第40話 青龍と鳳華

前書き:

第一部『運命の雪華』は、ここでひとまず幕を下ろします。この第一部は、凛音にとって、真実を探し出し、それに向き合うための大切な始まりでした。


そしてここで、少し特別な物語をお届けします。番外編のようなものですが、それは、青龍と最初の王女・鳳華が出会い、雪華国の歴史が動き出した瞬間を描いた物語です。雪の眠りに宿された絆は、百年後の未来に新たな希望を託して——どうぞお楽しみください。


1、白銀の眠り、君を待ち


遥か昔、天地が創られた時、四つの神獣が世界の均衡を司る使命を授けられた。


朱雀は炎熱の南を守り、白虎は静寂の西を統べ、玄武は神秘に満ちた北に住まう。


そして青龍は、白銀の雪原に覆われた極寒の大地に眠る。

伝承にはこう記されている――


青龍は「純粋なる信念」を抱く者にのみ、その力を授ける、と。


だが、その「純粋さ」とは一体何なのか。


青龍自身ですら、その答えを見いだすことはできなかった。

かつて、青龍は長き悩みの果てに決めた。


東の雪山の深奥へと身を隠し、氷の棺に自らを閉ざすことを。


そして、再び人間が自分のもとにたどり着く日を、静かに待ち続ける道を選んだ――


長き眠りの中で、遠く微かな祈りや欲望の声が幾度も届いていた。

それらはいつも混じり気のあるもので、わしが目覚めることはなかった。

だが、このとき――静寂を裂く声が、突然洞窟に響いた。


「……これか。」
少女の声だった。

彼女は足元に広がる雪を軽く払いつつ、洞窟の奥に咲く一輪の花を見上げていた。

それは、氷壁に閉じ込められるように咲く雪蓮。

青白く輝く花弁は、凍てついた月光を映し出したように透き通り、その根元には細かな氷の結晶が静かに絡みついていた。

少女は手を伸ばし、その花にそっと触れた。

指先に伝わる冷気が手袋越しにまで沁みる。鋭い冷たさに一瞬だけ指が強張ったが、彼女は表情を変えず、慎重に雪蓮を摘み取ろうとする。

「これさえあれば、きっと……!」


小さく呟いたその瞬間――洞窟全体が低く唸りを上げた。


「誰だ……貴様!」


雷鳴のような声が洞窟内に轟き、巨大な体が氷の奥からゆっくりと動き始めた。

目の前に現れたのは青龍――まるで山そのもののように大きく、全身を覆う青白い鱗が冷たい光を放っている。

少女は声の主に目を向けると、少しだけ眉をひそめた。


「うるさいわね……」


そう小さく呟くと、雪蓮の摘み取りを再開する。


「待て!」


龍が鋭く咆哮すると、その瞳が改めて少女の姿を見据えた。


頭には雪を思わせる柔らかな白い毛皮の冠があり、青い水晶が縫い込まれた飾り紐が横に流れている。顔の下半分は薄い絹物で覆われ、目元だけが見えるが、その瞳には疲労の中にも鋭い意志が宿っていた。

白を基調とした長いドレスは軽やかで、歩くたびにふわりと揺れる。腰に巻かれた羽飾りが静かに音を立て、衣のあちこちに刺繍された鳥と花の模様が、生命の気配を漂わせていた。


少女の装いは、冷たい光の中で一層際立っていた。


青龍は苛立ちを露わにし、地面を軽く踏み鳴らした。それだけで、洞窟全体が震えた。


「お前はわしの眠りを妨げただけでなく、このわしの守る雪蓮に手を伸ばした……その意味が分かっているのか?」

少女は振り返り、無表情のまま短く答えた。


「知らないわ。」


「知らないだと?」


青龍は、そのあまりに素っ気ない返答に、一瞬言葉を失った。鋭い瞳が僅かに見開かれるが、すぐに怒りを込めて低く唸る。

「お前、このわしを誰だと思っている!」


すると、少女は淡々と肩をすくめながら答える。


「ただの大きな龍でしょう?そんなことより、この雪蓮、どうしても必要なの。」


そう言うと、再び花に手を伸ばした。

「なんだと!?」


青龍はその言葉に完全に呆然としながらも、威圧的に問いかけた。


「お前、人間ごときがわしに逆らうというのか?わしの力を恐れないのか?」


少女はその言葉に耳を貸さず、再び雪蓮を摘み取ると、丁寧に布に包んで背負った。
「そんなこと、どうでもいいわ。」


振り返ることなく洞窟を出ようとする彼女に、青龍はなおも声をかける。


「お前、名を言え。」

少女は一度立ち止まり、小さく振り返った。


「鳳華。」


そして再び前を向き、歩き出す。


次の日、また次の日、また次の日――鳳華は再び洞窟を訪れた。


時に雪蓮を探し、時に青龍をからかうように話しかける。

青龍はその度に苛立ちながらも、彼女の言葉を聞き流すことができなかった。

洞窟の静寂は、いつしか微かな命の鼓動を宿し始めていた。


雪蓮を手に取るその姿は、初めこそ乱暴にも見えた。

だが、鳳華はその花を傷つけることなく、むしろ大切に扱う手つきに、嘘偽りのない敬意が感じられた。


彼女は花を使い、傷ついた者を癒し、倒れた旅人に手を差し伸べていた。

その背中には疲労と痛みが滲んでいたが、それでも歩みを止めることはなかった。


「……本当に、人間とは妙な生き物だ。」
青龍は氷壁の奥から低く呟いた。

目の前の鳳華が何かを証明しようとしているようなその姿に、いつしか目を奪われていた。


そして、気がつけばこっそりと助けの手を差し伸べている自分がいた。


吹雪の中で花が見つからないとき、氷柱の影に咲いた雪蓮を彼女の近くに落とし、旅人を守るように雪山の荒れた風を一瞬だけ和らげる。


「別に助けてやったわけではない。つまらないことに巻き込まれるのが嫌なだけだ。」


そんな言い訳を呟きながらも、青龍の視線はいつも鳳華のそばを追っていた。


ある日、鳳華はふと立ち止まり、青龍の眠る洞窟を見上げた。


静寂の中、彼女の声が響く。

「聞いているんでしょう?」


その瞳は氷のように冷たい光を帯びていながらも、不思議と穏やかだった。

「外の世界は荒れているけれど、一緒に外に出てみない?」


その言葉に、青龍は一瞬きょとんとした。

「……何?」
低い声で問い返す。


「だって、ずっとここに閉じこもってるんでしょう?」


鳳華は振り返りもせず、洞窟の外を指差した。


「たまには外の空気を吸って、景色でも見たほうがいいわ。きっと楽しいわよ。」


「楽しい……だと?」


青龍は呆れたように鼻で笑った。


「お前、わしを誰だと思っている?人間の気まぐれに付き合うほど暇では――」


「ええ?ーー暇はたっぷりあると思うけど。」

鳳華は軽い調子で言い放つと、ちらりと振り返り、にやりと笑った。

「まあいいわ、気が向いたら外で待ってるから。」


青龍はその背中を黙って見送りながら、小さく息を吐いた。

「外の景色だと……。くだらない。」

そう呟きながらも、胸の奥には微かな好奇心が芽生えていることに気づいていた。


次の日、また次の日、また次の日――鳳華は再び洞窟を訪れた。

「まだ出てこないの?外は面白いものがたくさんあるのに。」

「うるさい。出ていけ。」

そんなやりとりが繰り返される中、洞窟の静寂はいつしか微かな笑い声で満たされ始めていた。


2、 秋風よ、契りを紡ぎ


夜の山間に、ひとすじの月明かりが差し込んでいた。

「お前は、王女なのか。」


青龍の低く響く声が、冷たく澄んだ空気を震わせた。

「そうよ、小さい国だけどね。」


鳳華は振り返り、微笑む。その表情には、どこか誇らしげなものがあった。


「王女がこんな山奥を歩き回るとは、奇妙な話だな。」


青龍が皮肉を込めて呟く。だが、鳳華は気にも留めず、一歩足を踏み出した。

「ほら、見て。」


彼女が指差す先には、赤や黄色に染まった木々が揺れる光景が広がっていた。地面には無数の枯葉が敷き詰められ、月の光を浴びて淡く輝いている。


「洞窟を出れば、こんな四季が見られるのよ。」


鳳華の声は穏やかで、どこか心をくすぐる優しさがあった。


「ここは確かに冷たいけど、秋にはこんなに鮮やかな景色が広がるわ。紅葉や銀杏……色とりどりで綺麗でしょう?」

「ね、あなたも試してみてよ。」


鳳華が笑顔を向ける。その表情には、無邪気な誘いが込められていた。


一瞬の静寂が訪れる。そして――

「仕方ない。」


青龍の声が低く響き、次の瞬間、彼の身体が青白い光に包まれた。
その巨大な鱗に覆われた姿は縮み、鋭い爪が消え、代わりに人の形が月明かりの中に現れる。


鳳華は目を丸くした。
「……本当に変身できるんだ。」

青龍の人の姿は、銀白色の衣をまとい、腰には青い鱗模様の帯が巻かれていた。長い白銀の髪が風に揺れ、その鋭い瞳には冷たい青が深く宿っている。


「これでいいのか?」


彼は静かに尋ねると、足元に目を向け、一歩踏み出した。

銀杏の葉が「カサリ」と音を立てる。

「……これが音か。」


彼は静かに呟いた。その声には、わずかな驚きが込められているようだった。


「そうよ。全部違う音でしょ?」


鳳華は再び笑顔を浮かべ、彼の隣に並ぶ。そして足元から一枚の銀杏の葉を拾い上げた。


「秋って、こんな感じなの。外に出ないとわからないわよね。」

青龍は短く息を吐いた。


「くだらないものだと思っていたが……悪くない。」


二人は並んで歩き出した。夜風が木々の間を吹き抜け、散りゆく葉が舞い上がる中、足元の音がまるで小さな旋律のように優しく響いていた。


それからの日々、青龍は毎日鳳華と一緒に過ごしていた。


草薬を摘み、青稞を育て、夕焼けを眺める。時には医術を学び、鳳華と一緒に困っている人々への治療法を考えることもあった。


「こうすれば薬が効きやすいんじゃない?」


「なるほど。人間の身体ってややこしいものだな。」


そんな他愛ない会話を重ねながら、二人は忙しくも充実した時間を過ごしていた。


ある日、紅景天を一緒にすり潰していた時のことだった。
外から慌ただしい足音が響き、扉が力強く叩かれる音が鳴り響いた。


「王女様!」


息を切らせた一人の女性が、赤子を抱きかかえながら駆け込んできた。その目には焦燥と涙が浮かび、声は震えていた。


「この子が……生まれたばかりなのに風邪を引いてしまって、どうしても良くならないんです。それだけならまだしも、昨夜からひどく咳き込み始めて……血まで吐くようになってしまいました……!」


女性はその場にひざまずき、赤子を守るようにしっかりと抱え込みながら、必死に訴えた。


「王女様……お願いです。この子を助けてください!」


その声に、鳳華の表情がわずかに険しくなる。


「見せて。」


鳳華は静かに歩み寄り、赤子を覆っている布をそっとめくる。赤子の顔は小さく青白く、かすかな呼吸が聞き取れるだけだった。
彼女は冷静に赤子の額に手を当て、次に喉の腫れや胸の音を確認した。


「……体がすごく冷えてる。風寒が肺に入ってしまってるわ。」
その声は冷静だったが、わずかに深刻な色を帯びていた。


一方、青龍は隣で静かにその様子を見守っていた。


「そんなに小さな体で……人間というのは本当に脆いな。」


低い声で呟く彼の瞳には、わずかながらも複雑な感情が揺れていた。


鳳華は短く息をつき、赤子の母親に向き直った。


「安心して。私にできる限りのことはするわ。ただ、少し時間がかかるかもしれない。」


その言葉に、女性は何度も頭を下げながら「ありがとうございます……!」と泣き崩れた。


赤子の呼吸は徐々に弱まり、その小さな体が冷たく硬直していくかのように見えた。


鳳華はそれを見つめながらも、微かな希望を探して奔走し続けていた。


夜が更け、朝が来る。彼女は一瞬たりとも眠らず、薬草を調合し、布を湿らせ、何度も赤子の額に手を当てた。


やがて、日が傾き始めた頃、赤子の母親のすすり泣く声が静かに響き始めた。


「どうか……お願いです……。」


鳳華は唇を噛み、震える手で赤子の額を拭い続けていたが、次第にその目には深い疲労が滲み始めていた。


「もういい。」


その時、青龍が低く重い声で口を開いた。


「鳳華。」


彼はゆっくりと歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。その瞳には、どこか冷たさと優しさが混じっている。


「お前、本当にこれ以上、見ていられるのか。」


鳳華は顔を上げた。疲れ果てた瞳には、なおも希望の光が宿っていた。


「……私は諦めない。」


その言葉に、青龍は短く息を吐き、静かに続けた。


「ならば――わしと契約を結ぶか?」


鳳華は一瞬、目を見開き、戸惑いながら問い返した。


「契約……?」


「そうだ。」
青龍は目を細め、低い声で続けた。



「そうすれば、お前はわしの力を使うことができる。この子を救うことも――できる。」


「……そんなこと、本当に……できるの?」
鳳華の声には、かすかな希望と疑念が混じっていた。


「簡単なことだ。ただし――」
青龍は鋭い瞳で彼女を見据えた。
「わしの存在を、外の人間に知られてはならない。それが条件だ。」


「それだけ……?」
鳳華は目を細め、静かに問いかけた。
「私が失うものは……?」


青龍は少しだけ笑みを浮かべた。


「失うものなど何もない。たが――」
その表情は次第に険しくなり、低い声が彼女に向けられる。


「人間というものは、欲望に流されやすい。お前が言葉を漏らさずとも、この契約はお前に大きな傷を与えるだろう。それでも、お前は選ぶのか?」


鳳華は答えを迷うことなく、静かに頷いた。


「……もちろんよ。もしこの子が救えるなら、それで十分。」

青龍は短く息を吐き、深く頷いた。


「ならばよかろう。」


その時、鳳華はふと笑みを浮かべた。


「ねえ、もう一つだけお願いしてもいい?」


「なんだ。」


「私だけじゃなくて、これからの王女たちとも契約してほしいの。私がいなくなっても、あなたが一人にならないように。ねえ、また誰かと一緒に、世界を見に行ってくれる?」


青龍はしばらく黙り込み、瞳を閉じた。


「くだらない。」


そう呟き、再び目を開いた時、その中には柔らかな光が宿っていた。


「だが、よかろう。」

鳳華は笑顔を浮かべ、そっと赤子の額に手を置いた。


「ありがとう。」


青龍の力で赤子が治癒された。母親は何度も礼を言い、涙ながらに子を抱きしめた。

その場の人々は王女の力を称賛し、鳳華の存在を「奇跡」と信じた。


だが、青龍は静かに呟いた。

「人間とは愚かなものだ。力を知れば、次に求めるのは――」


3、 君と結びし、祈りは絶えず


「この女は神の力を盗んだ異端だ!彼女の治癒は本当に神聖なものなのか?」


祭司の鋭い声が、広場に集まった群衆の心をさらに揺さぶった。


険しい目つきで鳳華を指差し、その声はなおも続けられる。


「雪蓮が枯れたのは、神の怒りだ!彼女は禁忌を犯し、雪神龍の加護を汚したのだ。もし雪神龍が本当に存在するのなら、この女を生け贄として捧げ、神の力を乞うべきだ!」


群衆はざわめき始めた。


「でも……彼女があの赤ちゃんを助けたのは事実だろ?」


「だけど、あれ以来、雪蓮が一輪も咲いていないのはどういうことだ?」


「もしかして……あの治癒の力が原因じゃないか?」


不安と疑念が渦を巻き、人々の間には恐怖が広がっていった。

「王国の恵みは雪蓮の力に支えられている。」


「それが枯れたのは、彼女のせいだとしたら……?」


「神の怒りを静めなければ、我々の国は滅びてしまうかもしれない!」


そんな声が響き渡る中、祭司は一歩前に出て、民衆に向かって高らかに宣言した。
「彼女を生け贄とし、真の神の力を我々の手に取り戻そうではないか!」


数日前――


「聞いたか?雪蓮の花が次々に枯れているそうだ。」


「ええ……しかも、王女様が治癒の力を使った後かららしい。」


「治癒された者は感謝しているが、あれが神聖な力なのかどうか……。」

そんな噂が、国中で囁かれ始めていた。最初は静かなものであったが、日を追うごとに不安は広がり、次第に怒りの色を帯びていった。


さらに、一部の者たちは山へ入り、雪蓮を無秩序に採り尽くすようになった。

「やめて!こんな乱暴なことをすれば、雪蓮が絶えてしまうわ!」


鳳華は小さく息を呑むと、声を張り上げた。彼女の足元には、無残に引き抜かれた雪蓮の残骸が広がっている。


しかし、山の斜面で雪蓮を摘み取っていた男たちは振り返りもせず、手を止めなかった。


「神聖な花だが、もう枯れる前に使い切るしかない!」


「治療に必要だ、いや、富のために持ち帰るんだ!」

雪山は混乱に包まれ、人々は雪蓮を奪い合うように袋へ詰め込んでいた。鳳華はその中へ飛び込み、必死に叫ぶ。


「お願い、聞いて!雪蓮はただの薬草じゃない!こんな風に乱獲すれば、自然も国も滅びるわ!」


その訴えに、一人の男が振り返り、冷笑を浮かべた。


「黙れ!お前が治療に使ったんじゃないか!」


「花が枯れたのも、お前が無駄に使い切ったせいだ!」

鳳華は一瞬言葉を失ったが、それでもなお必死に訴えた。


「違う!私は……誰かを救うために――」

胸には、焦りと悔しさが混じり合っていた。どうして、言葉が彼らに届かないのか――。


だが、その反論も最後まで言い切ることはできなかった。
彼女の声をかき消すように、後ろから新たな声が響いた。

「雪神龍が本当にいるなら、この花を捧げれば応えてくれるだろう!」


「いや、もっと良い。雪神龍を直接呼び出して願いを叶えてもらおう!」

こうして人々は鳳華を無視し、雪蓮を奪い合いながら、さらに山奥へ進んでいった。


誰もが一心に、雪神龍を見つけようと躍起になり、自分たちの願いを届けようとした。

「敵国を滅ぼす力を授けてくれ!」


「この国に富と繁栄を!」


「すべてを支配する力を与えたまえ!」


青龍はそのざわめきを静かに聞きながらも、鳳華のそばを離れることはなかった。


騒ぎはますます大きくなり、どこにも不穏な空気が漂い始めている。

「鳳華、お前は信じているかもしれないが――人間は、そう簡単には変わらない。」


その言葉に、鳳華は一瞬だけ動きを止めた。薬草を調合していた手をそっと膝の上に置き、青龍に向き直る。


「……それでも。」


彼女の声は柔らかく、けれど芯のある強さを帯びていた。


「それでも、私は信じたいのよ。」



その瞳に宿る揺るぎない意志に、青龍は小さく息を吐きながら呟く。

「信じる、か……お前らしいな。」

彼の声はどこか無力さと暖かさが混じっていたが、それを察した彼女はただ穏やかに微笑んだ。


现在――


「神に捧げよ!彼女を焼き、その魂を清めるのだ!」

祭司の叫びが広場に響き渡ると、群衆の声が一斉にそれに応えた。興奮と狂気に駆られた人々の声が混じり合い、熱を帯びていく。


鳳華は粗末な木製の祭壇に縛り付けられていた。手足を太い縄で縛られ、風に吹かれた白い髪が頬にかかる。彼女の顔は血の気を失っていたが、その目は澄み、微塵の怯えも見せなかった。


「……私を焼いても、何も変わらないわ。」

鳳華は低く呟いた。しかし、その静かな言葉は怒号と喧噪の中で完全にかき消されていた。


薪はすでに積み上げられ、火打石を構えた手が震えている。燃え上がる炎の熱が彼女の裾を照らし始めた。


「雪神龍よ!」

一人の男が叫ぶ。

「この犠牲を受け入れたまえ!」


風が鳳華の髪を乱し、頬を冷たく叩いている。彼女は声を出すことなく、ただ静かに前を見据えていた。


その瞬間、鈍い轟音が空気を裂き、王都全体に響き渡った。
──青龍が怒りを爆発させたのだ。


「敵を討て、地を支配せよ……そんな願いばかりか!」


青龍の咆哮は雷鳴のように轟き、空に渦巻く雲が王都を覆い尽くした。次の瞬間、凍てつく風が人々を襲い、吹き荒れる雪が視界を奪っていく。

広場にいる者たちは恐怖に立ち尽くした。燃え上がろうとした祭壇の薪が一瞬で凍りつき、氷の塊と化した。


「お前たちの祈りはどこへ行った!」


青龍の声が轟くたび、地面は震え、空気は凍りついた。


「その花を摘み、この地を滅ぼす……愚か者ども!わしを呼び起こす資格などない!」



鳳華は冷たい空気の中、祭壇に縛られたまま、静かに目を閉じた。その唇がかすかに動く。


「青龍……お願い。もう……やめて……」


青龍はその声に気づき、怒りに燃える瞳が一瞬だけ揺らいだ。次の瞬間、彼の巨大な姿は青白い光に包まれ、徐々に縮んでいく。

人形の姿となった彼は、すぐに鳳華のもとへ駆け寄った。


彼女の体には焼けた跡や凍りついた傷が無数に刻まれており、血の気を失った顔は痛々しいほど蒼白だった。

だが、その目にはかすかな光が宿っていた。


「鳳華!」


青龍はその小さな身体をそっと抱き起こし、震える手を額に当てた。


「お前を……こんな姿に追い込んだのは奴らの欲望だ……!」

鳳華は薄く笑みを浮かべながら、弱々しく彼の手を握り返した。


「怒らないで……青龍……あなたが怒ると、あの時助けた赤ちゃんが……また死んでしまうかもしれないよ?」


青龍は振り返り、角に凍りついた母親と赤子の姿が目に入った。氷の中で恐怖に怯えるその表情を見て、彼は唇を噛み締めた。



「……黙っていろ。」


低くそう呟くと、再び鳳華に向き直る。だがその目には、怒りと無力感が交錯していた。


「まずは、お前を治療する。」


鳳華は首を振り、震える声で言った。


「いいの。彼らは愚かだけど……まだ祈りを取り戻せると思うの。」


「お前は……本気で言っているのか?」
青龍の声には微かな戸惑いが混じっていた。

「うん。だからね、お願い。」
鳳華は微笑みを浮かべながら続けた。


「私のことは後回しでいいから、みんなを助けてあげて。」


青龍の瞳に再び怒りの炎が灯る。


「なぜだ?こんな愚かな人間たちを、どうして救おうとする?」


声が震える。


「わしは言っただろう。人間という生き物は、力の前でいつも自分を見失うものだ。その力が伴う代償を、誰が背負うのか――考えようともしないまま。お前をここまで傷つけた連中だぞ!」


「……知ってる。」
鳳華は静かに答えた。
「でも、私は……それでも、みんなが救われてほしいの。」


青龍は目を閉じ、唇を噛み締めた。そして低い声で呟いた。


「無理だ。わしの力は……先ほどの凍結で大半を使い果たした。お前を救うのが精一杯だ。どうしてもと言うなら……あの赤子を救うことくらいしかできない。」


鳳華は懐から傷ついた雪蓮の最後の一輪を取り出し、そっと握り締めた。


「これは最後の雪蓮だね……私は、私の命、私の力、私の記憶をすべてあなたに託す。みんなを救ってあげて。」


青龍は驚き、声を荒げた。


「やめろ、鳳華!」


「いいの。」


鳳華は微笑みながら続けた。
「私の命で、みんなが救われるなら、それで十分。」


彼女は雪蓮に最後の力を注ぎ、青龍に静かに言った。


「お願い……彼らを、助けてあげて……。」


雪蓮が眩しい光を放ち、広場全体を包み込む。光が消えた後、凍りついた人々の姿は次第に解け、温かさを取り戻していった。母親が抱く赤子の小さな泣き声が、静寂の中に響く。


だが、鳳華の身体は力を失い、青龍の腕の中で静かに息を引き取った。


青龍は彼女を抱きしめ、唇を震わせながら呟いた。


「……なぜだ、鳳華……お前がそこまで……」

彼女は最後の力を振り絞り、彼の頬をそっと撫でた。


「ごめんね……泣かないで……青龍……私は、幸せだったよ……」


雪蓮の光が辺りを照らす中、民衆はその場にひれ伏した。


瞳には涙が浮かび、震える声で祈りを捧げる。


「どうか、許しを……」


雪蓮の輝きが心の中の欲望を溶かし、最初の純粋な祈りを取り戻させた。


しかし、同時に気づいてしまう。


自分たちの欲望が、最も大切な存在を奪ってしまったのだ、と――。


失われた彼女を永遠に忘れないように、人々はこの国を「雪華国」と名付けた。


青龍は鳳華の静かな遺体を抱き、かつて雪蓮が美しく咲き誇った洞窟へと歩みを進めた。
その背中には、かつての栄光と共に深い悲しみが滲んでいた。


洞窟の奥に辿り着いた青龍は、雪蓮の根元にそっと彼女を横たえ、その手を最後に撫でる。

「お前の祈りだけが、わしにとっての希望だった。」


低い声で呟くと、長い尾を雪蓮に巻きつけ、ゆっくりと目を閉じた。


「わしは力を閉じる……もう、二度と人間には目覚めぬ。」


雪蓮の輝きは徐々に弱まり、洞窟全体が静寂に包まれる。


風は止み、青龍の姿もまた、雪蓮と共に消え去った。



──それから百年が過ぎた。


赤子の力強い啼き声が、眠り続けていた雪山に響き渡る。


その声は、青龍の心に眠る希望を呼び覚ますようだった。

微かに意識が揺れ動く中、彼はその声に戸惑いを覚える。


「また新しい神女か……いや、この声は……」



雪の果て

千歳の歌よ

夢に聞く

君と結びし

祈りは絶えず

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