第43話 理性の剣、心の盾
陶太傅は、白瀾国で最も信頼される学者の一人であり、かつては皇室に仕える要職にも就いていた人物だ。 その名声にふさわしい気品と豊かな知識を持ち、凛音も林将軍の口からその名を聞いたことがあった。
しかし――。 彼は十年前に宮廷を去り、それ以来、消息を絶っていたはずだ。 それがどうして、今になって戻ってきたのだろうか?
「さて、今日は皆さんに問いたい。治国の核心とは何だと思いますか?」
講師の陶太傅が、落ち着いた口調で話し始めた。教室内が一瞬静まり、その後、学員たちのざわめきが広がった。
「軍事力だろう!」 一人の学員が勢いよく声を上げる。「国を守るためには、何よりも強い軍隊が必要だ。」
「それでは暴政を生むだけだ。」 別の学員が眉をひそめて反論する。「徳のある政治でなければ、人心は離れてしまう。」
次々と意見が飛び交う中、陶太傅は手を軽く挙げて場を収めた。 「では、林家の娘君はどう考えますか?」 彼の視線が静かに凛音に向けられると、教室内の視線も一斉に彼女に集まった。
凛音は一瞬だけ周囲を見渡し、静かに立ち上がった。 「私の考えでは、理性です。」 彼女の澄んだ声が教室内に響き渡り、場の空気を変えた。
「軍事力は身外の物です。武器や兵士、それ自体は個人の力ではありません。それをどう使うかを決めるのは理性です。」
「徳のある政治も重要でしょう。しかし、徳だけでは国を守れない時があります。一生徳を保ち続ける保証もありません。」
「殺すのには冷静な理性が必要です。守るためにも同じだけの理性が必要です。そして、国を滅ぼすにも、国を救うにも、感情に流されない判断が不可欠です。」
凛音は淡々と語りながら、その言葉に込めた感情を表には出さなかった。
「武力や徳治は、どちらも美しい言葉に聞こえるでしょう。しかし、それらを支えるのは冷静な判断と理性です。それこそが国家を成す真の核心だと考えます。」
話し終えると、教室内には一瞬静寂が訪れた。
陶太傅は微かに目を細め、静かに頷いた。 「なるほど、理性ですか。実に興味深い考え方です。」
教室内の空気が落ち着きを取り戻したところで、陶太傅は再び教壇に目を向け、話を続けた。 「では、治国の核心について考える上で、一つ具体的な状況を提示しましょう。」
「例えば、ある国の重臣が敵国に寝返り、内通している証拠をつかんだとします。しかし、彼を処刑すれば、国内で反発が起き、逆に国を乱す恐れがあります。この場合、どうすればよいでしょうか?」
学員たちは一瞬考え込み、やがて次々と意見を述べ始めた。
「やはり証拠を公開して、罪を問うべきです。」
「いや、それでは騒ぎになる。密かに処刑して事実を隠すべきでは?」
陶太傅は特に表情を変えず、意見を聞き流していたが、ふと視線を凛音に向けた。 「林家の娘君は、どう考えますか?」
凛音はゆっくりと立ち上がり、澄んだ声で答えた。
「彼を処刑する必要はありません。もっと効果的な方法があります。」
教室内がざわつく中、彼女は冷静に続けた。
「彼の最も親しい者、例えば家族や親友を利用します。その者を協力者として仕立て上げ、内通者自身に証拠を暴かせる形にすれば、反発は最小限に抑えられます。」 「さらに、その過程で彼を公然と失脚させ、彼の行動がいかに危険だったかを人々に示すことができます。そして、その瞬間が訪れたら、彼を消すべきです。処刑は単なる暴力ではなく、計画された一手です。それにより、混乱を最小限に抑え、国を守る理性的な選択となるでしょう。」
凛音の言葉に、教室内は再び静まり返った。
「冷徹すぎる意見ですね。」 その声の主は、学員の一人で名門出身と噂される青年だった。彼は腕を組みながら、冷笑を浮かべて言葉を続けた。 「理性という言葉に隠された冷徹さが、恐ろしく思えます。国家のためとはいえ、人の命を駒にする発想は、人心を失う元ではありませんか?」
教室内が再びざわつき、数名の学員が彼に賛同するように頷いた。
「確かに、殺すのも守るのも理性が必要だなんて、怖すぎる発想だ。」
「家族や親友を利用するなんて、それこそ非道ではありませんか?」
「そういう発言を平然とできるのは、きっと人の命の重みを知らないからだ。」
凛音は冷静にその声を聞き流していたが、やがてゆっくりと立ち上がり、挑発的な視線を受け止めた。
「命の重みを知らない、ですか?」
その唇に微笑が浮かんだが、冷たい響きがその声に宿っていた。
「命の重みを語るのは簡単です。でも、感情や理想だけで治国しようとすれば、陰謀や策略に翻弄され、国家全体が無意味に滅びることだってあるでしょう。」
一瞬間を置き、鋭い視線で先の学員を見据えながら続けた。
「それを非道だと言うなら、現実を見ようとしていないだけです。国家を守るために何が必要か――理性を欠いた綺麗事では到底届きません。」
陶太傅は教室全体を見渡し、穏やかな口調でまとめに入った。
「治国とは、単に武力や徳治だけで成り立つものではない。理性による判断が、時に最も重要な要素となる。今日の議論が皆さんにとって考えるきっかけになれば幸いです。」
彼は視線を凛音に向け、わずかに口元を緩めた。 「林家の娘君の意見は特に印象深かった。これからも、自らの理性を信じて考えを深めていきなさい。」
教室内が再びざわつき始める中、凛音は静かに視線を落とした。陶太傅の最後の言葉が、どこか意味深に思えたのは気のせいだろうか――
彼はゆっくりと教壇を降りた。視線はそのまま凛音に向けた。
やはり、蓮殿下が言っていた子だな……
果たして、これほどまでに似ているとは。
あの年齢で、これほどの気高さを……
こんなにも苦労してきたのだろう。
これからの彼女を、どう導いていくべきか……
その視線に気づいた凛音は、ふと顔を上げ、短く彼を見ただけで、すぐに視線をそらした。そして、ざわめく教室を背に、その場を後にした。
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