第二章:焔華の凰、境界に舞う

第21話 境界の村、いざ進まん

「あなたは……誰なの?」

凛音は甘草の解毒剤を飲みながら、焚き火を見つめつつ、軽く試すように問いかけた。

彼女の心には、まだ幻覚の残像があり、蓮の姿が洛白の影に微妙に重なって見える。

「ただの医者です。それ以外の何者でもありません。」

蓮の身形や雰囲気に似ている……けれど、声が明らかに違う。

「まだ“医者”だと言い張るつもりですか。」

「本当の医者ですから。」

「あなたは一度でも私の名前を呼んだことがないわ。」

「それは本当の名前ではないからです。」

凛音は少し動揺したように見えたが、一心に答えを得るつもりで、手を伸ばして洛白の仮面に直接触れようとした。

だが、その瞬間、洛白が彼女の手首を軽く掴んだ。彼はわずかに目を見開いたが、その力は決して強くなかった。

「あなたはずっと前から、私の隣にいるでしょう。あの夜、白鳥の香囊……思い出しました。」

「何のことかしら。知りませんね。」

「私が女だと知っているくせに、その仮面をいつまでかぶるつもり?」

「知っているとして、それがどうしましたか?医者として患者をよく観察するのは当然でしょう。」


凛音は手を振り払い、まっすぐに彼の目を見つめた。そして小さな声で呟いた。

「私、本当の名前……誰にも呼ばれたくないの。」


焚き火の光が二人の間を揺らし、会話は静かに途切れた。


暫くして、洛白と凛音は身を整え、李禹を探しながら森の奥へと足を進めた。深まる霧を抜けた先、李禹の姿が木々の間に見えた。彼は屈み込んで地面を見つめている。

「李禹、何かあったのか?」

洛白の問いかけに、李禹は黙ったまま指先で前方を示した。

「見てください。曼陀羅華の群生です。普通の花とは明らかに違う。」

三人が近づいて目を凝らすと、そこには白と暗紅の曼陀羅華が咲き乱れていた。不規則に見えながらも、どこか計算されたような並びで広がっている。


「……道を示しているように見えます。」

凛音が言うと、洛白が視線を巡らせながら応じた。

「その可能性が高いですね。曼陀羅華は毒性と薬効を併せ持つ特殊な植物ですが、これほど広範囲に群生しているのは自然ではありえません。」

凛音は少し考え込むように花の群生を見つめていたが、やがて静かに言った。

「この先に何があるのか、確かめましょう。」

三人は互いに目を合わせ、無言でうなずくと、花々の導く方向へと足を進めた。森の奥から、何かが彼らを待ち受けているかのような気配が漂っていたが、足を止めることはなかった。


やがて、異様な静けさが三人を包み込んだ。鳥のさえずりも、風の音も消え、木々のざわめきさえ聞こえない。微かな足音が冷たい空気に響くが、その音さえ吸い込まれるように消えていく。ふと霧が途切れ、目の前の景色が一変した。


そこは、曼陀羅華に覆われた広場だった。白と暗紅の花々が大地を埋め尽くし、その中央には巨大な図騰が地面に刻まれている。絡み合う線と鋭い棘のような模様が複雑に描かれ、中央には不気味な円環が浮かび上がっていた。まるで長い年月にわたり染み付いたように、暗紅色の痕跡が模様を縁取っている。

どこかで見覚えがある――そう感じた凛音は、ゆっくりと歩み寄り、指先でその表面に触れた。

「……この模様。」
凛音の指先がわずかに震え、瞳が揺れる。「廃墟の村で見たものと似ています。」


洛白も図騰をじっと見つめ、目を細めた。
「この場所……十年前の出来事や最近の病に関係しているのか。それとも、何かの儀式の跡なのか……。」
彼の低い声には、緊迫感と慎重さが滲んでいる。

凛音は視線を上げ、図騰の向こうを見つめた。そこには遺跡の奥へと続く細い道があり、その先には白い光が差し込んでいる。


三人は無言のままその道を進み始めた。曼陀羅華の花々は徐々に姿を消し、地面は荒涼とした土肌がむき出しになっていく。森の切れ目から見える川流の煌めきが彼らの視界に広がった。その向こうには、一望無際の雪原が広がり、さらに遠くには雪山の稜線が薄青く霞んでいる。冷たい風が三人の間を吹き抜け、雪山の気配が何かを静かに見守っているかのようだった。

「雪華国……の境界線。」
凛音が低く呟く。その声には深い決意が込められているようだった。


川流のこちら側、森の際には小さな村が広がっているのが見えた。遠目には荒れ果てたように見えるその村は、まるで時間が止まったかのように静まり返っている。村の規模はそれほど大きくなく、大部分の建物は粗い石と木材で作られ、屋根には薄く積もった埃が色褪せた印象を与えている。


「ここが境界の村……のようですね。」
李禹が慎重に声をかけた。

三人は静まり返った村の中へと足を踏み入れた。廃れた建物が並ぶ中、彼らの足音が薄暗い空気に吸い込まれるように響く。その時、風の音に混じって微かな物音が耳に届いた。


「誰か……いる?」
凛音が音の方向に目を向けると、建物の陰に小さな影が走り去るのが見えた。

「待って!逃げないで!」
凛音の呼びかけに反応するように、小さな影は足を止めたものの、なお警戒した様子でじっとこちらを見つめている。三人が近づくと、それは灰まみれの少年だった。

身を縮めたその少年は痩せ細っていて、服はボロボロだったが、その目は驚くほど澄んでいた。凛音はしゃがみ込み、目線を合わせるようにして優しく声をかけた。


「大丈夫。怖がらないで。私たちは何もしないわ。」

少年は警戒しながらも、凛音の言葉にわずかに反応した。

「君、一人でここにいるの?」
洛白が低い声で問いかけると、少年は小さくうなずいた。

「名前は?」
凛音が尋ねるが、少年は短く首を横に振る。

「……ない。覚えてないんだ。」


凛音は眉をひそめたが、優しく問い続けた。
「君、この村の人なの?」
少年は小さく首を横に振り、消え入りそうな声で答えた。

「母さんが……言ってた。僕たちは川の向こうから来たんだって。」

「川の向こう……?」
凛音の声に、少年はわずかに怯えながらも、ぽつりと続けた。

「母さん、向こうに帰りたいって……ずっと言ってた。でも……ここで死んだ。」

その言葉に、凛音の胸が強く締め付けられた。彼が言う「川の向こう」とは、雪華国のことに違いない。それが凛音にとってどれほど意味深いものであるか、少年は知る由もない。


三人は少年を少し離れた広場に連れて行き、焚き火を起こして温かい食事を作った。少年はしばらく距離を保ちながらも、漂う香りに惹かれ、少しずつ近寄ってきた。凛音は微笑みながら、自分の分を差し出した。

「これ、食べていいのよ。」
少年は一瞬驚いた顔をしたが、空腹に抗えず、慎重に受け取ると一口ずつ食べ始めた。その姿を見て、凛音の胸には微かな痛みが走った。


食事が終わった後、凛音は少年の体にこびりついた泥を拭き取り、髪の絡まりを丁寧に整えた。彼が体を少し震わせながらも、凛音の手を拒むことはなかった。

「ここで何年も一人だったの?」

少年は黙ってうなずいた。

「本当に……よくここまで生き延びてきたわね。」


凛音はその言葉を口にしながら、焚き火の明かりに照らされる少年の姿をじっと見つめた。彼の瞳には消えない光が宿っている。


「名前がないと、不便なことが多いでしょう?」

少年は少し戸惑いながら凛音を見上げた。その目を見つめ返しながら、凛音は優しく微笑んで言葉を続けた。


「これからは『清樹ちんしゅ』と名乗ってみたらどうかしら?」

少年の目が驚きに見開かれた。

「清らかで、強く生きる樹。あなたにはそれがぴったりだと思うわ。」

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