第50話 暗夜の薔薇

「ありがとう、翠羽。」

凛音は黒い装束の襟元を整えながら礼を言った。その隣で、翠羽が黒いヴェールを手に取り、丁寧に凛音の顔にかけていく。


厳密に言えば、これが凛音にとって初めての正式な暗殺者の装束だった。この装束とヴェールは、翠羽が心を込めて一針一針縫い上げたものだ。

「殺し屋なんて関係ない。命を救ってくれた凛音様がいなければ、私は今ここにいない。」

この装束には秘密がある。一見ただの黒い布に見えるが、近くで見ると細かな刺繍が施されていた。黒い糸で描かれた無数の薔薇の模様。それは、翠羽が凛音に向けた感謝と憧れの象徴だった。

「暗闇に咲く薔薇みたいだ、凛音様は。」

そんな思いを込めたこの衣装が、凛音を守り、彼女と共に戦う支えになればと願っていた。


傍らでその光景を見ている清樹は、ただ拳を握りしめ、悔しそうに目を伏せた。

「僕がもっと強ければ……凛音様と一緒に戦えるのに……」

幼さゆえにまだ刀を振るう力も満足にない自分が恨めしかった。


けれど、今ここにいる彼ら三人――それぞれに孤独を抱える者たちが、一瞬だけその孤独を忘れ、心を通わせていた。


書斎の灯りが煌々とともる中、慕侯爵は椅子に深く腰掛け、机の表面を指で軽く叩いていた。その顔には緊張と苛立ちが入り混じり、部屋の空気をさらに重くしている。背後には二人の護衛が立ち、鋭い視線で周囲を警戒していた。手に握られた武器が微かに光を反射する。


衛氏からの情報提供。そして、刺殺の危機を察知しているかのような慕侯爵の態度。そして、こんな状況に凛音がいること自体、全てが異様だった。


——まあいい。ここまで来た以上、後戻りはできない。


凛音は屋根裏の梁に身を潜め、部屋の様子を冷静に見下ろしていた。

パチン——

銀色の刃が空を裂き、部屋の中心にあった蝋燭を一瞬で吹き消した。鋭い音が静寂を破り、炎が途絶える。


「なんだ!」慕侯爵は思わず声を上げ、机に手をついた。その声には怒りと動揺が混じっていた。


さらにもう一本の飛刀が音もなく放たれる。蝋燭が次々と消え、部屋は完全な暗闇に包まれた。慕侯爵と護衛たちの姿はその中に溶け込み、周囲の景色は影すら見えなくなる。


「誰だ!何のつもりだ!」

慕侯爵の怒声が響く中、護衛の一人が低い声で命令を飛ばす。「落ち着け!動くな、敵を探せ!」


だが、この暗闇は彼らにとって完全な未知の領域だった。
凛音は蝋燭の炎が消える刹那、すでに目を閉じていた。光が失われた直後に目を開けた彼女の視界には、薄暗いながらも月光に照らされた部屋の輪郭が浮かび上がる。
視覚を封じられた護衛たちとは異なり、凛音はその場の状況を的確に把握していた。


「慕侯爵——」

冷たく低い声が暗闇から響き渡る。その声はまるで死神のささやきのように、相手の耳元を切り裂く。


慕侯爵はその場で硬直し、反射的に机の下に隠していた短剣に手を伸ばす。「誰だ!何者だ!」


その反応に凛音は口元にわずかな笑みを浮かべると、一気に行動に移った。
暗闇を味方につけ、影のように二人の護衛に近づくと、背後から素早く首筋を突いた。
「ぐっ……!」
短い呻き声とともに、護衛たちはその場に崩れ落ち、意識を失った。

月光がわずかに差し込む中、凛音は静かに姿を現し、怯えた様子で机の奥に縮こまる慕侯爵に目を向けた。

「お前には、話すべきことが山ほどあるだろう。」
冷たく低い声が部屋に響き渡る。


暗闇の中、慕侯爵は急いで火折子を手に取るふりをしながら机の引き出しに手を伸ばし、小さな香炉を取り出した。香炉の蓋が開けられると、静かな音と共に煙がゆっくりと広がり始める。


凛音は瞬時に異変を察知した。空気が僅かに重くなり、胸にかすかな圧迫感を覚える。視界の端で揺れる微かな煙、その違和感が彼女の警戒心をさらに研ぎ澄ませた。


――毒煙、ね。


凛音は即座に息を止め、ためらうことなく飛刀を手に取った。その目は香炉のわずかな輪郭を捉える。振りかぶる動作も一瞬、鋭い音と共に飛刀が香炉を直撃し、粉砕された。破片と共に煙の流れが止まり、部屋の空気が静けさを取り戻す。


「どうしたの?毒に頼るなんて。」

凛音の冷たい声が暗闇に響き渡る。


「くっ……さすがだな。」

慕侯爵の声はわずかに震えつつも、冷静を装っていた。彼は突然立ち上がり、短剣を握った手で凛音に襲いかかった。


凛音はその動きを冷静に見極め、即座に飛刀を放った。銀色の刃は短剣の柄を正確に切り落とし、床に鋭い音を立てて転がった。

「くっ!」
慕侯爵がひるむ間もなく、凛音は一歩前へ踏み込み、正確な蹴りを繰り出した。強烈な一撃が彼の膝を捉え、慕侯爵は耐えきれずその場に跪いた。


「白瀾国に来てからの十年間、あなたはただ食べて寝ていただけの役立たずだったの?武技を磨く気なんてさらさらなかったみたいね。」凛音は冷たい目で見下ろし、口元にわずかな笑みを浮かべながら言葉を続けた。「私は、この十年を、命がけで鍛錬してきたのよ。」



暗闇の中、慕侯爵の声が震えながらも狡猾な響きを帯びていた。

「私が全てを指揮していたわけではない……背後には、もっと大きな存在がいる。私はただの駒に過ぎないのだ。」

「駒ですって?」凛音は冷たく息を吐き、低い声で返す。「それは当然でしょう。命乞いに価値のない情報を使うなんて、賢くないわね。」


慕侯爵は明らかに動揺していたが、必死に平静を装いながら言葉を繋ぐ。

「私に命令を下していたのは……白瀾国の宮廷から派遣された者たちだ。名前は知らないが、彼らの計画は緻密で……逆らう術はなかった。」

「名前も知らない相手に従うなんて、あなたほどの人物が?どうやら、まだ隠しているようね。」凛音の声には冷笑が混じっている。「それとも、本気で私を舐めているの?」


「私があなたの代わりに言いましょうか。宰相と白瀾国の皇太后様も関与しているわ。でも私が知りたいのは、その宰相が今どこにいるのか。この国には他に誰が関わっているのか。そして、皇太后はどうしてそこまで雪華国を憎んでいるのか。」

凛音の冷たい視線が慕侯爵を貫く。一瞬たりとも隙を与えない。


「知ったところで何が変わる……?お前の行動なんて、全て徒労に終わるだけだ。」慕侯爵は必死に言葉を絞り出す。


「なら、あなたの選択でどれだけの人を犠牲にしたか、理解していますか?」

「犠牲?くだらない。ただの人間が死んだ程度で何を騒ぐ?歴史の中で生き延びるには、命なんて消耗品に過ぎない。」

「もう聞く価値もないわね。」凛音は冷たく言い放つと、静かに動き出した。


凛音は月光の中に立ち、背後の格子窓が淡い光影を映し出す。その手から放たれた最後の飛刀が、慕侯爵の喉元を正確に貫いた。彼は声を上げる間もなく崩れ落ちる。

「これ以上、雪華国の人々も、林家も、誰も傷つけさせない。」


慕侯爵の書斎で、凛音は机の隅にある灰の山に気づいた。灰の中には、燃え尽きずに残った紙片がいくつか散らばっている。

凛音は慎重に灰をかき分け、その中から文字がかろうじて読める断片を拾い上げた。

「……陶……太傅……」

凛音の目がわずかに細まり、手紙の灰を静かに握りつぶす。そして、低い声で独り言のように呟いた。

「……裏で糸を引いているのは、彼、ですか。」


一方、慕侯爵が白瀾国内部の権力争いに巻き込まれたという噂が、急速に広まっていく。その背後では、蓮が巧みに事態を操っていた。

「慕侯爵は敵を作りすぎたんだ。あの地位を守るために、奴は自分の周囲まで敵に回していたんだ。」

彼の言葉は次第に真実として認識され、凛音の暗殺という事実は煙のように掻き消されていった。


やがて慕侯爵の罪状――密貿易、賄賂、そして雪華国滅亡への関与――が次々と暴露される。

「あいつが生きている間に秘密が暴かれていれば、もっと苦しみ、処刑されることになっただろう。」

蓮は冷ややかにそう皮肉ると、混乱をさらに煽るように続けた。

「こんな形で死ぬなんて、むしろ奴にとっては幸運だ。」


皇帝は報告書を無言で読み終え、ゆっくりと視線を上げた。その冷たい瞳が静かに周囲を射抜く。

「慕侯爵が暗殺された、ということか。」

「はっ。しかし、犯人の足取りはまだ掴めておりません。」

報告する者の声は震えていたが、皇帝は微動だにせず、冷ややかな口調で命じた。

「いいだろう。犯人を探し出せ。その者が敵であるならば――すべてを燃やせ。」


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後書き:


記念すべき第50話、最後まで読んでくださりありがとうございます!今日は、凛音がついに「本当の意味での最初の仇」を討つ瞬間を迎えました。この仇敵には、実はこれまでの話に登場していた親戚がいるのですが……皆さん、誰だかお分かりでしょうか?


少しヒントをお出ししたい気持ちもあるのですが、ここはあえて黙っておきます(笑)。もしよければ、ぜひ前の話を読み返して推理してみてください!もしかすると、意外な人物にたどり着くかもしれません。


これからも物語はさらに盛り上がっていきますので、どうぞお楽しみに!

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