第10話 夕日の別れ

「お嬢様、本当にお一人で行かれるのですか?」

翠羽が不安げに問いかけると、凛音は静かに頷いた。

「ええ、もう決めたことだから、ごめんね、翠羽。あなたが来たばかりなのに……」

「いいえ、お嬢様のおかげで、もう新しい人生をいただきましたから。」

「そんなふうに考えちゃだめだよ、翠羽。」凛音は優しく微笑んだ。「まだまだ足りないわ。私がいない間に、もっと勉学して、体も鍛えて。手に入れられるものはすべて掴んで。その先こそが、本当の新しい人生になるから。」
翠羽は驚きと共に、その言葉を胸に刻み込むように頷いた。

「それから……お願いがあるの。昼間の時に、もっと母様の所に行ってくれない?」

そう言いながら、凛音はそっと翠羽の手を握りしめた。

「はい、わかりました。お嬢様も、どうかお気をつけてください。」


凛音と翠羽が話している間、蓮は凛律の部屋で苛立たしげに歩き回っていた。

黒い衣服に身を包んだ彼の姿は玉樹臨風そのものだったが、顔には険しい表情が浮かんでいる。


「やめてくださいよ、もう歩き回らないで、殿下。」と凛律が苦笑しながら声をかけた。

蓮は一瞬立ち止まるが、顔に浮かぶ憂いは消えなかった。「だって、凛凛はもうすぐ行ってしまうじゃないか……」

「はいはい、少しは冷静になってくださいよ。どうです?今頃後悔してるんじゃないですか、あの発言を──『今回、私も凛律も任務があって、一緒に行くことはできない』なんてね。」凛律は肩をすくめ、からかうように微笑みかけた。



蓮は凛律の言葉に一瞬表情を曇らせたが、何も言わずに視線を落とした。


今さら……私は何をしてるんだ。

彼女を止められない自分の無力さに、ただ胸が痛んだ。

何を言っても、凛凛は行く。

だからこそ……守る手立てを尽くすしかないんだ。


凛律は蓮の反応を見て、少し柔らかな表情に戻し、静かに尋ねた。「まあ、あの子は強いからね。でも、殿下なら……何か準備してるんじゃないですか?」

蓮は視線を外しながらも小さく頷いた。「父上にお願いして凛音の護衛につけてもらった。私の信頼する者だ。彼女には、師匠から伝えてもらう予定だ。凛凛一人では、師匠も心配だから。」

凛律は満足そうに微笑んだ。「それなら安心だな。」


一息ついてから、凛律は少し表情を引き締めて尋ねた。「ところで、殿下。捕らえた男の件はどうなったのですか?」


蓮は顔を上げ、鋭い目で凛律を見つめ返した。「慕家の指示だそうだ。慕正義が行ってきた数々の悪事が露見するのを恐れて、凛音を狙っている。父上に告発される前に、凛音を消すつもりだったらしい。」

凛律は蓮の説明に、深く頷きながら短く息を吐いた。「分かりました。こちらも、しっかりと目を光らせておきます。」


コンコンッと凛音が扉を叩く音がした。

「お兄様、いらっしゃいましたか?」

凛律がドアに向かおうとした瞬間、蓮が手を伸ばして彼を引き止め、さっと内室のカーテンの後ろに身を隠した。凛音は中のこそこそした音に気づいたが、気に留めることなく、続けた。

「お兄様、剣術を稽古してもらえませんか。」

凛律は微笑み、軽やかに応えた。「いいよ。久しぶりに可愛い妹と稽古しよう。」


後院に移り、凛音と凛律は剣を交える。稽古の場に緊張感が漂う。


凛音は素早い動きで間合いを詰め、鋭く剣を振りかざす。凛律は軽やかにそれを受け流し、素早く反撃に転じた。凛音は即座に反応し、身体を低く反らせて兄の剣をかわし、地を滑るようにして再び構え直す。そのしなやかな動きは、まるで舞うようであり、凛律も思わず感嘆するほどだった。


二人の剣は再び激しくぶつかり合い、火花が散るように鋭い音が響き渡った。凛音は俊敏な動きで攻撃を繰り出し、まるで風のように軽やかに凛律の周りを舞うように動きながら、攻撃の隙を狙った。


凛律は少し驚きの表情を浮かべた。妹の動きは以前よりも遥かに鋭く、まるで本物の戦士のようだった。「本気で来い」と挑発するように笑みを浮かべつつ、次の一撃に備えた。


そしてついに、凛音の剣が凛律の首元に届くかと思った瞬間、彼女はその剣をふいに引き、静かに背後へと収めた。凛音は一歩前に踏み出し、そっと凛律の胸元に顔をうずめるように寄り添い、小さな声で呟いた。


「ごめんなさい。お兄様に心配させて。」


凛律はその言葉に、胸が締めつけられるような痛みを覚えた。彼女が背負う何かに気づきながらも、それを守ってやりたいという想いが胸の奥で強く響いた。


彼は何も言わず、いつものように優しく凛音を抱きしめ、静かに応えた。


「いいよ。」


凛律の腕の中、凛音はほんのわずかに体を預け、二人の間に静かな時間が流れた。


蓮は木陰に身を隠しながら、心中は複雑な感情に揺れていた。心配と焦燥、嫉妬と羨望、そして、なぜ自分が隠れてしまったのかという小さな後悔が、入り混じっていた。

その時、凛音の澄んだ声が大きく響いた。

「蓮、一緒にどこかへ散歩しませんか?夕日を見に行きたいの。」

その一言で、蓮の胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。彼にはわかっていた。これは、凛音が自分に別れを告げに来たのだと。


二人は丘の上に並んで立ち、静かに沈む夕日を見つめていた。空は橙から薄紫へとゆっくり色を変え、柔らかな光が凛音と蓮の顔を照らし出している。影は長く伸び、まるで別れを告げるように淡い夕闇が迫っていた。


「蓮、いつもそばにいてくれてありがとう。」

凛音の言葉が静かに響いた。蓮は答えず、ただ夕日に目を向けたままだった。

「蓮、いつも助けてくれてありがとう。」

凛音の声にはかすかな震えがあったが、蓮は無言のままだった。

「蓮、いつも笑わせてくれてありがとう。」

一瞬、蓮は顔を上げ、僅かに口元を緩める。しかし、その笑みにはどこか寂しさが漂っていた。


「凛凛、やめてよ。」蓮は少し震える声で、あえて軽く言葉を返す。「夕焼けは綺麗だな。」


凛音は一度深呼吸し、強く拳を握りしめて言葉を続けた。


「蓮、私は蓮のお嫁さんになるつもりなんて全くないわ。」

今、こんなことを言うべきじゃないのかもしれない。蓮を傷つけてしまうかもしれない。

「蓮、私はこの国の第二王子のお妃になんてなれないわ。」

でも、今言わなければならないの。蓮のためにも、自分のためにも。

「蓮、私は蓮と恋をするなんて、一度も考えたことはないわ。」

どうして蓮の顔を見ると、胸の奥がこんなに痛むんだろう。


彼女の言葉が重く響き、蓮は思わず息を呑む。胸の中で何かが崩れていくのを感じ、視線を逸らそうとするが、その瞬間、目頭が熱くなるのを止められなかった。夕日が最後の輝きを放ちながら沈んでいく。


凛音は視線を夕日に向けたまま、拳を強く握りしめていた。二人の間に漂う沈黙が、別れの重みをさらに深めていく。


「凛凛が……」蓮は小さな声で呟いたが、言葉にならない。目に涙が滲んだ瞬間、彼は思わず横を向き、夕日に隠れるようにした。


「今日の夕焼けは、本当に綺麗だな。」


その言葉には、悲しみと未練がにじんでいたが、彼は涙を見せまいと空へと視線を向け続けた。

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