第32話 忍耐の欠片

凛音たちが洞窟を出発してしばらく、龍は彼女の肩に静かに佇んでいた。しかし、そのとき突然頭をもたげ、瞳が微かに光を放った。

「……この先だ。」龍の声は低くも確信に満ちていた。「毒の源が存在する場所だ。近づけば、お前たちもその異変を感じられるだろう。」

「毒の源……」凛音は思わず足を止めた。


小龍は尾を微かに揺らし、軽く頷いた。

「わしが前にも言ったな。この地には『心の欠片』が六つ散らばっている。それぞれが毒の源であり、わしの心の一部でもある。」


洛白は隊列の後ろから歩みを進めながら、何気なく龍に視線を向けた。

「毒を取り除くために、君の力が必要だが、わざわざこの洞窟を離れた理由は?」

気軽な口調ではあったが、その目にはどこか探るような色が垣間見えた。


龍は一拍置いてちらりと肩越しに洛白を見下ろし、尾をゆっくりと揺らしながら、淡々と続けた。

「すでに二つはお前たちが試練を通じて手に入れた。一つは真実。そして、もう一つは覚悟だ。それ以上のことは、わしがお前に教える義理もない。」


洛白は歩みを止めず、ふと笑みを漏らしながら、静かに一言。

「なるほど。」

声は穏やかだったが、その目には龍の言葉を深く計るような光を秘めていた。


龍は彼の反応を背後に感じながらも、無言で前へと進み続けた。その尾が小さく揺れたのを、誰も気づくことはなかった。


清樹はそれを聞いて目を輝かせながら口を開いた。

「六つの欠片か……なんだか冒険みたいだね!凛雲様たちがすでに手に入れたってことは、ここから残り四つを探すんですね?」


「その通りだ。」龍は微かに頷き、視線を前方に向けた。その表情には、どこか厳しさが宿っていた。「だが、その先に何が待つかは、お前たちがその目で確かめるしかない。」


目の前で空気が急に変わった。黒紫色の光が薄く漂い、重く沈んだ雰囲気が広がっている。不気味な湖が姿を現し、その湖面から寒気と毒気が絶え間なく立ち上っていた。

まるで生命そのものを拒絶するような沼地のようだ。周囲の木々はすべて枯れ果て、抜き取られたかのように萎れきっている。


ここは毒の源か。この世のものとは思えない。


誰でもその異様な光景に息を呑み、言葉を失った。


龍は凛音の肩から軽やかに跳び上がると、宙を舞いながら湖の方をじっと見つめた。


「気をつけろ。この湖は命そのものを蝕む。毒気が漂うだけでなく、見えない波動がある。触れる者の体力と心を、徐々に削り取るだろう。」


洛白は湖の様子を一通り見渡し、毒気の立ち上る様子や漂う動きにじっと目を凝らした。


「毒の波動があるなら、必ず周期性があるはずだ。数分ごとにピークが訪れるだろう。その時に近づくのは避けた方がいい。」


小龍はその言葉を肯定するように頷いた。

「そうだ。その波動が落ち着くとき、水底の様子が少しだけ見える。そこに迷宮のような複雑な構造が広がっている。毒気もその中を漂っているが、あれを抜けなければ毒の結晶にたどり着くことはできない。」




「ここまで来た以上、進むしかないわ。私が行く。」

「それなら、私の方が良いではないか。清樹はまだ体が弱い。そして、失礼ながら、女性よりも私の方が体力がある。」


「残念ながら、結晶の解毒にはお姫様が行くのが最善だ。血が必要だからな。」


洛白は一瞬心配を隠しきれない表情を見せたが、すぐに凛音に向き直る。


「迷宮の中でどんな仕掛けがあるか分からない。私はここで状況を見ながら援護するけど、何かあればすぐ知らせてくれ。」



「分かった。慎重に進むよ。」


凛音が厚い氷層の上に立つと、足元から伝わる冷たさに思わず息を呑んだ。

それでも、彼女は一瞬の躊躇もなく、その冷たい湖の水へと飛び込んだ。

瞬間、全身を鋭い寒さが包み込み、漂う毒素がじわじわと体力を削っていく。

凛音の呼吸は次第に浅く、そして重くなっていった。


……冷たい……

……痛い……


体に染み渡る冷気と痛みの中、凛音の脳裏に浮かんだのは、かつての故郷の人々の姿だった。


……これが、あの人たちが死ぬ間際に感じたものなの? 手も足も硬直していく。

まるで氷の中に閉じ込められたみたいだ。

水源に毒を入れるなんて、どうして、そんな酷いことをしたの?

己の欲せざる所は人に施すことなかれ。

そんな簡単な道理も分からないのか。

必ず彼らの無念を晴らしてみせる……。


視界がぼんやりとしてきた。でも、止まれない。


怒りとも嘆きとも言える感情を胸に抱き、凛音はゆっくりと前進を続けた。

その時、湖底にうっすらと毒の結晶が浮かび上がるのが彼女の目に映った。

それは心臓のように脈動し、冷気と毒気を放ちながら、この湖全体を支配するかのような威圧感を漂わせていた。


凛音は震える手で雪蓮の短刀を取り出し、刃先を自分の掌に当てた。水中で刃を走らせると、鮮血が一瞬で水流に溶け込み、血の線のように毒の結晶へと流れていった。それが結晶に触れると、微かな光が生まれ、周囲に張り巡らされた氷がじわじわと溶け始めた。


しかし、その瞬間、結晶から逆流する冷気が凛音を襲った。

水中の圧力が傷口を広げ、鋭い痛みが彼女を貫く。血液は止まることなく水に溶け込み、赤い霧のように広がり、体内の熱が急速に奪われていく。

視界が暗くなり、手足の感覚が徐々に失われていく中、彼女の意識は次第に薄れていった。


「いかん、これ以上は彼女が持たない!」

ほぼ龍の言葉が終わるや否や、洛白は迷わずに外衣を脱ぎ捨て、仮面を外すと、一気に湖へと飛び込んだ。

そして、凛音に向かって力強く泳ぎ始めた。


「しっかりしろ。」

彼は凛音の青ざめた顔をじっと見つめながら、そっと自分の息を彼女に吹き込んだ。


その声は低く穏やかだったが、手は彼女の肩をしっかりと支え、自らの体を盾にして寒気と毒気を受け止め、少しでも彼女を守ろうとしていた。その姿は必死だった。


凛音は、ぼんやりとした視界の中で、どこか懐かしい感覚を覚えた。

暗闇の中で浮かんだのは、優しく声をかけるあの人の姿だった。


毒核の氷は半分ほど溶けていたが、完全に浄化するにはさらに時間が必要だった。


洛白は凛音をそっと抱き寄せ、その手を優しく支えながら、結晶へと導いた。

嵐のような冷気と毒気が押し寄せる中、彼の体は静かに彼女を守る壁となり、すべてを受け止めていた。


ためらうことなく彼女に息を吹き込み、その温もりを静かに送り届ける。

彼女の指先が結晶に触れた瞬間、湖底を覆う光が微かに揺らぎ、まるで二人の命に応えるように輝きを増していった。


ついに毒の結晶が大きく脈動し、冷気と毒気が激しく揺らいだ。

閃光が放たれ、周囲の氷が一気に砕け散った。次第に冷たさが和らぎ、毒気も静かに収束していく。


洛白は凛音をしっかりと抱きかかえ、その疲れきった体を支えながら、優しく彼女の顔を覗き込んだ。


「よく頑張った。」 低く穏やかな声が、水中の静寂に溶け込み、凛音の心にじんわりと染み渡った。


完全に浄化されたことを示すかのように、湖底には青白く輝く結晶が静かに浮かび上がっていた。


洛白は凛音を岸へと抱き上げ、そっと地面に横たえた。

清樹は慌てて駆け寄り、心配そうに彼女の顔を覗き込む。


「凛雲様!大丈夫ですか?!」


凛音はうっすらと目を開け、ぼんやりとした視線で清樹を見つめた。口を開こうとするが、声は出ない。代わりに、その目はゆっくりと洛白へと向けられた。


洛白はすでに仮面を整え終え、いつもの穏やかな声で言った。
「彼女は無事だ。少し休ませれば回復するだろう。」


清樹はホッと息をついたものの、どこか安心しきれない様子で凛音の手をぎゅっと握りしめた。


凛音はゆっくりと身を起こし、手を額に当てた。

「誰か……もう一人、ここにいたの?」

その声には微かな迷いが混じり、凛音の視線が洛白に向けられた。


清樹がすぐさま大きな声で割り込む。

「他には誰もいませんでしたよ!ずっと洛白様がそばにいて、守ってくれてたんです!」


洛白は凛音を見つめ、淡々と答えた。

「きっと毒の影響で、何か幻覚でも見たんだろう。」」


「そういえば、洛白様、意外とイケメンですね……」

清樹の不意の発言に、凛音の視線は洛白と清樹の間を行き来し、少しの間考え込むような表情を浮かべたが、やがて小さく頷くと、それ以上は追及しなかった。


龍はゆっくりと湖面近くに降り立ち、青い結晶に目を凝らした。

「よくやった……これで三つ目、忍耐の欠片だ。だが、道半ばに過ぎない。」

小さな体を揺らしながら、龍はほんの一瞬、洛白に視線を向けた。


あの男……何かを隠しているようだな……まあ、それもいずれ分かるだろう。


毒気が晴れ、湖全体が少しずつ清らかな色を取り戻していく中、

三人と一匹は、また新たな一歩を踏み出そうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る