無害で無力

 ついに腹の中で飼っていた金魚が死んでしまった。指折り数えれば十五年の大往生だ。腹の底で命が消えた予感がしてほろほろと涙が出てきてしまった時は驚いたが、君が見かねてよしよし優しく抱き締めてくれたのでことなきを得た。

 その金魚はまだ幼かった僕が夏祭りの金魚掬いで唯一手に入れたものだった。あの口を絞れる袋に入れてるんるんで持って帰って、家の中で改めて金魚を見た幼き僕はなにを思ったのだろう。今となれば問いただしてやりたい。だって金魚ごとその水を僕は飲み干したのだから。ひどく不味かった記憶だけが頭の片隅に残っている。

 金魚が腹の底で生きていると分かったのは何日か後のことで、ただ寝転がっているのに腹の中からぴちぴち水音が鳴るからおかしいなと思ったのがきっかけだった。十五年も共にしているので細かいことはあまり覚えていないし、いったい腹のどこで生きていたのかもよくは知らない。けれど、誰より僕のそばにいた生き物はきっとあの金魚ということになる。

 さて、そんな僕は愚かで、腹の底で金魚を買っていると喧伝してはひとに馬鹿にされ時にはいじめの対象にもなったのだが、唯一分かってくれたのが君だった。君は泣いていた中学生の僕に近づいて「分かるよ」と言った。話をしてみれば、どうやら君は頭の中でグッピーを飼っているらしかった。僕はひどく喜んだし、君もそうだった。それからはどんな目に遭っても僕は落ち込まなかったし、金魚のことは誰にも隠すようになった。お陰でいじめなんてものとは無縁になったし、君という最高の理解者を得たことで僕の精神は平穏を極めた。

 腹の中の金魚は特に無害だ。だからといって有効ななにかが僕にもたらされるというわけでもなかった。僕はそんな腹の底の金魚に愛着を持っていた。僕に寄り添ってくれる最初の生き物はその金魚だった。次が君だ。

 金魚は僕が食べたものをえさにしているのか、それとも僕の栄養を身体のどこかからもらっているのか、とにかくずっと生き延びていた。金魚が元気だと思うと僕は嬉しかったし、君のグッピーの様子も気になった。僕と君はたびたび金魚とグッピーの様子を報告し合い、ターンをすると一緒に目を回すだとか、眠ろうとしている時なのにぴちゃぴちゃうるさいだとか、そんな他愛無い話を展開しては親しさを増していった。

 やがて僕と君は恋人関係になり、大学に進学すると同時に同棲生活を始めた。僕の腹の底には金魚がいたし、君の頭の中にはグッピーがいた。なに不自由なく僕も君も暮らした。ただ、セックスをしようとすると金魚やグッピーが喧しく騒ぎ立てるので、一度も成功したことはなかった。

 金魚は無害で、無力だった。それで良かった。金魚の方は僕をどう思っていたかは知らないが、なにも僕を殺そうとはしていないだろうと思った。確かに生きたまま飲み込んだのは悪かったけれど、金魚は金魚で僕の腹の中で結構快適に暮らしているような気がしていた。

 その金魚が、死んだのだ。

 僕はしばらく悲嘆に暮れ、口数も減った。君が心配してくれたけど、まだグッピーが生きている君には僕の気持ちは分かるまいと突っぱねてしまったこともあった。でも君は優しかったし、僕は君に甘えた。金魚がいなくなった僕に残されているのは君だけだった。僕は君の胸の中で幼くわんわん泣いたし、君もつられてしくしく泣いた。

「思えば不思議なやつだったなぁ」

 僕は君が背中を撫でてくれるのに酔いしれながらそっと呟いた。

「お墓をつくってあげたいけど、死体はどうなるんだろう」

 どうかしら、と君の優しい声が僕の鼓膜を揺らす。

「いいやつだったなぁ」

 もう十五年も顔を見ていない金魚に想いを馳せて、僕は眠りにつく。

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