第29話 選べ、心臓を捧げ!

「いや、断る。」


凛音の声が洞窟内に響き渡った。


清樹はその言葉に驚き、目を丸くしながらおそるおそる凛音の衣袖を引っ張った。
「凛雲様、龍が怒ったら……」


凛音は一歩も引かず、冷静な目で前を見据えたまま、力強く続けた。


「現れてこい。姿を見せて。」


「あなたに試される必要なんてない。私たちは雪蓮を咲かせるために来た。それだけよ。」


その言葉が終わるやいなや、洞窟全体が低く震え始めた。

冷たい風が四方から吹き込み、霜のような白い粒が空中に舞う。


「ほう、面白い。」


声とともに霧の中から現れたのは、鋭い爪と長い体を持つ龍。その目は洞窟全体を支配するかのように輝き、風を裂くような動きで、あっという間に凛音の目の前に迫った。

「わしに逆らうとはな。」


低く響く声が洞窟中に反響する。

清樹は思わず後ずさり、小声で「危ない……」と呟く。

洛白も一歩前に出ようとしたが、凛音は微動だにしなかった。


龍の爪が凛音の顔の前で一瞬止まり、その威圧感は圧倒的だった。

しかし、凛音は何かに引き寄せられるように龍に近づいた。

彼女は静かに手を伸ばし、龍の爪に触れた。

その瞬間、龍が驚いたように爪を引っ込めるが、凛音は構わず一歩進み、今度はそのひげを軽く摘むように引っ張った。


「ああ、君だ。」


凛音は感慨深げに呟いた。

その言葉を聞いた龍が動きを止め、洞窟が一瞬静寂に包まれた。


凛音は目を細めると、ぽつりと呟いた。


「赤ん坊の時に、君は来てくれたでしょう?」


その言葉に、龍の目がわずかに見開かれた。長い間眠っていた記憶が蘇る。

凛音はさらに一言、静かにだが確信に満ちた声で言った。


「つい先覚えてきました。」


洞窟内の冷たい風が徐々に静まり、龍はじっと凛音を見下ろし、その目には疑念と驚きが入り混じっていた。

「お前、本当に覚えているのか?」
低く響く声が洞窟内に反響する。


凛音は龍を真っ直ぐに見つめ、ふっと微笑む。

そして静かな声で答えた。


「赤ん坊の時、最初に目にしたのが君だった。すごく可愛くて、思わずその大きなひげを引っ張ってしまったのを覚えているわ。」


龍の目が微かに光を放ちた。その巨体が僅かに動き、じっと凛音の言葉を噛みしめるように見えた。


凛音は一瞬視線を落とし、また目を上げると、少し柔らかい口調で続けた。


「でも、正直に言えば、記憶というより、この洞窟に来てから、その光景が自然と心に浮かんだの。」


その言葉を聞いた瞬間、龍は少し首を傾けるようにして、静かに息を吐くように動いた。その仕草にはどこか深い感情が込められていた。
低い声で、まるで誰にでもいないように呟く。


「彼女は覚えたか……」


その時、雪蓮のつぼみが微かに震え、淡い光を放ち始めた。しかし、その光はすぐに弱まり、つぼみは完全に咲くことなく止まってしまった。


龍はわずかに眉を寄せ、じっと雪蓮を見つめてから、低く呟いた。


「お前が覚えているなら……この花も咲く時が来るだろう。だが、まだ何かが欠けている。」


凛音は雪蓮から目を離し、ゆっくりと龍に視線を向ける。その目には迷いがなかった。


「君なら分かるでしょう?この花が何を求めているのか。」


龍は一瞬沈黙した。その大きな身体が宙を滑るように移動し、まるで冷たい風を纏ったように空中を舞う。その動きには威厳と同時にどこかのんびりとした雰囲気があった。

やがて、不機嫌そうに口を開く。


「わしが手を貸すのは、お前のためではない。この花が……わしの力も必要としている。」


そして、凛音をじっと見つめたまま、笑った。

「やはり、君は可愛いな。」


龍は慌てて言い続ける。

「ただし、この花を完全に咲かせるには……試練が必要だ。」

「この花の力は、お前と……もう一人の血と意志を試す必要がある。」

龍の視線がふと洛白に向く。だが、洛白は何も言わず、ただ冷静に龍を見つめていた。


「わしの試練は、ただ力を試すだけではない。この花を咲かせるために必要なのは、血の絆と……お前たちの覚悟だ。」


「その試練とは、具体的にどんなものですか?」
洛白が淡々と尋ねる。

龍は不敵な笑みを浮かべながら、言葉を返した。

「それは試練を受ける者が、自ら見出すものだ。」


「さあ、覚悟があるなら、わしについて来い。」

凛音と洛白は互いに一瞬だけ目を合わせ、清樹に向かって、「清樹君、ここで待ってて。すぐ戻るから。」と言いながら、龍の背中を追い始めた。

清樹は一瞬ためらったが、小さく頷き、心配そうに二人の背中を見送った。




洛白の視界がぼやけ、鋭い寒気が消えたかと思うと、目の前に広がったのは雪と血が交じり合う惨状だった。

崩れた建物、毒に侵された空気、そして遠くで響く苦しげなうめき声。


耳元で低く響く声が、冷たく言い放つ。


「これは幻ではない。真実に起きた過去だ。」


洛白は眉をひそめながら周囲を見渡し、その言葉の意味を噛み締めた。

胸が重く圧迫されるような感覚に、息が詰まりそうだった。


その時、聞き慣れた、しかし幼い声が耳に届いた。


「父上……どうしたんの?」

振り返ると、そこには一人の小さな少女が立ち尽くしていた。少女の服は雪で濡れ、血に染まり、冷たく張り付いていた。

その小さな体は震えながらも、必死に立ち続けようとするその姿を見た瞬間、洛白の心が大きく揺れた。


あれは、凛音だ――。

少女の前には、剣を持った一人の男がゆっくりと近づいてくる。

その男――雪華国の国王の目は血走り、狂気を帯びた微笑みを浮かべながら剣を高く掲げていた。


洛白が凛音のもとへ駆け出そうとしたその時、反対側からかすかな呻き声が聞こえた。

振り返ると、倒れた平民たちが毒の苦しみに喘ぎながら、助けを求めていた。

「助けてくれ……頼む……」


視線を動かす間もなく、龍の声が頭上から降り注ぐ。


「お前の心臓を差し出せば、毒源を浄化できる。だが、そうすればこの小さな姫君を救えなくなるぞ。」


「選べ。」龍の声は低く、威圧感に満ちていた。


洛白は一瞬の迷いもなく、本能的に凛音の元へと駆け寄り、彼女を抱きしめてその身を庇った。


その背に国王の剣が深々と突き刺された。


鋭い痛みが背中を貫き、血が口から溢れたが、彼は歯を食いしばって耐えた。

凛音をしっかりと抱きしめ、その耳元で優しく囁く。


「泣かないで。怖くない。目を閉じて。」


凛音の小さな手が必死に彼の服を掴み、震えながらもその声に応えた。


洛白は力を振り絞り、国王と向き合う。


「娘に手を出させはしない。」

そして、地面に転がる剣を拾い上げ、最後の力を振り絞って国王を押し倒し、その狂気を剣で断ち切った。



国王を倒した洛白が顔を上げると、毒に苦しむ平民たちが目に入った。

呻き声は次第に弱くなり、命が尽きる者も出始めている。


再び聞こえる龍の声。


「お前は一人を救い、多くを見捨てるのか?」


洛白はゆっくりと立ち上がり、もう一度剣を拾い上げた。

その目には一片の迷いもなかった。


「多くを救うためなら……」

彼はそう呟きながら、剣をしっかりと握りしめた。

そして、ためらうことなくその剣を深く胸に突き立てた。

「この心を使え。」


剣が深々と刺さり、鮮血が勢いよく溢れ出す。

それでも洛白は顔を歪めることなく、凛音を見つめて優しく微笑んだ。

「もう大丈夫……泣かないで。」


彼の体がゆっくりと地面に崩れ落ちる中、視界がだんだん暗くなっていった。


闇が晴れ、再び現実の洞窟に戻った洛白。

冷や汗を浮かべながら目を覚ました。

胸を押さえると、そこには痛みだけが残っていた。


彼の前に佇む龍が、じっと彼を見つめる。

目に浮かぶのは、計り知れない感情の揺らぎだった。


「まさか、お前にここまでの覚悟があるとはな。流石な……この決断が、お前の血に刻まれているようだ。」

その声には、一瞬の間があった。そして、次に口を開いた龍の声には皮肉と、どこか感慨深い響きが混じっていた。


「だが、雪華国のためにここまで命を懸けるとは……因果というものだな。」


龍は一つため息をつき、意味深な笑みを浮かべた。


「隠すのが上手いが、わしは見抜いている。」


洛白は何も言わなかった。ただ、深く息をつき、静かに胸の鼓動を感じていた。

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