第2話 簪の刃

慕正義が「側室になるのだ」と薄く笑った瞬間、

凛音は抑えきれない怒りを胸に秘め、袖に忍ばせた銀針をそっと放った。

その針は、肉眼では見えないほど細く鋭く、素早く慕正義の首筋に突き刺さった。

毒は致命的ではないが、ゆっくりと血液に溶け出し、彼の意識がじわじわと朦朧としていく。

毒が体に回るには少し時間がかかるものの、油断を誘うには十分だった。


それは、今夜の行動に備えた静かな狼煙のようだった。


失礼すると告げ、凛音は賑やかな宴席を後にして静まり返った東院へと向かった。

人の出入りがほとんどないのか、薄暗く冷えた空気が漂っている。

満月に照らされた池のほとりには、枝垂れる木々の影が揺れている。
やがて、慕正義の私室の一室へと近づき、窓の隙間から中を覗くと、

小さな少女が手を縛られ、部屋の隅で小さく泣いている姿が見えた。


「あの凡骨、まだ戻らないみたい。」

凛音はコソコソと部屋に入る。

「泣く暇はない。すぐに逃げるわ。」

そう言いながら、凛音はそっと少女の涙を拭った。

(すすり泣きの声)

「名前は? あなたのお爺さんはもう亡くなった。今は、あなたが生き延びることが一大事。」
「翠羽です……お爺さん、本当に……」

「ええ。悔しいなら、生き延びなさい。生きて、強くなって、誰にも傷つけられないように。」


「貴様、何をするつもりだ!」慕正義が怒りを含んで、こちらに威圧的に歩み寄ってくる。

凛音は急いで翠羽を背後に隠した。

慕正義は嘲るように薄笑いを浮かべて言う。

「どうした?そんなに俺の側室になりたいのか?自ら俺の部屋に入ってくるなんて。」

「冗談はおよしください。」凛音は冷たく返す。

「それなら、普段高貴なお嬢様がわざわざ俺の部屋に来た理由は何だ?」

彼は凛音の後ろに隠れる少女を見て、「今日は三人で楽しもうか」と言い、両手を広げて近づいてくる。

凛音は艶やかに微笑んだが、その瞳には冷たく鋭い光が宿っている。次の瞬間、凛音は彼の隙を突き、素早く首元に蹴りを入れると、すかさず背後に回り込み、髪に挿していた翡翠の簪を抜き取り、彼の喉元に突きつける。


この翡翠の簪は見た目にはただの飾りだが、隠された部分は鋭利な銀の刃に改造されており、喉を斬るには十分な威力を持っている。

「どう?私が泣きながら助けを求めるとでも思った?」凛音が冷たく言い放った。


慕正義の目には、隠しきれない驚きが宿っていた。彼は虚勢を張って言う。

「女のくせに、俺を殺すなんてできるのか?」

凛音は無言のまま簪に力を込め、慕正義の肌にかすかな血がにじんだ。

彼は軽く震え、凛音は冷たい声で告げる。

「痛くもないでしょう?もう何も感じられなくなるわ。」

「お前……何をした?」

「フッ、言ってもどうせ理解できないでしょうね。滴水観音テキスイカンノンよ。」

滴水観音は、枝葉や根茎に毒を持ち、皮膚に触れるだけでもかゆみを引き起こす植物だ。数倍に濃縮したその毒が針を通して体内に入れば、喉の違和感から全身麻痺へと進行する。

慕正義は、ちょうどその時、喉に違和感を覚え、全身が麻痺していくのを感じ始めた。


「どんなに声を上げても、誰も助けてくれないよ。――ちょうど、あなたが虐げてきた庶民たちが感じたように。」

慕正義の顔が一瞬で青ざめる。彼は周囲を見渡すが、凛音の言葉通り、助けはどこにもない。

「さあ――どうやって死にたいか、自分で選んでみてはどう?」

慌てて一歩引いた彼は、必死に平静を装いながら嘲笑を浮かべた。

「ハハ……まさか雪華国の王女さまはそんなこともするのか?」

彼は凛音を見下すように続けた。

「本当に雪華国がただの戦火で滅びたと思っているのか?あれは始まりに過ぎない……お前の両親や兄弟が、もしいまだ生きているとしたら、どうなるか知っているか?」

凛音の目が一瞬だけ揺らいだ。胸の奥で微かな痛みが走る。

「あなたのような存在は、この世に不要よ。」

彼女の目にはすでに迷いはなく、ただ冷酷な覚悟が光っていた。そう言うや否や、凛音は手にした簪を無情にも彼の喉元へ突き刺し、慕正義の息の根を完全に止めた。



(間)



今夜、元王女さまは殺し屋になる。

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