第3話 闇に咲く蓮


翠羽が死んだ彼の姿を見た瞬間、思わず大声で叫びそうになった。 凛音が止めようとしたその瞬間、黒衣の男がふいに現れ、素早く翠羽の口元を押さえた。


その男は、白磁のように滑らかな肌を持ち、瞳は夜空に輝く星のように澄み渡っている。まさに、秀麗な風采を漂わせていた。深海のような濃紺の長衣に袖口と襟元には金色の蓮が精緻に刺繍され、髪は薄紫と白銀の蓮の花飾りで高く結われている。腰には蓮を象った玉佩が揺れ、肩には黒の羽刺繍が施された軽やかな薄披風を纏い、その端正な佇まいが一層際立っていた。


彼こそ、この国の第二王子、南宮蓮ナンキュウ レンである。


「蓮、どうしてここにいるの?」

「そんなことを話している場合か?凛音、早く帰れ。」

「でも…」

「『でも』じゃない。今の状況がわかっているか?もし誰かに見つかったら、凛音もこの子も罪に問われる。たとえ相手が悪人だとしても、凛音や林将軍には決して良い話にはならない。」

「……お父様…」

蓮は優しく凛音の顔についた血痕をそっと拭った。まるで「君を傷つけたくない」と言うかのように、ごく控えめに触れるだけだった。 そのあと、彼は自分の薄披風を凛音の肩にかけて、留め具をゆっくり結んだ。

「これで少しは見栄えが良くなっただろう?」と、彼は冗談めかし、柔らかい目で彼女を見つめる。

「大丈夫。ここは任せておけ。凛音は早く帰って休むんだ。」彼は凛音の頭をぽんぽんと軽く叩き、わざと明るい声で続けた。

凛音はまだ心配そうに翠羽を見つめていたが、蓮はその視線に気づいてそっと優しく頷き、囁くように言った。

「あの子のことは、私が必ず守る。凛音、安心して帰ってくれ。」

凛音はしばし蓮を見つめたあと、静かに頷き、彼に背を向けると、無言で部屋を後にした。


「翠羽と呼ぶね。あなたは今から目を閉じて、一から三十まで数えてみてください。三十まで数え終えたら、大きな声で叫びなさい。そして、誰かが来たら、黒鷹模様の暗紅色の官服を着たおじさんの後ろに隠れるんだ。」

蓮の言葉に、翠羽は緊張した面持ちで頷き、目を閉じて小さく数を数え始めた。「いち、にい、さん……」その声は徐々にか細くなり、焦る気持ちを抑えながら、懸命に数を進めていく。

その間に、蓮は素早く部屋の置物を乱し、まるで激しい乱闘があったかのように配置を変えた。次いで、慕正義の死体に近づき、凛音の翡翠簪を首元から抜き取って着物の内側に隠した。

「二十六、二十七、二十八……」翠羽の声が緊迫感とともに響く中、蓮は再度状況を見回し、簪の痕跡がくっきりと残っているのに気づくと、壁に掛けられていた剣を手に取り、慕正義の首元をさらに深く切り裂いた。あたかも「剣による一撃」で殺害されたかのように見せ、簪の痕跡を覆い隠した。

「二十九……三十!」翠羽が一際大きな声で叫ぶと、すぐに外から人々のざわめきが近づいてきた。

「よくやったな。もう大丈夫だ。」


「ああ、我が正義よ……誰がやったのか、誰か!」

「一体どういうことでしょうか。」林将軍も慌てた様子で尋ねた。

翠羽は林将軍を見上げ、すぐに彼の後ろに隠れ、緊張のあまり暗紅色の官服の裾をぎゅっと掴んだ。

「慕侯爵、林将軍、ようやく来たか。」蓮は落ち着いた声で二人に振り返った。

「殿下もいらっしゃったのですか。何があったのでしょうか?」

「ええ、私は宴席に向かう途中、池のほとりで黒い人影が見えたので、様子を見に来たのだ。すると、この子の叫び声が聞こえた。部屋に入った時には、彼女は手足を縛られてまるで人質のようにされていた。そして、正義の姿を見て驚きましたが…すでに彼は息絶えていた。」


「一体誰がこんなことを!我が息子に何の落ち度もないのに!」

「それは私のセリフですよ。」蓮は冷ややかに言い返した。「父上の命でここに来ましたが、いきなり殺人事件と誘拐事件に巻き込まれたとは…どう報告したらいいものか。」

「ゆ、誘拐…?」侯爵の顔が一瞬強ばった。

「そうだ。この弱き年の子娘が誰によってここに連れてこられたかはわからないが、手足を縛られた状態でここにいる。何のつもりだ!」

蓮は事情を知らないふりをしながら、苛立ちを抑えた口調で問いただした。慕侯爵は震えながらも言い逃れるように泣き続けた。


「我が可哀想な息子よ…殿下、本当に誰がやったのか、お見かけにならなかったのですか…?」

「まさか、私が嘘をついているとでも言うのか?」蓮は一瞬冷たい視線を侯爵に向け、彼の問いを遮った。

侯爵は慌てて跪き、「い、いいえ……」と縮こまった。

「蓮殿下、侯爵も息子を失ったばかりです。どうかお心遣いを。」林将軍が侯爵の肩を軽く叩き、なだめるように言った。侯爵は小さく頷き、蓮の威圧に押されながらも黙り込んだ。


「今後どうするつもりだ?」蓮は侯爵を見下ろしながら言葉を続けた。「正義のこと、私も残念に思っているが、死んだ人間は戻らない。しかし、この子の件はどう説明するつもりか。すべて父上に報告するのか?」

誰も答えず、その場に静寂が漂った。全て蓮の計画通りだった。

彼はさらに問い詰めるように続けた。

「もしかして、この子は正義自身がここに連れてきたのか?そうでなければ、彼の部屋にいる理由がない。」

「彼女の家族はどこだ。早く返してやるのが筋だろう!」

それでも誰も返事をせず、誰もが緊張し、蓮の質問に答えられないまま下を向いた。

侯爵がようやく小さな声で「申し訳ございません」と呟く。

蓮はため息をつきながら、「はぁ、私は皇宮に戻る。林将軍、この子娘を頼む。事の成り行きについては…私が父上に報告しておこう。」

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