第34話 その命を守るために

松の木が立ち並ぶ森の中は、異様な光景だった。

常緑のはずの針葉がほとんど黄ばみ、所々黒く腐食している。

樹皮には紫色の毒霜が広がり、松の木全体が息絶え絶えに立っているように見えた。

毒瘴は濃く、まるで生き物のように渦巻き、森の奥から絶えず溢れ出している。


「……すごい毒気だな。」

凛音は足元に散らばる腐った松の針葉を見ながら、振り返って龍に向かって言った。

「今回は、あなたに教えてもらわなくても、毒の結晶がどこにあるかは見当がつきそうね。」

「そうだ。これほど毒が漂うとは、わしでも予想外だったな。」


「行くのか?」洛白の問いに、凛音はためらうことなくうなずいた。

「毒の源を断つしかない。それができなければ、この森全体が死ぬかもしれない。」

「また血を使うのか?」洛白の声には抑えきれない焦りが混じっている。

「この血で終わるなら、簡単でいいじゃない。」


洛白は一歩前に進み、言い放つように言った。

「だからって、お前はまた傷だらけになるつもりか?いい加減にしろ!お前ばかりが傷つく必要なんて、どこにもない。一人で背負うな。」


凛音は一瞬驚いたような表情を見せた。

「なら、どうすればいいのか。」

「私が行く。」洛白は静かだが、揺るぎない声で言い放った。


「ほう、お前が行くか。……まぁ、それならそれで、わしも少しは楽しませてもらおう。」

毒瘴をまとった松の木をじっと見下ろしながら、龍は鼻で笑うように言った。


「しかし……」凛音が何か言おうとした瞬間、その言葉を遮るように龍が続けた。

「確かに『血が必要だ』とは言ったが、『お姫様一人で全てを浄化する』などと、わしは一度も言っておらん。他の者でも挑むことはできる。だが、その成功率は限りなく低い。そして、お前ほどの適任者は他にはおらん。それだけのことじゃ。」


松の木が立ち並ぶ毒瘴の森の奥へ、洛白は一人足を踏み入れた。

空気は重く、吐く息がすぐに喉に絡みつく。周囲は紫がかった霧に包まれ、視界がどんどん狭まっていくようだった。


彼はポケットから小さな紙包を取り出し、その中に入った乾燥した甘草を取り出して口に含んだ。鼻頭には事前に塗り込んでおいた雄黄の香りがかすかに漂っていた。できるだけ毒の侵入を少しでも防げようとした。


「ふぅ……」息を吐きながら、洛白は両手を握りしめ、親指で合谷穴を強く押した。手のひらにじわりと痛みが走る。

「完璧じゃなくてもいい……少しでも耐えられるなら、それで十分だ。」


足元には腐った松の針葉が積もり、不快な音を立てるたびに毒瘴が濃く感じられた。歩みを進めるたび、肺が焼けるような感覚が広がっていく。体が警告を発しているのは明らかだったが、洛白は振り返らなかった。


こんな毒の中を進むのは無茶だと、誰でも思うだろう。

だが、彼女があの傷だらけの体でまた血を流すなんて、もう二度と見たくない。

それだけは、絶対に許せない。


毒霧が濃くなるにつれ、洛白の視界はますます曖昧になっていく。足元の感覚も鈍り始め、呼吸が浅くなる。それでも、洛白の足は止まらなかった。


私は行くと決めたんだ……ここで倒れるわけにはいかない。


ようやくたどり着いた場所で、松の木の根が絡み合い、その中心には黒い結晶が脈動していた。それはまるで巨大な心臓のように鼓動を繰り返し、紫色の毒瘴が渦を巻いて湧き上がっていた。


「ここが……毒の源か。」

剣を手にしながら、洛白はその異形を睨みつけた。


結晶の周囲を覆う薄い膜が鼓動に合わせて微妙に揺れている。それを破れば毒瘴を止められるはずだ。だが、鼓動のたびに毒霧が濃くなり、喉を焼く感覚がさらに強くなる。肺が悲鳴を上げているのがわかった。そして、鼓動の間隔が一定ではなく、短い間に一度だけ薄膜が揺れる瞬間があることに気づいた。


「そこだ……」

彼は剣を構え、そのわずかな隙間を狙って突き刺した。


膜が破れた瞬間、結晶が激しく跳ね、黒い液体を垂らしながらさらに内側の核心を露わにした。

周囲の毒瘴が一気に渦を巻き、結晶から黒い枝のような触手が飛び出した。

「っ!」咄嗟に身を翻して避けるが、枝が地面に激突するたび、毒瘴がさらに濃くなる。

「こうして時間を稼ぐつもりか……だが、そんな暇はない!」

洛白は触手の動きを読み、振り抜いた剣で枝の一部を切り落としながら核心を目指した。


「ここで終わらせる。」


「くっ……!」息を止め、剣を押し込む手に力を込める。紫色の霧が視界を覆い尽くす中、全身が痺れるような感覚に襲われた。

それでも、洛白は体を動かし、もう一度剣を深く突き刺した。


「洛白……やめて……」突然、毒瘴の中から凛音の声が聞こえた。

振り返ると、血まみれの彼女が立っていた。

「お前がここに来るべきじゃない……私がやるべきだ。」

幻覚だと分かっている。分かっているはずなのに――その血まみれの姿が、胸を抉るような痛みを呼び起こす。

守らなければならない、その思いが強すぎて、目の前の幻像がますます現実のように感じられる。

「お前を守りたいんだ……」彼は目を閉じ、頭を振って声を振り払った。


「ここで終わらせるんだ……絶対に。」


一瞬、結晶が先よりもっと激しく跳ね、毒霧の噴き出しが止まった。結晶は黒い液体を垂らしながら崩れ、脈動も静かに止まっていった。

洛白はその場に膝をつき、肩で息をする。毒瘴の流れは消え、辺りの空気が少しずつ澄んでいくのを感じた。


洛白が毒瘴の核心を破壊し、よろよろと戻ってきたとき、凛音は一瞬その姿に言葉を失った。

肩からは血が垂れ、彼の指先には青い輝きを放つ結晶がしっかりと握られている。その目は疲労と痛みで曇っていたが、どこか達成感を秘めていた。


「洛白!」凛音が駆け寄り、彼の腕を掴んだ。

「無事なの?何を考えてるのよ、そんな無茶をして!」

洛白は苦笑を浮かべ、結晶をそっと差し出しながら、ふらつきつつ地面に腰を下ろした。

「無茶をしたのはお前だろう……私はただ、それを止めたかっただけだ。」


「だからって!」凛音は怒りを抑えられない様子で声を荒げたが、次第にその勢いが弱まっていった。

「……どうして……そこまで?」

洛白は一瞬目を閉じ、深呼吸をしたあと、凛音を見つめた。

「守るためだよ。……お前が、無茶をしなくて済むように。」

その言葉に、凛音は何も言えずに俯いた。


毒瘴が消えたことで森全体が徐々に息を吹き返していった。

黒く腐りかけていた幹が再び白さを取り戻し、わずかだが新しい芽が現れる。

「見ろ、森が生き返ってる。」

洛白が少しだけ微笑みを浮かべ、息を整えながらつぶやいた。

凛音は黙ってその背中を見つめていた。


龍が森の再生を眺めながら、低い声でつぶやいた。

「まぁ、少しは見直したぞ。」

洛白が振り向くと、龍は続けた。

「……だが、この程度ではまだまだだな。」


その言葉には、これからの決意が込められていた。

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