夏晴れのあなた

「晴くん」

 顔を上げた。教室は教科書を必死に鞄に詰める同輩で賑わう夏休み前最後の登校日。俺もまだ教室で帰り支度に勤しんでいるというのに、ミキは反対端の教室から既に荷物と共に撤退して来たらしかった。俺に向かってひらひらと手を振っては人の良い笑顔を浮かべている。

「早いな、ミキ」

「早く終わったんだ。山岡先生、急ぎの会議が入ったみたいで」

「ふうん」

 俺も荷物をまとめて教室を出る。何人かのクライメイトが「じゃあなー」「良い夏をー」などと声をかけてきたので適当に返した。廊下にいたミキはにこりと笑う。

「帰ろっか」

 並んで廊下を歩き、すれ違う友人とその度に挨拶を交わす。教室がある四階から一階に降りて昇降口、校門を出るまでずっとそんな感じ。靴を履き替えながらミキが

「晴くん、友達多いよね」

 なんて、やっと口を開いたので

「妬いてんのか?」

 と返してやった。ミキはほんのり笑う。

「ううん。僕が晴くんにとって特別な友達だってことは知ってるから、だいじょうぶ」

 ミキはいつもこんな感じだ。シャツの第一ボタンまで閉めていても爽やかな男なのに、時々こういう気障っぽいことを言う。俺の方が調子が狂うな、なんて思いながら、俺とミキは学校からオサラバ。部活動にも入っていない俺とミキは休み明けまで来ることはないだろう。

「うわ」

 外が茹るように暑くてつい声が出る。ミキも「暑いね」と言いながらしかし涼しげな顔をしているので、真にそう思っているのかは分からない。とにかくさっさと帰るか、と言おうとしたところで、ミキが先に口を開いた。

「晴くん、この後なにか用事ある?」

「いいや」

「僕もそうなんだけどさ」

「なんか言いたいことあんの?」

 ミキはぱちっとした瞳を更に丸々開いて、

「よくわかったね」

 と俺の方を向いた。

「なんだよ、言ってみろよ」

「海に行きたい」

「海?」

 うん、とミキは頷く。

「海っつうと、俺らの通学路とは反対方向だな」

「そうだね」

「あと今日はこんなにクソ暑いわけだが」

「そうだね」

「それでも行くか?」

「暑い時の方が海って盛り上がるでしょ」

「あの海岸が盛り上がってるとこなんて見たことねえよ」

 海岸という名前こそついているが、工場群を遠くに臨む人工的なもので、たまにちびっ子連れの親子がいるくらいしか人影は見たことがない。それもここまで暑い日にはさすがに親子連れもあまりいないだろう。

「ね、行こうよ、晴くん」

「ちなみに、なにしに行くんだよ」

「なにって……」

 ミキは亜麻色の髪を気だるげに撫でて見せる。

「涼みに?」

「今考えたろ」

 バレたか、とミキはけろり笑う。まったく、分からない男だ。

「一緒に来てくれるよね、晴くん」

 駅の改札を通学定期券で華麗に通り抜けては、反対路線のホームに向かう階段に足をかけて、ミキが言う。俺を緩やかに見下ろすミキは、聞くまでもないでしょと言いたげな瞳で俺を見ていた。性格が良いというか、悪いというか。俺は溜息そこそこ、二段飛ばしで階段を上がった。ミキは嬉しそうに笑って、俺の後ろをてくてくついてくる。

「ねぇ、ねぇ晴くん」

「なんだよ」

「ありがとね」

「どういたしまして」

 見慣れない景色を携えたホームで電車を待つ。

「海岸に一番近いのってどこだっけ」

「検索検索」

「そうする」

 時間通りにやって来たらしい各駅電車にふたりで乗って、スマホ片手に揺られていく。車内はがらがらだったので、ふたりで並んで座った。ミキの検索により海岸の最寄り駅が判明し、じゃあそこで降りるか、うん、なんて会話をしながら。俺たちにとっては珍しい風景を眺めて、あんなところにボウリング場あったんだな、今度行ってみようよ、ミキってボウリングできんの、たぶん、なんだそれ。

「あ、次だね」

 ミキが今一度検索結果と電光掲示板を見て、忘れ物が無いか確認しては席を立つ。車内はエアコンが効いて涼しかったのに、外は灼熱地獄だ。う、と俺が唸るとミキが「晴くんほんと暑いの嫌いだよね」と先に改札を出る。

「暑いのが好きな人類なんているのかよ」

「いるよ、ここに」

「ミキって暑いの好きなの」

「好きだよ。晴くんと海に行けるから」

 海岸はこちら、なんてさびれた看板を頼りに海の方に向かう。潮風が吹いている気がしたが、それは心持ちのせいかもしれなかった。

「だーれもいないね」

 いざたどり着いた海岸はものの見事に無人で、こんなに暑いのに海で遊んだら死ぬって普通は思うんだろうな、と肩を竦める。

 砂浜に足を踏み入れると、ず、と沈む感覚。砂の上は歩き慣れないからちょっともたつく。ミキはそんな状況に早々に見切りをつけてしまったようで、スニーカーと靴下をぽいぽいと脱いでは裸足で歩き出した。いや、歩くというより砂浜に踊らされてる感じだ、たぶん熱くてまともに足をつけていられないんだろう。

「うみ、はやくうみっ」

 ミキはわたわた足が絡まりそうにしながら制服の裾をまくって、そのまま軽やかに海へ。浅瀬にちゃぷりと入っては「わあ、きもちいいよ」と振り向いた。

「晴くんは入らないの?」

「俺はいい」

「気が向いたら来てよ」

「気が向いたらな」

 俺は浅瀬近くにあるベンチに……なんと屋根付きだ……荷物を置いて、放られていたミキの鞄を回収して、やっと座った。立ち止まったからか急に汗がわっと出てくる。暑い。これなら確かに海に足をつけているほうがマシかもしれない。

「晴くん」

 海の中から俺を呼ぶミキが、ちょっと綺麗だと思った。細い髪の毛がじめじめした風で揺れて、あの髪にこんな風は酷だなとも思った。ミキはこのシチュエーションには役不足なほど、整っていた。

「ミキ、日焼けするぞ」

「日焼け止め塗ってるからだいじょうぶ。晴くんって」

 ぱしゃ、とミキの足が水面を蹴った。水が小さく散った。

「日焼けとか気にするんだ」

「ミキの日焼けを気にしてんの。肌白いから、日焼けしたらすげえ痛そうじゃん」

「うん、真っ赤になっちゃう方。晴くんは?」

「俺も赤くなる方」

「ふふ」

 ミキの爪先が海をなぞって、ぴ、としぶきを立たせる。

「晴くんって、意外と繊細だね」

 ヘーゼルの瞳で笑うミキが、両の掌で海水を掬う。

「そうか?」

「知り合う前はそうじゃないと思ってた」

 俺とミキが知り合ったのは今年の春で、だから俺たちの付き合いはまだ半年もない。たまたま委員会が一緒で、たまたま隣の席で、たまたまミキにペンを貸したのが始まりで、ミキは人当たりが良くて、でもちょっと浮いてて、俺はそのことに気が付かないまま親しくなって。それで良かったんだと思う。

「知り合う前に俺のこと知ってたわけ?」

「もちろん。晴くんは有名人だからね」

 有名人、というか。たまたま顔が広いだけだ。

「ミキも有名人だろ。亜麻色の髪の乙女の生まれ変わりだとか、薄命の王子だとかって」

「あはは、それは初耳だな」

 ミキは海の中でくるくる回っては、は、と暑そうに息を上げる。ちょっと休めよと言っても、だいじょうぶ、とミキは舞うように海と遊ぶ。なにがミキをそうさせるのか、なんてことを思うほど熱心に。器用な男だな、と、俺も行こうかと立ち上がって、

「ミキ」

 名前を呼んだ、ミキが振り返った。

「晴くん! ………………」

 ……ミキの薄っぺらい身体がふよふよと浅瀬に浮かんでいる。ざ、と音を立てたような気がした、頭頂が甘く砂浜に打ち上げられる。細い髪の毛の中に細かい砂がざらざらと遠慮なく絡まっていく。水を孕みながら砂つぶと踊る髪先。綺麗とも汚いとも感じなかった。そういうものだな、と漠然と潮の香りを享受していた。

「ミキ」

 ミキは返事をしない。ただそこに浮かんでいた。制服が海水や砂でぐじゃぐじゃになって、端正な顔は透明な水面に自由に蹂躙されることを許していた。目を開けたら海水が入りそうだと思ったけれど、ミキは目を開けなかった。

「僕ね、晴くんと出会えて良かったよ」

 器用にも口の中に海水の侵入を許さないまま、ミキは喋りだす。

「晴くんが救いだ」

「俺が?」

「僕にも分け隔てなく接してくれる晴くんが救いだ」

 ミキが、学校で浮いていることを気にしているのだと、その時初めて分かった。なんの苦痛も無いように振舞っていただけで、ほんとうは嫌なんだと初めて気が付いた。こんなにそばにいるようで、ぜんぜんミキのことを知らなかった俺は、ミキ、と名前を繰り返すことしかできなかった。

 ミキは突然起き上がり、犬のようにぶるぶる身体を震わせては顔を手でわしゃわしゃと擦る。俺は鞄から取り出したハンカチをミキに渡した。太陽は残酷に俺とミキを照らした。

「だいじょうぶか」

「うん」

「あっちに水道あるから、顔洗った方が良い」

「そうだね、晴くんが正しい」

 びしょ濡れになった制服のズボンが色濃く、真っ白に近い砂浜の上に座っている。雨の日の捨て犬みたいだった。俺は妙なもの悲しさを覚えて、ミキ、ともう一度呼んだ。

「なに?」

 水も滴るいい男。ミキは少しだけ目を細めて、俺を見つめる。

「ミキは特別な友達だから」

「うん、知ってる」

「だから、だいじょうぶ」

 ミキの頭を撫でると、当たり前だが濡れていた。冷たいはずの髪の毛は太陽光でぬるくなっていて、触り心地は最悪だったけれど、わざとぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。ミキは一瞬呼吸を詰まらせてから、うん、と確かめるように頷いた。

「だいじょうぶだからな、ミキ」

 うん、ともう一度ミキは言った。泣き出すかと思ったがミキはそうしなかった。俺はミキと一緒に立ち上がり、ふたりでふらふらと、水道がある方を目指して歩き出した。

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