第44話 潜む暗流

凛音は一人で中庭の回廊を歩いていた。清樹はその後ろにぴったりと付き従い、何かを言いたげな様子だった。

秋の日差しが薄く石畳を照らし、時折吹く冷たい風が赤く染まった葉を舞い上げる。それでも、彼女の胸の内に渦巻く思いを静めることはできない。そんな時、横から聞き慣れた声が響いた。


「林家のお嬢様、この塾には慣れましたか?」


蓮は一冊の本を持ち、廊の柱にもたれていた。その姿はどこか余裕に満ち、まるでここで待ち伏せていたかのようだった。軽快な口調で語りかける蓮の唇には、淡い笑みが浮かんでいる。

清樹はその姿を目にした瞬間、思わず足を止めた。驚いたように目を見開き、表情が硬直する。



凛音も一瞬だけ歩みを止め、振り返ると、冷静ながらも警戒を込めた視線を蓮に向けた。
「必要以上に馴れ馴れしいのはご遠慮願いたいわ。」


蓮はわざと肩をすくめ、手に持っていた本をぱたんと閉じた。

「冷たいな、凛凛。それにしても、凛凛がこの塾に来るとは少し意外だったよ。」

「そうですね、『彼を知り己を知らば百戦危うからず』。それにしても、どうしてあなたがこの塾にいるのか──むしろ、それは私が聞きたいことですが。」


蓮は軽く笑い、そっと凛音に近づくと、低い声で彼女の耳元に囁いた。

「決まってるだろう。凛凛に会いたいからだ。凛凛のそばにいたいから。」


凛音は一瞬、動揺したように目を伏せたが、すぐに冷静さを装い、毅然とした声で言った。

「どうしてまたそんなことを言うのですか。もう会わないでください、とあの日言ったはずです。」


長い影が廊下に落ちる中、静かな足音が響き、冷たい空気が二人の間を通り抜けた。その瞬間、蓮は一気に凛音の手首を掴み、柱際へと押し込んだ。

「そうだよ。でも、私がそれを了承するなんて、一言でも言ったか?」

蓮の声はいつもより低く、冷静さの中に強い決意が滲んでいた。

「凛凛が何をしても、私はそばを離れない。……私の十年を、そんなに軽く見ないでくれ!」


凛音は思わず息を呑んだ。彼の言葉にはいつもと違う切実さがあり、強く彼女の心を揺さぶった。しかし、それでも簡単に折れるわけにはいかなかった。

「……そんなふうに言われても、困るわ。」

一瞬、彼女の瞳がわずかに揺らぐが、すぐに振り切るように背を向け、廊下を歩き去った。


残された清樹と李禹は、互いに顔を見合わせ、この場の状況を測りかねていた。しかし、その微妙な空気を破るように、蓮が不意に清樹へ向き直った。


「……君は、もう気づいているだろう?」
蓮の声は低く抑えられていたが、その中には確信めいた響きがあった。
「氷の湖底で、一度だけ仮面を外した。あの時のことを覚えているようだね。君の表情を見ればわかる。」


清樹は驚きに目を見開き、動揺を隠そうと視線をそらしたが、蓮の鋭い眼差しがそれを許さなかった。

「清樹、凛音には言うな。」


短くも命令に似た口調に、清樹は一瞬戸惑ったが、何かを悟ったように小さく頷いた。


それでも疑問が抑えきれなかった清樹は、おずおずと口を開いた。


「どうして……白瀾国の王子様が、そこまでして雪華国に関わるのですか?」


蓮は短く笑い、目を細めると静かに答えた。


「雪華国のためではありません。それを聞けば、不公平に感じるかもしれませんが、私にとって国は関係ない。」



少し間を置き、まっすぐ清樹を見据えて言い切った。


「どの国であろうと、彼女が行けば、私も行きます。どの時であろうと、傷ついた君を見れば、私も助けます。」

その言葉には飾り気も迷いもなく、ただ揺るぎない信念が宿っていた。清樹は何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。


翌日、私塾内は昨日と異なる微妙な空気に包まれていた。学員たちはいくつかの小さなグループに分かれ、低い声で会話を交わしていた。治国の核心についての議論が、いつの間にか皇室の未来についての話題に変わっていた。


「結局、あの方が継ぐべきなんだ。理想だけでは、国は動かない。」


低い声で言葉を漏らした一人に、隣の学員が慎重な口調で応じた。


「だが、現状でそんなことを口にするのは危険だぞ。」


「……わかっている。でも、彼は正しい。」


その言葉をきっかけに、さらに低い声で議論が広がっていく。


「結局、皇帝陛下が誰を選ぶかはわからないが、現実的な選択をしてほしいものだ。二皇子殿下のやり方は、どうにも……夢見がちというか、実際には難しいだろう。」


その言葉に、一部の学員は小さく頷き、また別の者たちは黙り込んで視線を落とした。


あの方……一体誰のこと?



凛音は教室内の座席に腰を下ろしながら、その言葉に耳を傾けていた。だが、さらに後ろから聞こえてくる声が、彼女の注意を引きつけた。

「目標は今日だ。ここで終わらせなければ、次の機会はない。」


「……痕跡は絶対に残すな。『上』からの指示だ。」


その一言一言が、凛音の胸に冷たい警鐘を鳴らした。



目標って……まさか……蓮?


ここは私塾のはず。なのに、実態は……もっと深い闇が広がっている。


……まずは、状況を見極める必要があるわ。
蓮には、まだ伝えないでおく。


凛音の胸には、これまで以上に強い疑念と警戒心が渦巻いていた。派閥間の争いが、この私塾の中にまで及んでいる――その現実が、彼女を新たな行動へと駆り立てていた。


その時、視界の端でわずかな動きが目に留まった。後方の席に座っていた一人の学員が、周囲に気づかれないよう静かに立ち上がり、足音を忍ばせながら廊下へと消えていった。


……何かが動き出した?


凛音は息を整え、迷わず静かに立ち上がった。気配を消しながら学員の後を追い、その向かう先を目で追う。廊下の先――昨日、蓮が佇んでいた中庭の方向だと気づいた。


まさか、蓮が……?


胸の鼓動が速まるのを感じながら、凛音は足を早めた。私塾という場所で軽々しく行動するわけにはいかない。それでも――もし本当に何かが起ころうとしているなら、その前に止めなければならない。

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