第45話 ただの挨拶

凛音は、近道を使って庭園へ向かう途中、何気なく足を止めた。

近くから聞こえる低い声――蓮と誰かが話している。彼女は木陰に身を隠し、耳を傾けた。


「明徳堂で磨かれた才覚は、私の力となるだろう。ですが……彼女は例外だ。彼女を、どんな代償を払ってでも私の側に置きたい。」

蓮の声には、これまで見せたことのない真剣さがあった。その一言に、凛音の胸がざわめく。


しかし、息を呑む間もなく、反対側から人の気配を感じ取った。

凛音は咄嗟に動いた。足音が近づく前に蓮の腕を引き、一気に茂みの中へと身を潜めた。

「静かに……!」

彼女は小声で言いながら、手で蓮の口を塞いだ。彼の瞳が一瞬驚きに揺れるが、すぐに彼も状況を察し、大人しく彼女の指示に従う。


向こうから現れたのは、一人の若い学員だった。きちんと整った服装に、どこか鋭い雰囲気を漂わせている。


「衛公子。」

陶太傅の穏やかな声が庭園に響いた。

「もうすぐ授業が始まりますよ。こんなところで何をしているのですか?」


「少々、散歩をしておりました。」

その学員――衛公子は軽く頭を下げ、さりげなく周囲を見回した。幸い、茂みに隠れている凛音と蓮に気づいた様子はない。


陶太傅はにこりと笑みを浮かべながら、「では、教室に戻りましょう」と促す。

衛公子が立ち去るのを見届けた後、陶太傅はわずかに茂みのほうに視線を送り、軽く頷いたように見えた。


蓮が茂みからそっと顔を出し、ため息を漏らした。

「君がここにいるのは想定外だったけど……今となっては、いい機会かもしれない。」



彼の目は真剣そのもので、軽い言葉の裏には確かな決意が宿っていた。


「凛凛、君が何を聞いたのかは知らないが、私はこの国を変える。それが目指す唯一の道だ。」


凛音は彼の言葉を静かに聞いていたが、視線は揺るがなかった。


「この国を変える?そんなこと、どうして今のあなたにできるの?」


問いかける声は冷静だったが、その裏には彼女自身の迷いもあった。


蓮は一瞬、目を閉じてからゆっくりと口を開いた。


「本当は、王位なんて興味がなかったんだ。自由に生きる方がずっといいと思っていた。」
彼の言葉にはほんの少し苦笑が混じっていたが、その次の瞬間には表情が引き締まった。


「だけど、私が見てきた現実はそれを許さない。守るべきものを守れず、歴史に飲み込まれていった人々……私は、それを二度と繰り返させない。」

蓮は凛音をまっすぐ見つめた。


「だから、私は王になる。私がこの国の未来を掴むことで、君が望む未来も守ることができる。」


その言葉には揺るぎない信念があった。


凛音は短く息を吐き、問いかけた。
「どうしてそこまで私に執着するの?」


蓮は微笑を浮かべたまま、静かに答えた。
「凛凛は凛凛の道を行く。そして、私はその隣で共に進む。君が望む未来を守るために、私も全力を尽くす。それが、私の答えだ。」


その瞬間、遠くから微かな足音が近づいてきた。
二人は一瞬動きを止め、音の方に視線を向けた。

「何かが近づいている……」
蓮は小声で呟き、凛音を庇うように一歩前に出た。


蓮は身構え、鋭い一撃を受け止めた。その瞬間、攻撃を仕掛けた人物の顔が視界に入る。

「……逸。」
蓮はわずかに目を見開き、動きを止めた。

一方で、逸は兄の一瞬の躊躇を見逃さなかった。瞬く間に凛音に向き直り、その手首を掴み、一気に引き寄せる。



「やはり兄上の弱点は、林家のお嬢様でしたね。」


挑発的な笑みを浮かべる逸の声には、はっきりと皮肉が滲んでいた。


「弱点?」
凛音は冷たい声で返した。その瞳にはわずかな苛立ちが光るが、落ち着きを失う様子は微塵もない。
彼女はすかさず鋭く肘を逸の胸元に叩き込んだ。



「っ……!」
苦痛の声を漏らした逸がよろけた隙に、凛音はさらに動きを見せる。

一気に振り上げた脚が鋭い弧を描き、逸の頭部を狙う。

だが――その瞬間、凛音の足はぴたりと止まった。

風を切る音だけが響き、蹴りの衝撃が届くことはなかった。



「……これでも弱点に見える?笑わせないで。」


冷たく吐き捨てられた凛音の言葉が、逸の耳元に突き刺さる。


蓮はその光景を見届けると、一歩後ろに下がり、凛音の毅然とした姿に目を留めた。瞳に柔らかな光を宿し、自然と笑みがこぼれる。


「さすが、凛凛だ。」


その声には、心底から湧き上がる愉快さと誇らしさが滲んでいた。


逸は口元に薄い笑みを浮かべながら、乱れた呼吸を整えた。


「いやはや、さすが兄上ですね。こんなに優秀な護衛をお持ちとは。」


その目は一瞬だけ凛音に向けられたが、そこには意味深な色が見え隠れしていた。


「今日はただの挨拶です。兄上と林家のお嬢様、どうぞ仲良くなさってください。」


蓮は逸を警戒しながらも、その挑発に乗らず静かに言葉を返した。


「挨拶代わりにしては、少々手荒すぎないか?」


逸は笑みを崩さず、軽く肩をすくめる。



「兄上も、林家のお嬢様も、噂以上に素晴らしい方ですね。これでは敬意を表さないわけにはいきません。」
その声には、皮肉めいた甘さが混じっていた。


凛音は逸を冷ややかに見つめながらも、冷静さを保ちつつわずかに一歩引いた。


「兄上の強さ、まったくもって見事ですね。僕には到底及びません。」


逸はわざとらしく周囲を見渡しながらそう言い、蓮にちらりと振り返った。


「ただ……兄上には、ぜひとも頑張っていただきたいものです。」


その言葉には、毒にも似た甘さが滲んでいた。


逸が完全にその場を後にすると、蓮は静かに息を吐いた。そして、凛音に目を向けながら穏やかな表情を浮かべた。
「凛凛、大丈夫だったか?」


「ええ、大丈夫よ。」
凛音は冷静にそう答えたが、その瞳にはなおも鋭い警戒心が宿っていた。「でも、あの人……わざわざこんなことをして、何を企んでいるの?」


蓮は苦笑を浮かべつつも、どこか真剣な色を滲ませた声で語り始めた。


「逸は、僕に期待していた時期があった。兄弟として何かを共有できると思っていたんだろう。」


彼は少し遠くを見つめるようにして、言葉を続けた。


「だけど、僕が王位に興味を持たなかったせいで、彼は一人で戦わざるを得なくなった。その結果……今のようになったんだ。」


「期待……?」
凛音は眉を寄せた。
「それなら、どうしてあんなふうに歪んでしまったの?」


「それは……僕が甘かったんだ。」


蓮の声には、自分の過ちを背負うような重さが感じられた。


「逸は、誰よりも賢い。でも、その賢さを正しく導けなかったのは、僕の責任だ。」


凛音は短く息を吐きながら、その言葉を受け止めた。


「兄弟って……難しいのね。」


その声には、ほんの少しだけ彼女自身の感慨も滲んでいた。


蓮はふっと微笑み、凛音を静かに見つめた。


「そうだな。でも、凛凛が側にいてくれるだけで、不思議と乗り越えられる気がする。」



凛音は一瞬だけ表情を緩めたが、すぐにいつもの冷静さを取り戻し、言い放った。
「……甘えないで。」


遠くから足音が近づく気配を感じ、二人は同時に周囲に目を向けた。


「行こう、凛凛。ここで目立つのは得策じゃない。」


蓮が軽く手を差し出すと、凛音はそれを無言で受け入れる形でその場を離れた。


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こんにちは!今日は寒いですね。でも、いいお天気〜。

私は小説を書く初心者で、更新頻度や何話更新するか、まだまだ悩むことが多いです。週末にはいろいろな更新方法を試してみましたが、やや複雑だと感じておりますので、今日からは毎日14時と20時に更新することに決めました!

これまでご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません。これからも温かく見守っていただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします!

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