第33話 仮面の裏側

風は冷たいが、この程度の寒さなら、もう慣れている。

それよりも、私の心を占めているのは、彼女のことだ。


私は一度たりとも、彼女の名前を口にしたことはない。

呼べば、彼女と私の距離がどこか定められてしまう気がして、言えなかった。


彼女は、私が知る限り誰よりも勇敢だ。

その代わりに、体に残る傷の数はどんどん増えていく。それが何よりも怖い。


本当のことを言えば、医術への興味は特になかった。

ただ、この頑固すぎるお姫様のそばに立つためには、これが一番効率的な手段だと思ったからだ。

死ぬほど医書を読み、覚え、彼女を守りたかった。


それなのに、どうして彼女はまた毒湖に躊躇なく跳び飛んだ。


彼女の決断を否定するつもりはない。

だが、傷を負った体でどれだけ動けるか。医者としても止めるべきだ。


あの夜、彼女は緋色の鳳凰のように舞っていた。

扉の外で立っていた私は、どうしようもなく切ない気持ちが押し寄せた。

「喜んで殺します」――その言葉の裏に、彼女はどれほどの覚悟を秘めていたのだろう。

その覚悟には、またどれほど深い傷が刻まれているのだろうか。


彼女はどんな状況にあっても、まっすぐ前を見ている。

「負けない。そう決めたから。」傷を負っても笑い続ける彼女を見て、私はただ言葉を失った。

その小さな背中が、どんな大人よりも大きく見えた。

そういえば、あの時、頑固だと思ったはずなのに、その笑顔を忘れることはできなかった。


澄みきった湖面が、まるで鏡のように静かに広がっている。

ほんの少し前まで、あの水底には毒と瘴気が満ちていたはずなのに――今はその痕跡すら感じられない。

こんなにも清らかな湖が、どうしてあんな恐ろしい姿をしていたのか。想像するだけで背筋が冷える。


湖のほとりで彼女は静かに目を閉じている。

傷だらけの体をわずかに休めるその姿が、どこか危うく見えた。

焚き火の暖かさに包まれた空気の中でも、彼女の心は決して安らぐことはないのだろう。


彼女はいつだって止まることを知らない。それが彼女の強さだ。

時折、その強さが彼女自身を壊してしまうのではないかと思う。

それを見ているこちらの心がどれだけ揺れるか、彼女には分からないだろう。

――守らなくてはならない。

けれど、彼女の決意に抗うことはできない。彼女が選んだ道だから。


湖面に映る焚き火の光が揺れている。

透明な水に映るその炎が、妙に儚く見えた。

この静けさが、ずっと続けばいいのに。

そんな願いを抱きながら、私はそっと拳を握りしめた。

次は、彼女が無理をしなくても済む方法を――それを見つける番だ。


「お前の姫君、無茶がすぎるな。」低い声が耳に届いた。

振り返ると、薄暗い霧の中に龍の姿があった。


「お姫様を守るなら、もっと強くなれ。それが、お前の役目だろう?」

挑発するような言葉に、反論する気も起きなかった。

反論できない、というべきだろうか。


「分かっている。」

だが、どれほど強くなれば、彼女を守れるのだろう。いや、本当に守れる日は来るのだろうか?


「分かっているなら結構。ただし……」声がさらに低くなる。「その覚悟が本物でなければ、いずれ全てを失う。」


その一言が、焚き火の熱さを一瞬で奪い去ったように感じた。

全てを失う――その響きが胸に残り、重くのしかかる。


焚き火の向こうで、彼女がゆっくりと目を開けた。

「何か、考えてる?」と、ぼんやりした声で彼女が聞いてくる。

その問いに、すぐに答えることができなかった。


「いや、別に。」

そう言うと、彼女は少しだけ微笑んだように見えた。

「そっか。でも、あんまり考えすぎると疲れるよ。」

そう言い残して再び目を閉じる彼女を見て、ふと、胸が痛くなる。

疲れているのはむしろ彼女のほうだろうに。


龍の言葉が頭から離れない。


全てを失う――それが何を指すのか、正確には分からない。

だが、彼女を守れなければ、私にとっての「全て」はその時点で終わりだろう。

守る手段を探すしかない。強くなるしかない。


彼女は、これから先どこへ向かうのか。

どれだけの敵が待ち受けているのか――それは、誰にも分からない。

ただ一つ分かっているのは、どんなに未知が多くても、立ち止まることは許されないということだ。


守りたいという思いだけで十分なのか。

――いや、それだけでは足りない。

具体的にどうするかを考えなければ、彼女に追いつくことすらできない。


「次に備える――」

今、自分ができることを考えろう。それが、最初の一歩だ。

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