第25話 決別

血の匂いが薄暗い廊下に漂っていた。凛音は静かに扉を閉め、振り返ることなく歩き出した。そのすぐ外に立っていたのは、洛白だった。


「聞いたのか。」

凛音は視線を合わせずに低く問いかけた。その声には、わずかな冷たさが混じっている。


「あなたが言った『喜んで殺します』。……それは、本心なのか?」

洛白は一瞬肩を震わせたように見え、躊躇いがちに口を開いた。


凛音は足を止めたまま、しばし沈黙した。やがて彼女は振り返り、わずかに微笑みを浮かべた。

「さあ、どう思う?」

その微笑みには、哀しみとも決意とも取れる複雑な感情が滲んでいた。

それ以上の言葉はなく、凛音は再び歩き出した。


その背中を見つめたまま、洛白は一歩を踏み出した。

「早く帰ろう。清樹君が待っている。」

彼女の心に触れることをためらいながらも、彼は目の前の現実を優先することを選んだ。


宿屋。

清樹は床に敷かれた布団の上で苦しげに息をつき、額には冷たい汗が滲んでいる。その顔色は青白く、唇も血の気を失っていた。

洛白は急いで荷物から解毒薬の瓶を取り出し、その中身を確かめるように光に透かして眺めた。

「清樹君、もう少し耐えてくれ。」洛白は低く呟きながら、薬瓶を慎重に開け、手早く薬を小さな匙に注ぎ、それを清樹の口元に運んだ。だが、清樹は呼吸が浅く、薬を飲み込むのも一苦労のようだった。

凛音はすぐに清樹の背中を優しく支え、彼の頭を傾けて薬が喉を通るように手助けした。薬がゆっくりと清樹の口から入ると、彼の顔が一瞬しかめられる。


「この毒は……普通じゃない。体内に入ると、まず呼吸器を蝕む。それだけじゃない……血液を凝固させ、心臓の動きを鈍らせる。それだけなら即効性の毒として理解できるが、奇妙なのは……少量だと死に至らせないことだ。」

李禹は眉をひそめた。「わざと死なないようにしているってこと?」

洛白は頷いた。「そうだ。この毒の目的は殺すことじゃない。『生かしたまま支配する』ためのものだ。解毒薬を与えることで、相手の命を握ることができるように設計されている。」

「そんな……」凛音の顔が険しくなり、その言葉が何を意味するのか、頭の中で整理しようとした。

「この毒を広めた奴らが何を目的にしているのかは分からない。ただ……これほど精巧な毒を扱える人間がいるとなると、その背後には相当な組織が動いているはずだ。」


暫くして、清樹の呼吸が少しずつ安定し、眉間の緊張が和らぎ、唇にもわずかに血色が戻り始めた。洛白は清樹の容体を再度確認し、凛音の方へと目を向けて静かにそう告げた。

「この薬だけでは、毒を完全に消すことはできない。今は持ちこたえさせるだけだ。」

凛音は一瞬息を詰めた後、低い声で問いかけた。

「なら、どうすればいいの。」

「この辺りに雪蓮が自生していると聞いたことがあります。自然に乾燥させた雪蓮なら、ほとんどの毒に効くはずです。」

「雪蓮……確かに殿下も、それを集めて蒼岳の弟君の治療に使うよう命じていました。」

「その通りだ。」蒼岳が少し眉を寄せて口を開いた。「ただ、雪蓮は希少だ。近くの辺境の雪山には生えているかもしれないが、数量が極めて少ない。加えて、あの地域は環境が苛酷な上、最近では盗賊や獣の出没も増えている。簡単には手に入らないだろう。」

「それでもやるしかないわね。」凛音は決意を込めた眼差しでそう言うと、洛白に向き直った。

「とにかく今は彼を休ませることが優先です。」洛白はそう言いながら、清樹の腕を取り、手際よく銀針を刺し始めた。

「針で毒の拡散を一時的に封じます。この方法で、彼の体は半月ほど持つでしょう。今夜はゆっくり休ませて、明日から具体的な計画を立てましょう。」


凛音の部屋。


ああ、袖口の牡丹が、花を咲かせたみたい。

これは……あの男の血だろうか。

私はもう王女じゃない。それは分かっている。

守るべき国もない。それどころか、自分の国民さえ守れなかった。

何と無用な存在か。

清樹みたいに、雪華国にまだ誰か生き残っているのだろうか。

探したい。守りたい。

私は正義なんか言わない。ただ、彼らのためにも、自分のためにも――

私は、この剣を抜く。



いろんな思绪が凛音の心を渦巻いていた。そのとき、不意に扉を叩く音が響いた。

扉の外には、一人の男が立っていた。濃紺を基調とした衣に身を包み、袖口と胸元には精巧な銀糸で瑞雲を思わせる模様が施されている。外衣の布地は微かな光沢を纏い、腰は引き締められたデザインで、彼の姿に端正さと静かな威圧感を与える。


扉は中から開いた瞬間。

「蓮!」

まさかの訪問者に驚き、そして再会の感情に押されるままに――

凛音は思わず蓮を抱きしめていた。

この瞬間、言葉は不要だった。ただ、再び目の前に現れたその存在に、凛音の心は揺れ動いていた。

蓮も、凛音がこうした反応を見せるとは思っておらず、一瞬驚き、そして少しの間ためらった。だが、次の瞬間には彼女の細い体をしっかりと抱き寄せ、そっとその腰に腕を回した。


「どうして、蓮はここにいるの?」

「ずっとそばにいると約束したから。」

凛音はその言葉に一瞬息を詰めた。彼の声には迷いもなく、まっすぐ自分に向けられているのを感じた。

彼女は、いつの間にか蓮の首から手を離し、その胸元にそっと預けていた。蓮の心臓の鼓動が微かに伝わるその感覚に、自分の高鳴る鼓動を重ね合わせるように、静かに息を整えた。


「凛凛、元気?」


「蓮、どうしてここにいるの?誤魔化さないで。」


「凛凛が辛そうな顔をしているから。」

凛音は答えず、目を逸らした。

「蒼岳から聞いたよ。凛凛が解毒薬を手に入れるために、自ら傭兵団の団長と対峙したって。」

凛音は一瞬動揺し、そっと蓮を押しのけようとした。だが、蓮はしっかりと彼女を抱きしめ、離そうとしなかった。


「そんな表情で……凛凛、ずるいな。」

蓮はそう言いながら、そっと彼女の目元に触れ、涙を拭い取った。

「綺麗だな。」

蓮は優しく凛音の額に触れ、前髪を軽く整えた。「今日の凛凛は、本当に綺麗だ。他人に見られたくないほどに。」

凛音は黙ったまま、目を伏せていた。その沈黙に気づいた蓮は、柔らかい声で続けた。

「話したくなければ無理しなくていい。でも……凛凛が何を選んでも、私は凛凛のそばにいる。」


その言葉に、凛音の感情が弾けた。

「そばにいるって、そんな簡単な話じゃないの! 私が誰なの、蓮は本当に知ってるの?」


「知ってる。」

蓮は静かに答えた。その声に迷いも揺らぎもなかった。


凛音は言葉を詰まらせ、一瞬視線を落とした。

「……何か知ってるよ。」

その声は低く、微かに震えていた。

「……この質問の意味は、私が蓮の誰かってことじゃない……。」


「知ってる。」

蓮の答えは変わらなかった。そして、穏やかながらも力強い声で、彼は凛音の心を見据えるように言葉を続けた。

「凛凛は雪華国の王女でしょう。」


凛音は突然、蓮を押しのけた。その細い肩に緊張が走り、目には涙が滲んでいるが、彼女の声は鋭く、決然としていた。

「そうよ、私は敵国の王女。」
彼女は一歩引き、蓮を睨むように見上げた。その瞳には怒りと悲しみが入り交じっていた。
「貴方の国は私の国を破滅させたんだよ。私の父上も、母上も、兄上も、皆死んだよ。貴方の父上のおかげで。」

「ああ、知ってる。それでも、私は凛凛のそばにいる。」


「私は、復讐のために、もう手を汚すことを恐れない。

もし、蓮の父上が本当に非道なやり方で、私の国の皆を殺したのなら――

その時は、蓮の父上まで、この手で殺してみせる。

だから、蓮、もう二度と私に会わないでください。」

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