第36話 もう一人の私

雪の果て

千歳の歌よ

夢に聞く

君と結びし

祈りは絶えず


雪華国の宮殿は、想像以上に壮絶だった。遺跡とはいえ、破廃の感覚は全くない。埃すら見当たらず、ただ静かに雪の中に立ち尽くしていた。氷だらけだけど。


「浮遊……」凛音の声は、ふと零れるように低かった。

龍が驚いたように尾を揺らし、横目で彼女を見た。

「やっとその名を呼んだか。お前にしては遅いくらいだな。」


「……どうして?」凛音は龍に向かって尋ねた。「これは浮遊がやったの?」

「ああ、誰にも触れさせぬようにしたまでだ。往昔の情に免じてな。」


凛音は一瞬言葉を失い、そして口元に淡い笑みが浮かんだ。「浮遊、ありがとう。」

龍は凛音の肩にしっかりと座り、その尾が軽く揺れていた。


凛音はゆっくりと手を伸ばし、冷たい宮殿の門に触れた瞬間——

氷が砕ける音が静寂を破り、大量の白き霧が門の周囲に立ち込めた。

視界が一瞬白く染まる中、重厚な大門がゆっくりと開き始めた。


最初に目の前に飛び込んできたのは、雪華国の初代王女の肖像画だった。
雪のように白い毛皮の冠を戴き、青い水晶の飾り紐がさらりと垂れ下がっている。
顔の下半分は薄い絹で覆われ、見える瞳は微笑むように柔らかく、生き生きとした輝きを放っていた。


「この人は……誰でしょうか。」凛音は龍に尋ねた。


肩に座っていた龍が短く息をついた。その一瞬、凛音には彼が悲しげに見えた。


「さあ、誰でしょうね。」


曖昧に答えた龍の声は、どこか遠くを見つめるように響いた。


「純粋なる信念は何だ 答えられる者のみ進む」
壁面にこのような文字が刻まれていた。

「信念……」凛音は呟き、壁の文字にそっと指を滑らせた。


その瞬間、背後で低く不気味な音が鳴り始めた。


「何?」振り向くと、壁の一部がゆっくりと動き始めている。



氷霜が一気に吹き出し、冷気が辺りを覆った。

足元から天井にかけて、急速に形成される氷の刃が、逃げ場を奪うように迫ってきている。



清樹が声を張り上げた。「これ、どうすればいいの!」


龍が冷笑を浮かべ、肩の上から彼らを見下ろした。


「よくあることさ。乗り越えられるかどうかは別だが。」


その言葉は挑発そのものだったが、凛音は全く怯まない。


「無駄なことを考えず、ただ進むしかないだろう?」


氷霜の動きに一瞬でも遅れれば命取りになりそうだった。


「……っ!」凛音は咄嗟に身を引き、手にした短刀「千雪」で、左から迫る氷刃を反射的に斬り払うと同時に、右足で地面を蹴り——その動作は迷いのない一閃で、無駄な動きは一切なかった。


「千雪」が描く軌跡が青い光となり、氷の破片が彼女の周囲に飛び散る。飛び散った破片は周囲の壁に突き刺さり、冷たい音を響かせる。それはまるで檻が狭まるように、逃げ場を奪っていく。


次々と襲い来る刃の群れを、凛音は冷静に見極め、刃の角度、隙間、そして弱点を見抜く。
正面から突き出す氷刃を紙一重で避けた瞬間、彼女は滑り込むように低い姿勢で通り抜け、振り返らずにさらに前進した。


突然、周囲の景色が急速に変わり、薄暗い冷気の中で光が細く収束していく。氷の破片が宙で止まり、やがて霧のように溶け消えた。どこからともなく響いていた風の音すら消え、代わりに耳元に静かな脈動音だけが残った。


「……浮游?洛白?」声を出してみても、返事はない。


足元を見下ろすと、鏡のように滑らかな氷の表面が彼女の姿を映し出していた。

しかし、その影が揺れ始めたかと思うと、次第に形を変え、小さな人影へと凝縮されていく。その輪郭はどこか懐かしく、それでいてどこか歪んでいた。


それが完全に形を成した瞬間、凛音が息を飲むように呟いた。

「あなたは……?」


その人影が微笑む。どこか懐かしく、しかし胸がざわつくような笑顔だった。


「何を言っているの?私はあなたよ。」


凛音の目が僅かに見開かれる。目の前にいるのは、紛れもなく自分自身。


しかし、それは雪華国が滅びる前の姿だった。

何も知らず、何も恐れず、ただ笑顔を浮かべていた頃の天真爛漫な自分——


「こんな顔、いつからするようになったの?」
幼き千雪が静かに尋ねた。

その言葉は挑発のようであり、嘲笑にも聞こえた。

凛音は思わず眉をひそめる。「……何を言っているの。」



「笑うことすら忘れた君に、本当に何かを守れるの?」

その言葉は鋭く、深く胸を刺した。凛音は反論しようとしたが、無邪気な千雪の言葉が畳み掛けるように続く。

「家族を守ることもできなかったのに、復讐だけが目的なんて……うふふ、なんだか滑稽だね。」


その一言に、凛音の瞳が一瞬だけ揺れた。しかし、すぐに冷たい光を取り戻す。


「そうだ、私は守れなかった。でも、それがどうした?守れなかったからこそ、奪われたものを取り返す。それが私の戦いだ。」


昔の千雪はその答えに目を細め、ゆっくりと一歩近づいた。「君が傷ついているのは、誰のせい?」

凛音は短刀を構え直し、冷ややかな目で鋭く切り返す。「私自身だ。だから私は、自分の刃で自分を断つ。」


鏡の中が再び揺らぎ、過去の光景が次々と映し出された。
雪華国が滅びる前の穏やかな日々。温かい家族の笑顔、無邪気な笑い声。
次の瞬間、それらは全て冷たい炎に包まれ、崩れ落ちていく。

凛音は動揺することなく、鏡に映る残酷な映像を見つめ続けた。
血に染まる手、倒れゆく敵、そして暗闇の中で一人膝をつく姿——それは、彼女自身の復讐の軌跡だった。


幼き千雪の声が、鏡の奥から重なって響いた。


「これが君の選んだ道。君が捨てたものも、奪ったものも、全てここにある。」


凛音は無言のまま短刀を握り直し、微かに目を細めた。

「知っている。」


幼き千雪はさらに追い打ちをかけるように言葉を続ける。

「君が選ばなかった未来は、今もここに残っているよ。」


鏡の中で家族が微笑み合う映像が消え、代わりに暗闇が広がる。


凛音は短刀を構え、視線を鋭く前方に向けた。

「過去を見せて、私を止めるつもりか?」



無邪気な千雪は小首を傾げながら、まるで遊びに誘うような声で言った。

「その刃で、過去を切れるの?」


凛音の手が一瞬緩むが、すぐに握り直す。彼女の表情には、わずかな迷いすらなかった。
冷たい笑みを浮かべながら、彼女は冷ややかに一言吐き捨てる。


「私はもう王女なんかじゃない。ただの殺し屋よ。たかが『昔の私』なんて、恐れる理由はない。」

その言葉が空間全体に響き渡り、鏡の中の景色が次第に歪み始めた。


「過去は私の一部だ。だが、私は過去に縛られるつもりはない。」



凛音は短刀を握り直し、鋭い目で目の前の千雪を射抜く。

そして、深く息を吸い、力強く一歩前に踏み出した。



「私は……進む。」


眩い光の中、凛音の姿が一瞬だけ鮮烈に浮かび上がる——

その刃の先には、かつての自分が確かに映り込んでいた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る