月の裏側
その夜、俺はその男に心を奪われた。
陳腐な伝説だと思っていた。ばあちゃんが言っていた「月の男」の話。満月の夜に家の裏庭に現れる男の話。なんでもこの世のものとは思えない男の美しさに、姿を見た者は一瞬で心を奪われ虜になってしまうらしい。幼い時分からその話を聞かされていた俺はその話を桃太郎とか浦島太郎のレベルで扱っていた。満月の夜が近づく度に「満月の晩は庭に行ったらだめだよ、月の男が出るからね」と神妙にしゃべるばあちゃんに、俺はいつも曖昧に返事を寄越して、どうせ庭になんて用は無いので言いつけを破ったことは無かった。
その夜までは。
裏庭は俺の自室である二階の一角の窓にちょうど面していて、すりガラス越しに月がぼんやり見える日もあった。満月の日は一等その存在を増して輝いている気がした。月なんてそう大した大きさに見えるわけがないのに、なんでか妙に近くにあるように見えた。
窓を開けたのは気まぐれだ。少し夜風を浴びたかったし、部屋も暑かったし、月も見てみたい気がしたし。ばあちゃんの顔が一瞬頭を過ったが、まあ庭に出なければ怒られることもないだろう。ふうと頬を撫でた夜風がひんやりして気持ちが良かった。ちょうど真正面にぽっかり穴が開いたみたいな満月が浮かんでいた。
ねぇ、と呼び声がした気がして視線を下げる。木が点在する庭、ちょうどばあちゃんの寝室に明かりが点いていればぼんやり照らされているあたりに、人がいる。
「月を見ているの?」
見知らぬ男だった。否、男かどうかやはりよく分からない。ちょうど月の光のような色をした髪の毛を長く伸ばして、肌も嘘みたいに色白い。その見目に一瞬目を奪われて、すぐ理性が返ってくる。人の家の庭でなにしてるんだ。そう返そうとして、
「君は、月に裏側ってあると思う?」
と、男が柔らかく首を傾げる。
「月の裏側?」
「そう」
男はその場でくるりと回る。二階から見ているはずなのに爪先の角度まで手に取るように分かった。身体の軸を追う長い髪がきらりと光って、綺麗だった。
俺はつい質問について考えて、気づけば口走っていた。
「無いんじゃないかな」
「どうして?」
「だって、俺から見た裏側も、そっちから見たらその時は表になるし」
男は微笑む、目を細めただけのその動きさえじんわり目に焼き付くように理解できた。まつ毛の細さまで分かることができた。
「うん、いい答えだね」
ひゅうと吹いた風が妙に冷たくて身震いする。
「でもね、残念。月にも裏側があるんだよ。月は廻る、廻り廻って、裏側にたどり着ける」
「どこに裏側が?」
くすり。
男の唇が可憐に吊り上がる。俺の鼓動がどきりと跳ねた。きっとその瞬間、もう遅かった。
「見てみる?」
そう言って、男はするりと服を脱ぐ。
*
「月の男に会ったでしょう」
は、とばあちゃんのその声に目を覚ますと、俺は何故か庭のど真ん中に倒れていた。眩しい、もう朝がきたらしい。なんでこんなところに、と、俺の部屋の窓が開いてカーテンがなびいている。ばあちゃんは俺の頭を叩くのでなにごとかと思ったら、どうやら砂がついているらしかった。こんなところで寝ていたなら当然か、理由は分からないが。
「月の男に会ったね」
ばあちゃんの口調は断定になる。俺は昨晩のことを思い出そうとしたが頭が靄がかったようになって上手く思い出せない。
「月の男に会ったんだね……」
ばあちゃんは俺に背中を向けて家の方に戻っていく。その足取りは少しふらついていて、支えようと立ち上がろうとしたところで頭の鈍痛に気が付いた。右の方ががんがん痛い。風邪の時の頭痛というよりは、そう、頭を打ったときのよう……。
まさか俺、窓から落ちたんじゃないだろうな?
さっと血の気が引く。なんてことだ! 寝ぼけて窓から落ちるなんて。やっぱり夜中に窓を開けるのはよした方が良い。そういえば昨晩はろくなものじゃなかったのだ。暑かったし、窓の外に変な男はいるし……、変な男?
そうだ。昨日の夜は窓の外に不思議な男がいたんだ。月の光のような髪と瞳、そして肌を携えた美しい男。凛とした声で俺の名を呼ぶ……俺の名を……。
つうと背中に冷や汗が伝う。何故だか、もう戻れない、と俺は思った。
薄青の空の中で、白く象られた月が小さく笑っていた。
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