第9話 忘れえぬ国へ
私は雪華国に行きたいの。
自分の生まれた国に。父上と母上が死んだ国に。
でも、本当のことを言うと、雪華国がどんな国だったのか、私は知らない。
覚えているのは、ただあの雪夜だけで──それ以外、何も。
水源を共有し、雪華国は上流に、白瀾国は下流に位置していた。
婚姻や貿易、環境保護や政治面での交流も盛んだった。
だが、ある日突然、雪華国の境界にある村に奇妙な疫病が発生した。
病は水源に近い場所へと拡散し、やがて白瀾国の辺境にも似たような症状が広がり始めた。
水が汚染され、民たちの不安は膨らみ、恐怖に満ちていった。
白瀾国の王は何度も使者を送り、雪華国と対話を試みた。
疫病の原因を究明し、被害を食い止めるために。しかし、返答は得られず、話し合いは空転するばかりだった。
死者の数は増え、国中がパニックに陥り、ついに白瀾国は武力で真相を解き明かし、自国を守る決断を下した。
これが、今でも史書に記されている戦争の経緯だ。
けれども、一体、何が真実で、どこまでが作られたものなのか。
どうして父上が返事をしなかったのか?どうして戦争に至ったのか?
疑問は尽きない。そして、このまま何も知らずにはいられない。
何かが私をあの地へと呼んでいる気がする。
たとえ雪華国が今や廃墟と化していようと、平地のように何も残されていなくとも。
私はそこに行かなければならないのだ。
「素晴らしい。」皇帝が興味津々に聞いた。「まさか、本当に勝ったわね。」
「陛下、今日は蓮殿下とお兄様が私を庇ってくださったので、私が試合に勝てたのです。」凛音が控えめに答えると、蓮がすかさず言った。
「凛凛、そもそも貴方が参加しないと、私は興味ないわ。」
凛律も微笑んで言葉を添えた。「陛下、剣術でなら負けるわけにはまいりませんが、射箭では妹に勝てる自信がありません。」
皇帝は二人が凛音を讃える様子に思わず笑い、「君子は一言既に出ずれば駟馬も追い難し。お前の望み、聞いてやろう」と促した。
凛音は一瞬ためらいながらも、服を軽くつまみ、お辞儀をして言った。
「白瀾国の水源近くにある村で、珍しい植物を採取させていただきたいのです。」
「なんだと?」皇帝は少し動揺し、半信半疑で聞き返した。
「父が長年の行軍で傷を負い、風が吹くと痛みが酷くなります。書物で、雪蓮がその痛みに効くと知りました。この薬草は雪と水源がそろった寒冷地でのみ育ち、花期は短く、今年の開花は8月末頃まで。そのため、9月現在では冷え込んでいる場所に限り、まだ採取できるかもしれない状態です。」
皇帝は考え込むように一度目を伏せた。すると凛律が心配そうに口を開く。「音ちゃん、そこは疫病で誰も住んでいないと聞いたよ。」
「知っております。」凛音は少し息を吸い込み、毅然とした表情で頷いた。「しかし、開花の時期が過ぎてしまえばまた一年待たねばなりません。今行くほかありません。」
皇帝は再び凛音を見つめ、彼女の目の奥にある決意を感じ取ったように、言った。「お前、まさか一人で行くつもりか?」
「はい、その通りです。」凛音は一瞬、緊張を押し隠すように唇を引き締め、凛とした声で答えた。「先ほどの試合で、ある程度は私の力を示せたかと思います。」
皇帝は少し笑みを浮かべ、深く頷いてから言った。「いいだろう。お前の覚悟、しかと見届けた。行くことを許そう。しかし、くれぐれも気をつけるのだぞ。」
この時、蓮は眉をわずかにしかめ、どこか不機嫌そうに口を挟んだ。
「女子が一人で行くなんて、随分な冒険だな。そこは寒いし、誰もいないんだぞ?今回、私も凛律も任務があって、一緒に行くことはできないが……」
蓮は言いながら、わずかに拳を握りしめた。自分が彼女に対して望まない言葉を口にしていることが、どれほど辛いか。だが、彼女の決意を前にして、何を言ったところで彼女はきっと行くのだろうと悟っていた。それが、昔から変わらない彼女の強さだったから。
(心の中で自嘲するように)
本当は、行かせたくなんかない。でも、お前はきっと行くだろう。
凛音はその言葉に一瞬戸惑ったが、毅然とした表情で視線を逸らさずに蓮を見つめた。
蓮は唇を引き締め、何かを堪えるように一瞬視線を反らしたが、最終的には冷静を装いながら淡々と答えた。「そうか。なら、好きにしろ。」
その後の武術大会で、蓮も凛音も次の試合には出場せず、残る競技はすべて凛律が優勝した。しかし、三人の間には冷たい空気が流れ、誰も言葉を発することはなかった。皇帝だけが、蓮の様子を興味深そうに見つめていた。
凛律は、妹の意外な願いに戸惑っていた。自分が大切に守り続けてきた妹が、なぜ遠く離れた雪華国に行きたがっているのか、どうしても理解できなかった。あの病気から回復した五歳の頃を境に、凛音はまるで別人のように剣術や射箭、兵法の修練に励み始めた。最初は、ただ体を鍛えようとしているのかと思っていた。しかし、そんな単純なものではないと次第に気づかされる。誰も、あそこまで徹底して鍛えることはしない。父上は妹を守れと言ったが、たとえ命令がなくてもそうするだろう。
一方で、蓮の心中は消えない不安と焦燥が渦巻いて、さらに複雑だった。
凛音が本当は林将軍の娘ではないことを、彼は遠い昔から知っていた。
幼い頃、父皇と激しい口論になり、家を飛び出して林府へと駆け込んだあの雨の夜、私はずぶ濡れのまま高熱を出して倒れてしまった。林府の客間で寝かされた私の枕元には、凛音が付き添ってくれていた。
夜が明ける頃、ようやく熱が引き、目を覚ますと、彼女が疲れ切った顔で私の横に伏せて眠っていた。その小さな肩が震え、彼女の頬には乾きかけた涙の跡が残っていた。眠りながらも、彼女は小さな声で囁くように、「父上……殺さないで……死なないで……」と呟いていた。その言葉が胸に突き刺さり、あの時から、彼女が背負っている深い悲しみと孤独に気づかされたのだ。
その頃、師匠が雪華国から戻った時期でもあり、私は凛音が雪華国の王女であることをすぐ理解した。だが、彼女が何者であるかは関係ない。何よりも大切なのは、彼女が私の傍にいることだと思っていた。十年もの間、自分を欺き続けてきたが、慕家の事件が起きて以来、彼女の心が遠くへと向かい始めているのを感じる。
もしかすると、彼女は本当に私のもとを離れてしまうのだろうか……
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