第28話 咲かせよ、雪蓮
上から覗き込むと、洞窟の中は真っ暗で底が見えず、裂け目から吹き上がる冷たい風が耳を刺す。凛音と清樹の姿はすでに消え、崩れたばかりの雪と氷が散らばっている。
李禹は洞窟の縁まで近づき、さらに中を確認しようと足を踏み出した。その瞬間、氷層が「バキッ」という不気味な音を立て、縁が少し崩れたが、彼は足を止めずさらに進もうとする。
その時だった。 洛白が彼の腕を掴んだ。
「ここは任せて、お前は外で待機しろ。」 声は低かったが、口調には反論を許さない力強さと、一刻を争う焦りが滲んでいた。
李禹が返事をする間もなく、洛白は素早く荷物を肩に担ぎ、背負い紐を力強く引き締めた。その動きには無駄が一切なく、迷いもなかった。 そして振り返ることなく、洞窟へと身を躍らせた。
暗闇が彼の姿を飲み込み、崩れた氷の破片が入口の縁から滑り落ちていく。李禹は一瞬その場に立ち止まり、深呼吸をつくと、周囲の状況を確認するべく、注意深く足を動かし始めた。
洛白は洞窟の底に着地すると、素早く体勢を整え、辺りを確認した。すぐに凛音と清樹の姿を見つけると、慌ただしく駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
彼は凛音の肩を掴み、思わず強い声を出してしまった。
「ええ。」 凛音が短く答えると、洛白は一瞬息をつき、すぐに自分の行動を自覚して手を離した。そして振り返り、清樹の無事を確認する。
そのあと、凛音は洞窟の入口を見上げ、大きな声で言った。 「李禹!ここに降りてこないで!中の状況がまだ分からない。万が一何かあったら、お父様に伝えて、私がこうする覚悟で来たと。」
「承知いたしました。」 洞口から李禹の声が返ってくる。 「外で様子を見守ります。みなさんも気を付けてください。」
やがて、三人は洞窟の奥へと進んでいった。薄青い光が辺りを包み込み、洞壁――いや、氷の層と古びた岩肌が一体化した壁面には、かすかに古めかしい絵が浮かび上がっていた。刺すような冷気が漂い、足元の氷面がかすかに光を反射している。
凛音は足を止め、壁画へと歩み寄った。そこに描かれたぼんやりとした模様に視線を向け、そっと手を伸ばす。氷の薄膜を指先で慎重に払うと、なぜか心の奥で何かが響くような感覚が広がった。
氷の層が剥がれるにつれて、絵の全貌が少しずつ明らかになった。 そこには、古代の王族の装束を纏った一人の女性が描かれていた。彼女は咲き誇る雪蓮の前に立ち、指先から落ちた血が花に染み込むように見える。そして、その隣には一匹の龍の姿が描かれている。龍は女性の隣に立ち、まるで対等な仲間のように、荘厳で威厳ある表情を浮かべている。
「血脈の覚悟、雪蓮の願い……そして龍の信頼……」
凛音の隣に立った洛白が、壁画の横に刻まれた古代文字を低く呟くように読み上げた。
「三つが一つとなりし時……真の契約が結ばれる……」
凛音はその言葉を耳にした瞬間、胸がざわつくのを感じた。再び視線を壁画に戻すと、ぼそりと呟いた。
「血脈の覚悟……」
その声は微かだったが、洞窟の中で不思議なほど耳に残った。 三人はさらに洞窟の奥深くへと進んでいった。そこには、薄い氷に覆われた一株の雪蓮の根茎が、静かに佇んでいた。薄青い光が氷越しに雪蓮のつぼみを映し出しているが、その姿はどこか儚げだった。
清樹はその光景をじっと見つめ、ふと小さく呟いた。
「……でも、母さんは言ってた。王族はみんな死んだって……だから、この国はもう……」
その言葉には幼いながらも、失われた故郷への絶望と寂しさ、そして自分自身の命が尽きることを受け入れつつあるような諦めが滲んでいた。
凛音は黙って前へ進み、雪蓮の前で立ち止まった。手を伸ばすと、体の奥から微かに呼応するような感覚が伝わり、指先が触れた瞬間、氷層に小さな亀裂が走った。
洞窟が微かに震え始める。清樹が不安げに声を上げた。
「凛雲様、危ない……」
振り返った凛音は、どこか柔らかな笑みを浮かべながら、静かに言った。
「ごめんね、騙して。大丈夫だよ。」
そう言うと、彼女は腰から一本の短刀を引き抜いた。それは、彼女が幼い頃に父上から贈られた王族の遺物だった。凛音は迷いのない動きで自分の手のひらを切り裂き、滴り落ちる血を雪蓮に向けて捧げた。
血液が氷に落ちるたび、冷たい光が雪蓮の根茎からわずかに広がり始めた。それと同時に、薄い氷層が弾けるように砕け、根茎が放つ光がだんだんと強さを増していく。洞窟全体が大きく震え、雪蓮が命を取り戻すかのように、まるで微かに息をしているように見えた。
ようやく洞窟の震えが収まり、静寂が戻る中、雪蓮のつぼみから微かに光が放たれていた。 その光は冷たくもどこか柔らかで、三人を包み込むようだった。
清樹は雪蓮と凛音を交互に見つめ、疑惑と戸惑いが入り混じった表情で、ぽつりと呟いた。
「凛雲様……」
凛音は一瞬目を伏せ、深く息をついた。そして清樹を静かに見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「ごめんなさい、清樹君。私は雪華国の元王女。もっと早くここに来て、貴方を探すべきだった。……そして、ごめんなさい。貴方を守ってきれなかった。」
清樹は目を見開きながらも、小さく首を振った。
「いいえ、お姉ちゃんは私より二歳上なんだから。その時、お姉ちゃんだって五歳だったでしょ。」
その言葉に、凛音の目尻が少しだけ緩む。そして彼女は膝をつき、清樹の目線に合わせてそっと抱きしめた。
「でも、大丈夫。今回は絶対守ってあげる。」
清樹は凛音の肩に顔を埋め、堪えていた涙を流した。その涙は、失われた過去への痛みだけではなく、わずかな希望の光を見つけた安堵の涙でもあった。 凛音はそっと清樹を抱きしめながら、視線を洛白に向けた。
一瞬の沈黙の中、二人の目が交わり、互いの胸に隠している言葉が全て通じたかのようだった。
洛白が雪蓮に一歩近づき、眉を寄せながらぽつりと呟いた。
「なぜ、花の中央がまだ閉じたままなんだ?」
清樹はその場に膝をつき、目を輝かせて雪蓮を見つめた。
「これが……本当に雪蓮花だ……!」
凛音はふと手のひらを見た。そこにはまだ血が滲む傷が残っており、微かに痛みが残る。彼女は傷口を軽く握りしめながら、小さな声で呟いた。
「まだ……何かが足りない……?」
その時だった。
突如、雪蓮のつぼみから冷たい白い霧が溢れ出し、洞窟内に広がっていく。
その霧は壁画の龍へと吸い寄せられるように流れ込み、龍の瞳が鮮やかな光を帯びた。そして、低くもはっきりとした声が洞窟内に響いた。
「簡単のことさ。」
声の方向に全員が振り返ると、壁画の龍がまるで命を宿したかのように動き出した。その表情にはどこか呆れたような、そして少し傲慢な雰囲気が漂っている。 「その花は、まだお前を試している。」
清樹が目を丸くしながら小声で漏らした。 「……しゃべった?」
龍はちらりと清樹を見たが、すぐに凛音に視線を戻し、声を張り上げた。
「咲かせたければ、わしの試練を受けよ。そして――」
壁画の龍がゆっくりと消えていき、その声だけが洞窟全体に響いた。
「わしの元まで来るがよい、最後の王女よ。」
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