雪の刃—殺し屋の元王女さま

栗パン

序章:決意の月明り

第1話 偽りの貴公子

**

白き雪が舞う夜。

「父上……どうしたんの?」

千雪の唇が震え、信じられない光景を前に、かすれた声で問いかけた。


黒か赤か、血の海の中に、母上が倒れているのが見えた。父はその母の体から剣を引き抜き、ゆっくりと微笑みを浮かべながら、自らの喉元に刃を当てて――。


千雪は凍りついたように立ち尽くしていた。

**


「お嬢様、起きてください。旦那様がお呼びです。」

「お嬢様……」

侍女が扉を軽く叩く音で、私は目を覚ました。


ああ、夢か。またこの夢を見たのか。私はもう千雪ではない。

今の私は凛音リンイン、将軍の娘。


あの夜、お父様は敵国の王女である私を家に連れ帰った。

昔亡くした娘に似ているからか、殺すことはできなかった。

それから私は「凛音」として、敵国で生き続けている。


何年も経ち、この夢を繰り返し見る。

涙も枯れ果てたはずなのに、どうしてあの光景を忘れられないのだろう。


「はい、すぐ参ります。」

凛音は青い座布団から静かに立ち上がり、翡翠の簪を挿しながら外へ出た。


「旦那様、奥様、お嬢様がお着きです。」

「何がお嬢様よ、威風堂々たる若君ではないか。」

奥様は凛音を見て微笑んだ。凛音はまた、若き貴公子のように髪を束ね、蜻蛉が蓮を巡り舞い恋する模様を刺繍した水色の長衣をまとい、黒緞子の長靴を履いている。


「さすがはお母様、人を見る目がございますね。」

「まあ、凛音だもの、もともと秀麗ですから。」

「あら、お母様に似ていると思いますけど。お父様、お呼びでしょうか?今から軍営に参って、訓練ですか?」

「凛音、今日は満月の日だ。訓練はひとまず休みなさい。今日はお母さんと一緒に、美しい首飾りや灯籠を買ってきなさい。武器ばかりに夢中になっていると、お母さんに責められてしまうよ。」

「はい、わかりました〜!」

凛音は甘えた声で答えながら、奥様の手を取って絡めた。


凛音は服を着替えず、そのまま奥様と一緒に街へ向かった。


赤い飾り灯籠があちらこちらに並び、今日は団欒の日なのだろう。

こんな夢を見るなんて。

今の私は決して不幸ではない。父と母は私を甘やかしてくれている。


「凛音、これはどうかしら?」

奥様はアクセサリーの屋台で、黄色のバラ水晶の簪を手に取りながら尋ねた。

「綺麗ですね。お母様にお似合いです。」

「私じゃなくて、凛音にだよ。」

「ええ、私ですか。こういう艶やかなものは苦手です。」

凛音は遊び心を見せながら、ある真珠の飾りに手を触れ、答えた。


ああ、動いている、この真珠。

これは白い鳳凰が口に真珠をくわえた簪だ。真珠はまるで月のように輝き、宮廷にもありそうな品だ。

もし、この真珠を小さな釘で突き通せば、毒薬を仕込むのにも適している。動くし、回転すれば毒薬も漏れにくい……なるほど、使えるな。


「何を言ってるの?凛音だってこの鳳凰の簪が気に入ってるじゃないの。お母さんが買ってあげるわ。」

奥様の声が、凛音の思いを遮った。


「奥様と若君は良い目をお持ちですね。これは昔の雪華国で有名なもので、皇后様もお好きな品ですよ。」

「雪華国……嘘よ。」

凛音は震える声で小さく答えた。

そんなものがあるなら、私は知らないはずがない。

そんなものがあるなら、すでに血に染まっているはずだ。


「そうなんですか。では、買いますね。」

そう、お母様は何も知らない。お父様が私を敵国から連れ戻したことも。

愛娘を失ったお母様は、私が来る前まで、ずっと眠り続けていた。

それほど、悲しみと絶望に囚われていたのだろうか。記憶さえも失ってしまうほどに。


「凛音、次の場所に行きましょう。」


奥様と共に歩き始めたそのとき、どこからか人々のざわめきが聞こえてきた。すぐ近くで、泣き声と叫び声が入り混じり、祭りの賑わいをかき乱している。


まさか、こんな日に……

何かに引き寄せられるように、

凛音の視線が人混みの中を鋭く探っていた。


「許してください、若旦那様。孫はまだ若いんです。連れて行かないでください、どうかお願いします!」


人混みの中、年老いたおじいさんが正座してひどく泣いていた。

対面には、凶暴な男たちが数人立ちふさがり、中央には侯爵の一人息子、慕正義ムセイギの姿がある。

名前とは裏腹に、まるで無正義ではないか。

今どき、女を脅すなんて。時代遅れにもほどがある。


「慕正義、またそんなことをしているのか。」

林凛雲リンリンウンか、貴様には関係ない。」

凛雲――それは、凛音が男装する際に使う名で、林家に存在しない「次男」という設定だ。

軍営に身を置くには、林家のご令嬢という身分では不都合が多すぎる。
お父様は私を愛し、いざという時に備えて、武器としての力を与えてくれた。

そして、それはあの人――父上の最後の言葉とも重なっている。

「千雪よ、女として身を守ることを忘れるな。お前は一国の王女として生きるのだ。」


凛音は腰に下げた玉佩の珠をそっと外し、気付かれないように慕正義の手元に投げつけた。彼の手が一瞬緩んだ隙に、小さな女の子が凛音の方へと逃げ出そうとしたが、すぐに手下に捕まってしまった。


「正義君、どうかしたのか?」

「ああ、林夫人もいらっしゃいましたか。この娘が万引きをしていたんです。俺がきちんと処理します。」

「そうなの?でも、まだ幼い子供じゃないか。私の顔を立てて、許してあげてはくれないか?」

話を聞いて、女の子は涙をぽろぽろ流しながら叫んだ。

「嘘よ、嘘よ、何もして……!」

言葉が終わらないうちに、男たちはその子を力ずくで引きずっていった。

凛音は母の横顔を見つめ、大きく行動を起こすことができず、歯がゆい思いをかみしめるしかなかった。


「こんなに早く帰ってきてくれたのね。」

「お父様、聞いてください。慕正義がまた……」

凛音が詳しく話を伝える間、お父様は優しく凛音の頭を撫でていた。

「そうか。それならば私が見届けておこう。今夜は慕府で宴が開かれるが、ちょうど良い機会だな。それに、凛律も間もなく戻るだろう。蒼霖国との交渉も無事に進んだようだ。凛音、お前も共に赴きなさい。」


そして夜、宴会の前。

凛音は水色の襦裙の上に、桃色と銀色の糸で舞う花と蝶が繊細に刺繍された薄手の上衣を羽織っている。花と蝶が追いかけ合うように揺れ、歩くたびにふんわりとした動きを見せる。

腰には薄紫の帯が柔らかに結ばれ、その帯には香袋がひとつ添えられている。香袋はごく控えめで、薄い香りがほのかに漂い、ささやかな存在感を放っている。

足元は、桜色の絹靴に、淡い薄荷色の藤蔓模様が控えめに刺繍されている。華美すぎないながらも、柔らかで落ち着いた温かみがある。
白磁のように透き通る肌は、薄化粧が施されているだけで、自然な美しさが際立つ。杏花のように美しい瞳は、見る者に柔らかさを感じさせる一方で、時折、鋭く凛とした光を宿すこともある。


「お父様、参りましょう。」


慕府は、まさに贅沢の象徴のような邸宅である。

正門には大きな金色の蛇飾りが施され、両脇には赤い花飾りをつけた巨大な石獅子が鎮座している。門をくぐると、朱塗りの柱と緑色の琉璃瓦で彩られた楼閣が立ち並ぶ中庭が広がっている。

柱の一本一本にまで金粉が散りばめられており、見る者には一見美しく映るが、どこか俗っぽく、庶民の生活とはかけ離れた世界を思わせる。


歩みを進めるたび、灯籠の淡い光が凛音の姿を浮かび上がらせる。宴席に近づくと、人々の視線が驚きと憧れが混ざって彼女に集まるが、凛音はそれを意に介さず、静かに前を見据えて歩みを進める。その清らかな装いが一層引き立っている。


「林将軍、おいでくださったのですね。御令嬢はますます麗しくなられ、まこと目を見張りますな。そろそろ良縁も考えていらっしゃるのでは?」

「慕侯爵、ご冗談を。娘はまだ若く、体もあまり丈夫ではありませんので、もう少しそばに置いておきたいのですよ。」

「そうおっしゃいますが、もう十五歳になられるとか。我が正義にはうってつけでしょう。」

「いえいえ、もったいないお言葉。何しろ目に入れても痛くない可愛い娘ですから、まだしばらくは手元に置いておきたくて。」


慕正義が突然、薄く笑いながら口を開いた。

「フッ、大事な娘かもしれませんが、やがて私の側室になるのですよ。」

凛音は怒りを抑え、控えめに一礼して、その場を離れた。


どんだけ凡骨、自我中心の王さま気取りだよ。

父は賄賂で私腹を肥やし、税金を湯水のごとく浪費して庶民から土地を奪う。

息子は贅沢三昧で、暴行は日常茶飯事。気に入らない相手を容赦なく虐げ、ついには民の娘を強引に奪い取る。

私が、側室だと。痴人に夢を説くものだ。冗談にもほどがある。

いずれ、この男に然るべき報いを与えねばならない。


「凛音、その件だが、あの子娘のことは侯爵に掛け合ったが、無駄だった。そして、彼女のお爺さんは……すでに残虐非道なやり方で殺されていた。明日、朝廷にも訴えに行く。」


死んだのか。やはり、この男は死に値する。


「お父様、私は今夜、ここで失礼いたします。」

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