第20話 幻影に囚われて
「なぜ、見殺しにした?」
振り向くと、雪の中に倒れ伏した人々が凛音を見上げていた。彼らの手は凛音に向けて差し伸べられ、悲痛な叫びが冷たい風に乗り、彼女の心を抉るように響いた。
「違う……私は……!」
気づけば、凛音の手も赤く濡れていた。その赤は雪を染め、足元に広がっていく。
「千雪――」
低く響く声が雪中にこだまし、彼女の心を鋭く切り裂く。現れたのは、冰冷な視線を持つ父と兄の姿だった。 父の鋭い眼差しが彼女を厳しく射抜き、兄の冷ややかな声が追い打ちをかける。
「国を捨て、家族を裏切ったお前に、何が守れる?」
「お前がいなければ、守れた命があったはずだ。」
「お前は背を向けることで、自分を正当化しているだけだ。」
「そんなことは……!」 凛音の体が震え、膝が雪に崩れ落ちる。足元に広がるのは、凍りついた雪の鏡。その中に映る自分の姿は、無力で震える五歳の少女だった。
視界が一変した。
白銀の雪景色は、瞬く間に暗闇に塗りつぶされた。凛音が気づけば、そこは果てしなく続く荒涼とした大地。ひび割れた地面が広がり、乾いた風が彼女の頬を掠めていく。遠くから聞こえる微かな呻き声が、心臓を締め付けるような痛みをもたらした。
「……助けて……」
どこからともなく響くその声に、凛音は視線を向ける。声の方向に歩み寄ろうとするが、足は重く、地面に縛りつけられているように動かない。裂けた大地の向こうから、土中に埋まった無数の手が、もがき苦しむように差し伸べられていた。その手から滲み出す痛みと絶望が、視線の先から波のように押し寄せてくる。
「聞こえている……あなたたちの声が。」
凛音は低く呟いた。けれど、その声には揺るぎない決意が込められていた。
「見て見ぬふりなんて、できないわ。」
歯を食いしばり、凛音は重い足を無理やり動かす。そして、一歩を踏み出した瞬間――空が裂ける音が響き渡る。
見上げると、巨大な影が彼女を覆い、荒野全体に圧倒的な暗黒を落としていた。それは一台の巨大な天秤だった。その天秤が、まるで彼女を裁くかのように、冷たい眼差しを向けてきた。
「お前が選んだその旅路に、何の価値がある?」
天秤の片側には雪華国の宮殿が浮かび上がっている。その中には、父や兄、そしてかつて守るべきだった人々の姿が映し出されていた。高みから投げかけられる冷徹な視線は、言葉にならない圧力を伴い、凛音の胸に突き刺さる。
もう一方には、凛音が旅の中で見てきた景色が渦巻いていた。助けた人々、救えなかった命、いまだ苦しみ続ける者たち――それらがひとつになって押し寄せ、凛音の意識を飲み込もうとしていた。
「お前は何も救えない。ただ現実から逃げているだけだ。」
天秤は軋む音を立て、ゆっくりと傾き始める。その重みは、彼女の存在を否定するかのようだった。
「違う……私は逃げてなんかいない!」
凛音の声が鋭く響く。顔を上げ、天秤を真っ直ぐに見据える。その瞳には迷いはなく、手を強く握りしめ、目の前の全てを壊そうと前へ進む。
「私は決して選ぶことを諦めなかった。完璧じゃなくても、すべてを救えなくても――この道は、私自身が選んだものだ!」
凛音は手をさらに伸ばし、前に突き出す。しかし、その先に触れたのは冷たく重い鉄の鎖だった。鎖は彼女の腕に絡みつき、動きを阻む。鎖が食い込むその場所――負傷した腕から激痛が走り、凛音の意識が大きく揺らぐ。
天秤が揺れながら、大きな音を立てて崩れ始める。その影は四散し、荒野の風景も激しく歪みだした。足元の大地が崩落し、凛音は動けないままその場に立ち尽くした。
「……凛凛。」
ふと耳元で響いた声。それは低く柔らかで、彼女を包み込むような響きだった。
振り返ると、そこにはかつての日々が広がっていた。林府の庭、静かな木々の間に差し込む光の下で彼女を見つめる少年の姿――莲。
「泣かないで、凛凛。」
莲の手が彼女の頬に伸び、静かに涙を拭った。あの頃と同じ、穏やかで優しい笑顔がそこにあった。
「莲……」
凛音の声は震えていた。目の前の存在が本物なのか、それとも幻なのか――そんなことはどうでもよかった。ただ、胸が痛むほど懐かしかった。
「大丈夫。僕はここにいるよ。」
莲の声は、林府で過ごした数々の記憶を呼び起こす。孤独に苛まれる日々、彼はいつもそばにいて、彼女に微笑みかけ、寄り添う存在だった。凛音は知らず知らずのうちに彼の胸に飛び込み、強く抱きしめていた。
「もう一人にはしないで……!」 凛音の震える声が闇の中に溶けていく。莲は優しく彼女の背中を撫でながら、静かに言葉を紡いだ。
「凛凛……僕のこと、嫌い?」
その問いは、静かでありながら、どこか刺さるような重さを持っていた。
「嫌いじゃない! 嫌いなはずがない!」
凛音はすぐに否定した。だが、莲の表情は僅かに陰りを見せた。
「じゃあ、どうして私を置いて行ったの?」
莲の声がわずかに震える。その姿は次第に変わり始め、幼い頃の優しい少年の面影が消えていき、代わりに現在の莲の姿が浮かび上がる。背丈は伸び、瞳にはどこか影が落ちていた。
「凛凛は……私を、捨てたの?」
莲の声が静寂を破り、冷たい刃のように凛音の胸を刺した。彼女の瞳が揺れ、喉が引き締まり、言葉が出てこない。震える手を伸ばそうとした瞬間、目の前の莲の姿が一変した。
「莲!」
凛音は叫び、駆け寄る。彼の体に鮮やかな赤が広がり、血が滴り落ちる。白い庭はたちまち染められ、凛音の手に触れていた彼の手も冷たくなり、力を失っていく。
「凛凛……痛いよ。」
莲の声は弱々しく、震えていた。目には涙が滲み、その瞳は痛みに歪む。それは優しさを宿した少年の目でも、成熟した青年の目でもなく、絶望の底に沈んだ目だった。
「いや……違う、これは……!」
凛音は恐怖で後ずさったが、足元に絡みつく鎖のような感覚に動けなくなる。
「凛凛、私はあなたを守りたかった。でも、凛凛は……私を見捨てたんだ。」
莲の血に濡れた姿が倒れ込むように凛音の方に手を伸ばす。凛音はその手を掴もうと必死に動くが、その手前でまた幻覚が歪み、莲の声が彼女を引き止める。
「あなたは私を忘れた。置き去りにして、別の世界を選んだんだ。」
凛音は震える手で、血まみれの莲の体を抱きしめた。その重みと冷たさが彼女の体に染み入り、涙が止めどなく流れる。
だが、その瞬間――。
触れていたはずの冷たさが消え、代わりに感じたのは、驚くほど温かい手の感触だった。
「目を覚ましてください。」
低く落ち着いた声が耳元に響く。その声は現実のものであり、彼女の意識を強く揺り動かした。振り返ると、そこにいたのは洛白の姿だった。彼はしゃがみ込み、優しく彼女の肩に手を置いている。
「幻覚に囚われる必要はありません。あなたは一人ではありません。」
「私は……でも、莲が……」
凛音は混乱しながら口を開く。幻覚の中の莲がなおも彼女を呼び続けていたが、その声は次第に遠ざかり、歪み始める。血まみれだった彼の手が、少しずつ霧のように消え去っていく。
「これは本物ではありません。あなたを守りたい者は、今ここにいます。」
洛白の手がそっと彼女の手に触れた瞬間、周囲の暗闇が崩れ去った。破壊されていく幻覚の残響が消え、現実の森が徐々に視界を取り戻す。
凛音は息を整えながら、無意識のうちに洛白の胸元に寄りかかった。しかし、すぐにその感覚に気づき、慌てて体を起こす。
「……ごめんなさい。大丈夫です。」
彼女は俯きながら、そっと距離を取った。
「先ほど……『蓮』と呼んでいましたね。重要な方ですか?」
凛音は視線を彼から外し、俯いたまま小さく頭を下げて言った。
「ええ」
彼女の声はかすかに震え、それだけを言うのが精一杯だった。
洛白は一瞬、言葉を返そうとしたが、何かを察したのか、そのまま静かに目を伏せた。
風が二人の間を吹き抜け、短い余韻だけが残された。
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