第30話 罪と希望、雪華の光

凛音は駆け寄り、地面に座り込む洛白の肩を支えた。

彼の顔には疲労の色が濃く、手はまだ胸を押さえたままだった。


「洛白、大丈夫?一体何のこと……?」


その瞬間、龍の低い声が響く。


「次は、あなたの番だ。」



龍が大きな顔を近づけ、その目にはどこか悲しそうな色が宿っていた。


「千雪、一緒に帰ろう。昔に。」


千雪の前に現れたのは、まさしくかつての雪華国の宮殿だった。


夜の闇に包まれた庭園には、一輪の雪蓮が咲き誇っていた。

美しい光を放つその花の前に、一人の女性が立ち尽くしている。

千雪の母――雪華国の王妃だ。

彼女の手には、小さな瓶が握られている。瓶の中の液体は怪しい紫色の光を放ち、不気味な雰囲気を漂わせていた。彼女は手を震わせながら、何度も深呼吸を繰り返していた。

「これを……雪蓮に入れたら、水は二度と浄化されない。全てが終わる……」

その声はかすれ、涙が頬を伝う。


「やめて……」

千雪の声は震えていた。

だが、彼女の言葉は誰にも届かない。


「王妃様、迷う必要はありません。」


暗がりから現れたのは宰相だった。彼の目は冷たく光り、声には一片の感情もない。

「雪蓮が咲いている限り、この国には希望が残る。ですが、その希望を断ち切る必要があるのです。」


王妃は振り返り、宰相を睨みつけた。


「……これは裏切りよ!どうして貴方たちが……こんなことを……!」


「裏切りではなく、未来のためです。」


宰相は冷静に続けた。

「これを拒めば、お姫様の命すら危険に晒されるでしょう。それとも、王妃様はお姫様を犠牲にする覚悟がおありですか?」


その言葉に、王妃の目が見開かれる。瓶を持つ手がさらに震え、足元が崩れそうになった。


「千雪を……傷つけさせはしない……」


彼女は呟くようにそう言うと、ゆっくりと瓶の蓋を開けた。


「母上、だめ!やめて!」

千雪は叫びながら駆け寄り、母の手首を掴もうとした。しかし、その体は母の影をすり抜け、まるで虚空を掴むようだった。


突然、場面が切り替わる。


国境付近にある村が映し出される。村人たちは倒れ込み、苦しげな声を上げていた。水源近くには汚れた水が溜まり、毒の気配が漂っている。


「助けて……誰か……」
母親に抱かれた子どもが弱々しく泣いている。

だが、母親もまた毒に蝕まれ、力なく倒れてしまう。

「水を飲んだだけなのに……どうして……!」


村人たちは次々に倒れ、死者が増えていく。魚が浮かんだ川、黒ずんだ土、広がる腐臭。風景全体が絶望に満ちていた。


再び雪華国の宮殿に戻る。


雪蓮は紫色に染まり、花弁がしおれ始めていった。

王妃は震える手で瓶を床に置くと、そのまま力が抜けたように膝から崩れ落ちた。


千雪の視線がふと柱の影に向くと、そこには幼い少女が身を縮めながら座り込んでいた。その瞳には涙が浮かび、怯えながらもじっとこの光景を見つめている。


彼女の胸が激しく締め付けられるような感覚に襲われた。

千雪には分かっていた。

あの少女は、間違いなく幼い頃の自分だった。


「そうだ、これは……あの日……」


胸の奥で、憎しみと悲しみが混ざり合い、渦を巻くように広がっていった。


「これで……本当に終わるのね……」
彼女は涙を流しながら長剣を握りしめる。その刃は冷たく光り、彼女の手の中でわずかに揺れていた。


「母上!やめて!」

千雪は再び駆け寄り、その刀を掴もうとしたが、何の手応えもなかった。


宰相が冷たく見下ろし、淡々と告げた。


「王妃様、お役目ご苦労でした。これで、貴女も安らかにお眠りください。」


王妃が突然振り返り、その空虚な瞳に一瞬だけ微かな正気が宿る。

彼女の視線が千雪を捉え、震える唇が何かを紡ごうとしていた。

その瞬間、千雪は確かに聞こえた気がした――「守れなくて、ごめんね。」


王妃はそう呟くと、剣を腹部に突き刺した。血が勢いよく溢れ出し、地面に広がる。彼女の体が崩れ落ち、目の光が徐々に消えていく。


「どうして……どうしてこんなことに……!」

千雪はその場に膝をつき、肩を震わせながら涙を流した。


画面が暗転し、宰相が一人の人物の前に跪いている。

人物は黒いマントをまとい、顔は見えない。

その背後には白澜国の紋章が描かれた壁がそびえ立っていた。


「雪華国はこれで完全に滅びるでしょう。計画は順調です。」


宰相の報告に、マントの人物は小さく頷いた。

「よくやった。」
その声は低く、性別を判断できないが、威圧感に満ちていた。


全ての映像が消え去り、周囲は真っ白な光に包まれた。


「それが、雪華国が背負った運命だ。」

龍の姿が彼女の後ろに現れていた。その目は深い哀しみを宿し、かつてないほどの真剣な表情を浮かべていた。


千雪の胸は苦しげに上下し、冷たい汗が額に浮かんでいる。

「これが……真実……?」


「そうだ。これが、わしが見たお前たちの過去。そして、お前の母親が残した『罪』だ。」


千雪は拳を握りしめ、震える声で言った。


「違う……!これは母上が望んだことではない……!」

「どうして……君は守ってくれなかったの?君は、私たちを見ていただけなの?」


龍はしばらく何も言わず、千雪の言葉を静かに受け止めていた。


そして、

前足を持ち上げると、空間に揺らめくように一つの映像が浮かび上がった。


それは雪華国が滅亡する前日の光景だった。


千雪の母が幼い千雪を抱きしめ、何かを静かに囁いている姿が映し出されている。


「お前が生まれた時、あの人は何よりも喜んでいた。だが、宰相は彼女に毒を盛り、その心を操った。そして彼女は――お前を守るために、毒に蝕まれながらも最後まで戦い抜いたのだ。」


千雪の頬を涙が伝い、声もなく流れ落ちていく。
画面に映る母が、臨終の間際に手に握りしめていた雪蓮を見つめると、千雪の胸の中で何かが確かに響いた。


「母上は……最後まで私を守ろうとしてくれたんですね……。」

彼女の声は震えていたが、そこには深い感謝と哀切が混ざっていた。


龍はゆっくりとうなずいた。その声は低く、しかしどこか温かさを含んでいた。

「その通りだ。そして、お前がここで何を選ぶか――それこそが、お前の母上の残した願いなのだ。」


凛音は顔を上げ、目に決意を宿して答えた。
「私が……終わらせる。」


龍はその言葉に、一瞬目を閉じた後、静かに言った。

「ならば、わしはお前を信じる。」


洞窟の冷たい風が止み、雪蓮のつぼみから淡い光が広がり、洞窟全体を包むように輝き出した。その光には、どこか懐かしく、温かい力が宿っていた。


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