と、まだ手に残っている詩苑の背のぬくもりを思い出す。
「『好き』って言ってないか!? えっ、俺詩苑のことが好きなの!? でもこれはどういう好き!?」
ずっと何もかも与えられ続けた恵志が、初めて心を奪われていたことに気付いた。
しかし、自分で言っておきながら「好き」とはなんだ、「好き」とは、と恵志は考え込む。
「好きってなに~!?」
「うーす。なんだなんだ、中坊みたいな大声を出して。こんな遅い時間までいるなんて珍しいなぁ。サークルメンバーみんなは帰ったぞ」
セブンティーンアイスの自動販売機の前で、チョコミントのアイスを食べていた由浩が、恵志の大声に顔を出した。
「ヨッシー先生! 好きって気軽に言うもの!? 好きって言ったら告白!?」
「恋愛したことがない小学生か? なんだ告白したのか?」
「どうなんだろう?」
「どうなんだろう!?」
相変わらず勢いとノリで真っ直ぐに生きているやつだな……と、由浩は動揺を隠すように、チョコミントのアイスをもう一口、口の中にいれた。
しかし、目の前の恵志の様子を見ているとどうにも甘い気持ちが先行してしまうのは、自分のアイスのせいだけじゃないのだろう、と由浩も思わずにはいられなかった。
「大学生にもなって、初恋みたいな態度だな」
「……」
「え、まじの初恋?」
「でもほんとうに告白なのかわからない! 多分相手もわかってない!!」
「ふ、ふ~ん?」
「でも落ちた気持ちはある!」
「落ちる? フォーリンラブってか。ははっ今俺うまいこと言ったな~フォール、フォーリン~。ウブなラブ~」
「俺は本気で悩んでいるんだぞ!?」
「他人の恋路ほど面白いものはないだろ」
頭を抱えてぐるぐると由浩の前を右往左往する恵志は、自分の感情の置きどころに大変困っていた。
「でも、でもさぁ、ほら恋かわからないんだよ!? でもなんかすっごい動き出したい! この気持ちは何だろう!?」
「今すぐどこかに行きたいくらい?」
「うん!」
「できることなら告白した相手を連れ出して走り出したいくらい?」
「えっ!? う~ん……」
恵志は、詩苑の腕を引っ張って、あらゆる場に連れていく様を想像する。
あきれながらも隣で口元を緩め、隣の詩苑が歩いている。できることなら、同じ歩幅で。
「楽しい……かもしれない。でも、友達でも親友でも、そういうことはできるんじゃないのかなとも思ってしまう自分はいる。恋かどうかは勘違いかも……」
「恋なんて勘違いからしか生まれないだろ。なんでも勘違いしないと、人生動かないんだぜ」
あ~年長者っぽいこと言っちゃった、嫌だねぇと自分で肩を落としている由浩だったが、すぐに思いついたように手を打った。
「とりあえずその気持ちをさぁ、演技に使いなさいな」
「えぇ……?」
食べかけのチョコミントを指揮棒のように恵志に向け、由浩は提案した。
「混乱していて、その気持ちがなんなのかわからない、でも感覚は掴めたんだろ? 詩苑に見せるまで時間がないんだから。さっきの気持ち思い出しながらやってみなよ。今ならなれるよ、姫を奪いたい、怪盗にさ」
恵志は、先日大我に言われた一言を思い出した。
『誰かを愛したり胸が震えるほど一緒にいたくなったり、必死になって奪いたいほど近くにいたいと思える存在はいたか?』
「ああ、この気持ち、大我先輩が示したことと似てるんだ……できるかも」
今なら姫に焦がれ、奪ってしまいたいほどの気持ちを表現できるかもしれない。
恵志は、つい、食堂にいるにも関わらず、右手を突き出し、最初の怪盗のセリフを口にした。
「『お姫様を、奪いに行くぞ!』」
恵志は脳裏に、詩苑の表情を思い浮かべる。
心臓がどくどくと波打ち、出した右手をこぶしに変えて胸元に寄せる。
愛する人と一緒にいたい。そんな簡単なことが、この先、許されないかもしれない怪盗に想いを馳せるその単純な願いが、怪盗として許されないのだと考えた。
そんなの、奪いに行きたいに決まってる!
「『どうしても君と一緒にいる未来を諦めたくないからな!!』」
食堂中の視線が、恵志に集まり、目の前にいた由浩までもが固まってしまうほど、芯のある恵志のセリフが、遠く遠く響く。
恵志は、爛々と目を輝かせた。
「ヨッシー先生。俺、怪盗の解答がわかったかもしれない」
「せっかくかっこよかったのに、洒落で台無しにするな」
張り詰めた空気が突然緩んだ食堂に、「なに今の?」「恵志様かっこいい~」などと再びざわめきが戻る。
由浩は溶け始めたチョコミントを食べきり、残ったプラスチックの棒を無造作に横に振りながら、「まぁ、なかなか良かったんじゃない?」と、満足気に軽く拍手した。
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