第四章:明徳の道、心に乱あり
第41話 朱門を越え
雪華国から戻って数日。
不思議なほど、静けさに包まれている。
清樹はお兄様の元で正式な指導を受け始めた。
将軍府の一員として、相応の礼儀や知識を学ぶ必要があるらしい。
「もう君の弱点にはなりたくない。」
彼はそう言って、必死に勉強に励んでいる。
その言葉と姿勢だけで、胸が温かくなる。
浮遊は雪華国から離れたせいか、少し元気をなくしているようだ。
最近はほとんど眠ってばかりだが、それでも少しずつ力を取り戻しているのか、体は以前よりも実体に近づいている。
ただ、かつての冷たく鋭い威厳は消え、今はどこかふわふわとして柔らかくて、ちょっと可愛らしい気がする。
李禹は、きっと蓮の元に戻ったのだろう。 それ以外に彼の行き先は考えられない。
洛白は王都には興味がないと言い、何の挨拶もなく去って行った。
別れの言葉さえ交わさなかったけれど、それが彼らしい気がして、妙に納得してしまった。
静寂の中にいると、雪華国での出来事が頭をよぎる。 あの不思議な空間、氷の壁画、雪蓮、そして浮遊が語ったこと―― すべてが今も心の奥に鮮やかに焼き付いている。
けれど、物語はまだ終わっていない。
守るべきものがあるなら、奪うべきものもある。
私はその両方を、この手で果たしてみせる。
「凛音、今は良いか?」
「はい、お父様、どうぞお入りください。」
凛音の部屋は、静けさと気品が見事に調和した空間だった。薄い纱の幔帳が風に揺れ、窓際の纱には繊細な花鳥の刺繍が施されている。ほのかに漂う檀香の香りと、赤みを帯びた木製家具の落ち着いた佇まいが、部屋全体に穏やかな雰囲気をもたらしていた。
部屋の左手には屏風が立ち、その向こうには古筝の影がかすかに見える。
壁にはひときわ目を引く絵が飾られていた。
小さな蓮の蕾が尖り始めた先に、一匹のトンボが軽やかにとまる――そんな一瞬を切り取ったかのような美しい絵だ。その情景は、まるで詩句「小荷才露尖尖角、早有蜻蜓立上頭」をそのまま映し出したようで、見る者の心を奪う。
「凛音、今回はよく戻ってきてくれたな。実はしばらく休んでほしいところだが、皇帝陛下がお前をお茶会に招待された。」
「お父様、それはいつでしょうか?」
「急な話だが、今日の午後だ。一緒に来られるか?」
「承知いたしました。もちろんお供します。それにしても、お父様も急なご連絡で大変ですね。」
白瀾国の皇宮に行ったことは一度もない。
私がまだ若いという理由もあるだろうが、今思えば、それはお父様と蓮が私のことを気遣ってくれていたからかもしれない。
それでも、雪華国が破滅しなければならなかった理由を知りたい。
過去の映像で見たあの場面、壁には確かに白瀾国の紋章が刻まれていた。
それが皇宮のどこにあるのか、まだわからない。
だが、あれが皇宮であることに間違いはない。
白瀾国の皇宮は、雪華国とは異なる荘厳かつ華美な雰囲気を纏っている。
朱漆の門、瑠璃瓦、そして梁や棟には細やかな彫刻が施され、どの柱にも金漆で彫られた龍が絡みつくように描かれている。その龍たちは、まるで今にも飛び出しそうなほどに生き生きとしているが、それが作り物であることを忘れさせるほどの精巧さだ。
その壮麗な景観は、ただ一歩足を踏み入れただけで、皇族の威厳と奢華さを肌で感じさせる。
さらに、宮殿の最頂部には、赤金で彫り上げられた朱雀が悠然と鎮座している。その朱雀の瞳には深紅の紅玉が嵌め込まれ、尾羽には鮮やかな赤い水晶があしらわれており、陽光を受けるたびに煌めき、まるで空を舞うかのような動きを想像させる。
「それは気に入らないわ。なぜ朱雀がわしの頭の上にいるのか?」
「しょうがないよ。この国では朱雀が守り神だったんじゃない?」
その彫刻を見て、凛音と浮遊はコソコソと話し合っていた。
「浮遊と同じであれば、朱雀もどこかで動いていたはずだ。しかし、李禹の話によると、誰も朱雀を見たことがないらしい。」
「それは嘘だ。この国に入った時から、わしは朱雀の気配を感じている。まあ、ただの鳥だし、何を期待しろって言うんだ。」
凛音は微笑みながら言った。
「さあ、白瀾国の皇帝が何を企んでいるのか、のぞいてみましょうか。浮遊はお喋り禁止よ。」
今回のお茶会は、皇帝の書亭「池雲居」で開かれる。
その名の通り、蓮の池の上に建てられた場所で、周囲には雲のように連なる奇岩や庭石が配置されている。さっきの宮殿とは違い、なんだか肩の力が抜ける雰囲気だ。とはいえ、こんな場所こそ、相手の本音を探るにはうってつけなのかもしれない。
さて、今日は誰の本音が暴かれるのか──楽しみにしておこう。
凛音は、膝を軽く屈め、両手を腰の前で優雅に揃えた。その動きは、かつて皇帝に初めて謁見した際、長衣の両端を大袈裟に持ち上げ、女性であることを強調したあの大胆な仕草とは明らかに異なっていた。あくまで宮廷の礼儀に従ったものであり、その整った姿勢には、冷静な計算と皇帝への敬意が微妙に入り混じっていた。
「陛下、ご機嫌麗しゅうございます。今回はお招きいただき、心より感謝申し上げます。」
「いいだろう。今回はただ友人の娘と茶を楽しみたいだけだ。堅苦しい礼儀は抜きにして構わん。席に着きなさい。」
凛音は柔らかな声で「ありがとうございます」と一言述べると、静かに礼をし、姿勢を正しながら席に着いた。
「林将軍、良い娘が育てましたね。朕の娘として迎えてもいいくらいだ。どうだい、いっそ我が家の者になっては?」
「勿体ないお言葉です。小女は至らぬところばかりで、皇室の御方に相応しい器ではございません。将として厳しく育てて参りましたゆえ、礼儀もままならず、皇室にご迷惑をお掛けする恐れがございます。」
「それは、それは。十分に気品があると朕は見ている。」
皇帝は凛音に目を向け、穏やかな口調で続けた。
「凛音は、大皇子の羽、二皇子の蓮、三皇子の逸の中で、誰が気に入った?」
その言葉に、物陰に隠れていた蓮は思わず心の中で叫んだ。
「バカ親父、何を言ったんだ!」
「陛下、私は蓮殿下しか存じ上げませんでしたが、今はもう少し自分を鍛えたいと考えております。」
皇帝は何かを思うように凛音に目を向け、満足げな笑みを浮かべて言った。
「そういえば、鍛錬の話だが、今回の境界村行きで何か得るものはあったか?それと、林将軍の病は良くなったのか?」
「お父様の病気は治りました。雪蓮は一つしか見つかりませんでした。幸い、途中で出会った洛白という名医が、それを使って薬を作ってくれました。」
まあ、半分は嘘だ。敵に信じさせるには、全部が真実でも、全部が嘘でもいけない。
「そうなんだ、それはありがたいことだ。その医者は今どこにいるのか?」
「それは存じません。どうやら彼は再び旅を続けているようです。」
皇帝は少し微笑みながら続けた。
「それで、他には何か面白いことでもあったのか?」
「そうですね。面白いと言えば、境界村とその隣の村の人々が皆、死んだり、怪我を負ったりしていました。誰かが故意にやったんじゃないですかね?」
皇帝は突然顔色を変えた。凛音がこのように答えるとは、さすがに予想していなかったのだろう。
林将軍は慌てて制止し、「凛音!」と声を上げた。そしてすぐに皇帝に向き直り、深々と頭を下げながら言った。
「陛下、どうかご容赦ください。」
「陛下ほどのお力をお持ちであれば、このようなことはすでにご存じではないのですか?」
凛音は一拍置いて、さらに続けた。
「それに、傭兵団の話によると、皇家や高官も何かしら関わっているそうです。」
皇帝は凛音の言葉を静かに聞き終えると、微笑を浮かべた。
「なるほど。興味深い話だ。その傭兵団の詳細も、後で報告させてもらおう。」
少し間を置き、皇帝は凛音に視線を向けた。
「凛音、お前には目覚ましい才能がある。だが、戦場だけでなく、知識を磨くことも必要だ。ちょうど宮中の私塾で優秀な師を迎えている。お前もそこで学んでみるといいだろう。さて、今日はこれくらいにしておこう。」
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