第42話 明徳堂の初日

あの皇帝は、私を試すつもりなのか。ただの私塾で終わるとは思えない。


でも――せっかくの場だ。利用できるものは、徹底的に利用させてもらうだけよ。


宮中の私塾「明徳堂」の門前で立ち止まった凛音は、小さく息をついた。


緊張していないわけではないが、心の中では数多の可能性を想定して準備を重ねてきた。


今日は失敗が許されない。清樹も侍者として同行している以上、余計な気を使わせるわけにはいかない。

おそらく、蓮もこの中にいるだろう。あの夜以来、彼とは顔を合わせていない。


「もう二度と会わないでください」と自ら告げたはずなのに――。


結局、自分からここへ足を踏み入れることになるとは。


「明徳堂」という名前は、『大学』の一節「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まるに在り」から取られたものだ。

しかし――雪華国の民を滅ぼしたこの国にとって、この教えはなんと皮肉なことだろう。


そう心の中で呟きながら、凛音は一歩踏み出し、明徳堂の門を押し開けた。


視線の先には、すでに学員たちが三々五々に集まり、何かをひそひそと話している。彼らの視線が一瞬こちらに集中し、その直後にまた囁きが広がった。


「林将軍の娘が来たって本当なのか?」


「さっき見たけど……やっぱりすごい雰囲気だよな。」


「それにしても、何でこんなところに……」


凛音はその言葉を耳にしながら、ゆったりとした歩調で堂内へと進む。

淡い水色の上襦と下裙に身を包み、腰には玉佩があしらわれた帯を締めている。髪には翡翠簪が差されており、これは以前、蓮から返されたものだ。余計な装飾はなくとも、その清雅で整った姿は自然と周囲の視線を引きつけていた。


その少し後ろには、侍者の清樹がぎこちなくもきっちりとした姿勢で歩いていた。
清樹は手を胸の前で組み、何度か足を踏み外しそうになりながらも懸命に歩調を合わせている。


「凛音様……皆がこちらを見ています。」


清樹が小声で囁くと、凛音は淡く微笑み、わずかに顔を横に向けた。
「ただの好奇心よ。気にする必要はないわ。」

そう言いながらも、凛音は周囲の視線の意味を鋭く見極めようとしていた。


この場に集まる視線――その裏に潜む感情は何か。友好か、それとも敵意か。


凛音は特に誰にも声をかけず、教室の一角にある空席を見つけ、静かに腰を下ろした。
その時、扉が開き、二人の姿が現れた。


「二皇子様だ……」


「どうしてこんな所に?」


ざわめきが広がる中、蓮はその視線を意に介した様子もなく、やや気だるげな足取りで堂内へと進んだ。彼に付き従う李禹が一歩後ろに控え、無言で周囲を見回している。
学員たちは自然と道を空け、蓮はそのまま後方の席に目を向けて歩き、ゆったりと腰を下ろした。


凛音からあえて距離を取ったかのように見える位置だったが――彼の視線がちらりとこちらに向けられるのを、凛音は敏感に感じ取った。


やがて、低い囁き声が学員たちの間で交わされる。


「聞いたか?皇帝陛下が林将軍の娘を蓮殿下に許婚として与えるつもりだとか。」
「でも、蓮殿下、全然興味なさそうだよな。」


その言葉が耳に届いた瞬間、蓮は囁いていた学員たちに鋭い視線を向けた。その視線には、普段の気だるげな態度とは違う力が宿っていた。


「っ!」
学員たちはその目に気圧され、慌てて口をつぐむ。


だが、その直後。
蓮の表情は柔らかく緩み、そっと凛音の方を一瞥した。
しかし、視線が重なる前に目をそらし、彼は少しうつむいて気まずそうに頭を下げた。


突然、場の空気を打ち破るように、明るい声が響いた。

「林家のお姉さんって噂は本当だったんだ!すごい美人だし、逸のお嫁さんにならない?」


その声の主は、白澜国の第三皇子、南宮逸だった。彼は好奇心に満ちた瞳で凛音をじっと見つめ、悪びれる様子もなく言葉を続けた。

「お姉さん、どうしてここに来たの?名家のお嬢様なら、おとなしく家で過ごしているものじゃないの?」


逸の無邪気な問いかけに、周囲の学員たちがざわつき始めた。

「まさか、三皇子がここまで直球で話すとは……」

「でも、ちょっと失礼じゃない?」


「逸!」

蓮の声が鋭く響いた。

「そういうことは軽々しく口にするな。」


彼の顔には一瞬、抑えきれない怒りの色が浮かんだが、すぐに息を整えるように目を閉じ、散漫な態度を装って続けた。

「それに、彼女がお前の軽口に付き合うとも思えない。全く、お前には品位というものがないのか。」


そう言いながら、蓮はちらりと凛音に視線を向けた。

……彼女のことをそんな軽々しく語られるのは、許せない。そして、彼女をそんな簡単に渡すつもりもない――絶対に。


「兄上、そんな怖い顔しないでよ。」


逸は満面の笑みを浮かべ、さらにからかうように続けた。
「まあ、怒るってことは、それなりに彼女が好きなんでしょ?」


その瞬間、蓮は目を見開き、一拍置いてから顔を赤く染め、そっぽを向いた。


一方の凛音も驚きつつ視線を伏せ、手元の衣袖を軽く握りしめた。周囲からは小さな笑い声が漏れる。


「……黙れ、逸。」


その静かなざわめきの中、凛音は顔を上げ、毅然とした声で言葉を紡いだ。


「殿下、お言葉ですが、知識を求める場において、性別が何の関係があるのでしょうか。重要なのは性別や衣装ではなく、この場において、あなた自身が何をもたらすかだと思います。」


教室内の空気が一瞬で静まり返った。

逸は目を丸くし、口を開きかけて何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。

一方、蓮はその言葉を聞いて一瞬驚いたような表情を浮かべた後、薄く微笑みながら視線をそらした。


その時、明徳堂の講師である陶太傅が静かに登場した。

儒雅な長衫に身を包み、整った髪と穏やかな佇まいからは、学者としての威厳が漂っている。

鋭い目つきで教室を見渡すと、一瞬、その視線が凛音の上で止まった。

「……あの人に似ているな。」

陶太傅の低い声は、自分にしか聞こえないほどの小さな囁きだった。

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