第三章:氷雪の果て、覚醒せし魂

第26話 覚醒の兆し

早朝、凛音の部屋外。

誰の気配もなく、夜風に吹かれて落ちた木の葉が、扉の脇にいくつも積もっている。


宿屋の一室で、凛音、李禹、洛白、そして蒼岳が集まっていた。清樹は布団の上に横たわっていたが、その呼吸は昨夜よりも安定しており、微かに唇の血色も戻り始めていた。

「蒼岳。」凛音は視線を蒼岳に向けて話し始めた。「ここでの任務は一段落したわ。あなたには一旦王都へ戻ってほしい。」

蒼岳は一瞬驚いたようだったが、すぐに真剣な表情で頷いた。


「団長が言っていた通り、慕家だけじゃなく、王族の誰かもこの取引に関与している可能性が高い。この状況を、お兄様に正確に伝えてほしいの。王都で動きやすいのは彼だけだから。そして、地下通路で見つけた文書はすべて託すわ。それが証拠になる。」

蒼岳は深く頭を下げた。
「承知しました。必ず凛律殿にすべてお伝えします。」

「私たちは雪山に向かうわ。」凛音は振り返り、李禹と洛白の方を見た。「雪蓮を手に入れるために、もう時間を無駄にできない。清樹君の命を守るには、それが最優先。」

李禹は頷きながら短く返事をした。「畏まりました。凛雲様、必要な準備はすぐに整えます。」


そのとき、不意に清樹の小さな声が聞こえた。
「……僕も行く。」


全員が一斉に布団の方を振り返る。清樹が目を開け、まだ弱々しいが、確固たる意思を持った声で続けた。
「雪山なら、僕が知ってる。……あそこに行ったことがあるから。」

彼はゆっくりと体を起こそうとしたが、洛白が素早く彼を支えた。「まだ無理するな。」


「母さんが、あの山の向こうにある『家』の話をしてたんだ。一度だけ近くまで行ったことがある。だから、道もわかる……。」


「僕も、一緒に行きたい! ……僕だって役に立つはずだ!」その目には、自分の力で何かを成し遂げたいという強い意志が宿っていた。


「わかった。」凛音は静かに頷いたが、その声には厳しさが滲んでいた。「ただし、私たちの指示に従うこと。自分の体力を過信しないこと。それができなければ、すぐに戻ってもらうわ。」


「……うん! 絶対に従う!」清樹は嬉しそうに頷いた。


翌日、宿屋の前。


凛音たちは馬を走らせ、寒風を切って境界村を目指した。清樹は李禹の馬の前に座り、不安げに手綱を握りしめている。
「大丈夫?」李禹が声をかけると、清樹は小さく頷いた。「うん……平気だよ。」


「まずは村に着いたら、馬を置いて雪山に入る準備をするわ。」凛音は前を見据えたまま、短く言った。


数時間後、境界村の側面。


清樹が先頭に立ち、村の正面を避けて林道を進む。木々に囲まれた細道を抜けると、目の前に雪と氷で覆われた石橋が現れた。古びた橋桁の上に厚い氷が張り詰め、陽光を受けて鈍く輝いている。

「ここだよ。」清樹は小さな手で指し示しながら言った。「お母さんは、危険だからってここに近づくなって言ってたけど、僕、一度だけ向こう側に行ったことがあるんだ。」



「まるで、違う世界への入り口のようね……。」凛音は低く呟き、橋の向こうに広がる真っ白な山々を見上げた。


石橋の前で、一行は装備を整えた。

鋭い風が吹き付け、凛音の水色の斗篷が揺れる。その裾には水波模様の刺繍が施され、光を受けて淡く煌めく。腰には剣を携え、背には弓と矢筒が揺れている。厚手の羊毛毡靴は冷たい地面の感触をしっかり遮断していた。

洛白は淡い灰色の斗篷を羽織り、縁には精緻な雪花模様が刺繍されている。腰に小さな薬袋をぶら下げ、旅の途中で使う薬草や道具がぎっしり詰められていた。李禹は黒地に金糸が織り込まれた厚手の外套を着込み、さらに防風用の斗篷を羽織っている。腰には鋭い刀が収まり、足元は頑丈な防滑靴で固められていた。

清樹は柔らかな緑がかった斗篷に身を包み、足には滑りにくい皮靴を履いている。体は厚手の服に包まれ、小柄ながらも、雪山への期待を隠しきれない様子で瞳を輝かせている。


凛音は前を見据えながら言った。「行こう。」一行は慎重に石橋を渡り始めた。


未知の雪山への旅が、いよいよ始まる――。


石橋を渡った先、雪山の環境は一変した。気温が急激に下がり、吐く息が白く結晶のように凍りつく。


ああ、ここからが雪華国。私の故郷なんだ。

正直、実感なんて全然ない。懐かしいと言うのもおかしい。

だけど、不思議と少し嬉しい。ようやくこの地に足を踏み入れた。

からなず見つける、雪蓮、真実、未来。


凛音は一瞬立ち止まり、足元の雪を見つめた。その白さは目に刺さるほどに純粋で、美しかった。


清樹は小さな手で雪をかき分けながら、前を歩く凛音に向けて少し戸惑いながら声をかけた。

「……ねえ、凛雲様も聞いたことある?この雪山の向こうに龍がいるって伝説。」

「龍……の伝説?」凛音は歩みを緩め、疑問の色を浮かべた視線を清樹に向けた。

「うん。母さんはいつもそう言ってたよ。『その龍は雪蓮の番人で、人々を守る存在だ』って。」

その言葉を聞いた洛白が、淡々とした口調で口を挟んだ。

「その伝説、村でも聞いたことがあります。でも、実際に見た人はいないようですね。」


凛音は短く息を吐き、半ば自問するように呟いた。

「もしその龍が人々を守る存在だというのなら、どうして雪華国ではあれほど多くの人が病や災いで死んだの……? 本当にそんな力があるなら、防げたはずよ。」

彼女の声には、わずかな悲しみと疑念が混じっていた。


清樹は一瞬怯んだが、すぐに力を込めて答えた。 「分からない……でも、母さんは『龍は特別な存在だから、人間の事情だけで動くわけじゃない』って言ってた。」


伝説なんて、ただの昔話だと思うべきだろう。
でも、なぜか気になる。
この「龍」という存在が、私に関係あるような気がしてならない……。

凛音は前を見つめながらも、心の中でそんな思いに囚われていた。


雪が降りしきる中、道はさらに狭く、険しくなっていく。突然、清樹が立ち止まり、目を輝かせて前方を指さした。
「ここだよ! 以前、母さんの故郷を探しに来た時に迷い込んだ場所だ。」

彼が指差す先には、ほとんど雪に埋もれた細い小道があった。その道は、長い間誰も通っていないかのように荒れ果てている。

「確か、この先に……洞窟があったはず。でも……本当に覚えてるかはわからない。」清樹は少し恥ずかしそうに付け加えた。


しかし次の瞬間――
清樹の足が突然空を切り、短い悲鳴を上げながら洞窟の裂け目に吸い込まれるように滑り落ちていった。同時に、上方の岩と氷柱が振動で緩み、轟音を立てながら崩れ落ち始める。

「清樹!」
凛音の声は冷たい空気を裂くように響き渡った。

躊躇う暇もなく、凛音は背から弓を取り出し、矢を番える。第一矢が弦を離れると同時に、巨大な氷柱を正確に撃ち抜き、それを粉々に砕いた。

続けざまに第二矢、第三矢が放たれ、落下する岩の軌道をわずかに逸らす。雪塵と破片が舞う中、凛音の手は微塵もぶれず、その眼差しは鋭く、ただ清樹の安全だけを見据えていた。


「清樹、掴まって!」
凛音は躊躇なく裂け目に飛び込み、滑り落ちる清樹を空中で抱き寄せた。

「凛雲様!」清樹は怯えた声を上げ、凛音の腕にしがみつく。

洞窟内の冰壁が淡い光を反射し、滑らかな斜面が続いている。凛音は一瞬で地形を読み取り、弓を強く握り直した。

「離れるな!」彼女は短く言うと、矢を手に取って冰壁に突き刺した。

金属が冰に食い込む不快な音が響く。矢の摩擦で勢いを削ぎながら、凛音は清樹をしっかりと抱えたままスピードを調整する。


「もう少し……!」彼女の声には冷静さと緊張が入り混じっている。

最後の着地地点が見えた瞬間、凛音は矢を放し、勢いを利用して身体を反転させた。膝を軽く曲げて衝撃を和らげながら、清樹を守るように着地する。

膝を突き、荒い息をつきながら、凛音は清樹の顔を確認した。
「怪我はない?」

「……う、うん……凛雲様……すごい……!」清樹は半ば泣きそうな顔で凛音を見上げた。

「気をつけて。」短く注意を促すと、凛音はすぐに立ち上がり、洞窟の奥を見据えた。


氷壁の光で外とは対照的に不気味なほど明るかった。

凛音がふと顔を上げると、壁一面に広がる巨大な壁画が目に飛び込んできた。

そこには、天を駆ける龍と、輝く雪蓮の姿が描かれている。


その瞬間、龍の目が彼女をじっと見つめているように感じられた。絵であるはずなのに、ただの絵ではないという確信が胸を打つ。

「……何……?」

凛音の小さな声が、静まり返った洞窟内に吸い込まれる。


すると、まるで答えるかのように、壁画の中の龍が一瞬、瞳を微かに光らせた。空気が張り詰め、目には見えないが、何かが確実に彼女を見ている――そんな感覚が全身を覆う。


「待っていた……」

凛音の耳元に囁きのような低い声が響いた。


何かが起こるのか。

それとも、すべてはただの錯覚なのか。

全身がじんわりとした震えで支配された――

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