まだ、君は夜の底にいない

記録:まだ、君は夜の底にいない。小銭三枚では安すぎたかもな。


 夜の底は一二〇円で買える。

 あなたの真偽不明なそんな言葉にわたしはまんまと惹かれてしまう。あなたの言葉は魔法みたいに不思議で、お菓子みたいに魅力的で、空気みたいにありがたいのに、わたしにしか振りかける気が無いらしい。あなたの言葉を聞くのはわたしだけ。あなたがそれでいいならわたしもそれでよかった。

 あなたがあなたの言葉を証明する為にわたしを呼び出したのは公園だった。夕方までは小学生が支配している大きな公園には、広場があって、小さな森があって、ときどき遊具みたいなものがぽつぽつ立っている。わたしも幼い時はそこにぶら下がったりよじ登ったりしていた記憶がある。

「やあ、来たね」

 あなたは蛾が群がる街灯の下でわたしを待っていた。スポットライトを浴びる役者みたいだったけど、着ているのは中学校のデザインがいまいちな青ジャージを改造した服だし、顔もちょっと眠そうだ。それもそうだろう。時間は二三時過ぎ。あなたはいつも日付が変わる頃には熟睡に陥っているほど眠るのが早い人。だからこんな時間に外にいて起きていることがきっととっても珍しい。でも、あなたが呼び出したのだから、そんな眠そうな顔をしたって、いけない。

「夜の公園に呼び出すなんて、不良みたい」

 わたしは修学旅行以来に引きずり出してきた緑の大きなキャリーバッグをがらがら喧しく引きずりながらあなたの為の光の中に入る。ふたり照らすにはこのスポットライトは小さいし、光の輪郭も曖昧だ。これでは観客に誰をアピールしたいのかわからない。

 あなたはわたしの言葉には触れずに質問してくる。

「君、親にはなんて言い訳してきたの」

「友達の家に泊まりに行くって言ってきた」

「それでその大荷物か」

 砂埃をほんのりかぶったキャリーバッグは収穫された野菜みたいに見える。この中には取り急ぎ詰め込んだ着替えと、歯ブラシと、なんだかよく分からないいろんなものが住んでいる。

「だって、夜になって公園に行ってくるなんて、そんなこと許してくれる親じゃないもん」

「派手な嘘ついたね」

「つかせたのはあなたなんだけど」

「あはは、ごめん。荷物、持とうか」

「ん」

 あなたはわたしのキャリーバッグを代わりに引きずる。ごろごろ転がる音がやっぱりうるさい。

「ねえ、ところで、夜の底ってなに」

 わたしは部屋着ともよそ行き服ともつかない、ピンク色のワンピースを着ている。襟はくたびれているし、腰を彩るリボンはさっき見たらちょっと糸がほつれていた。やっぱりよそ行きには向かない服かもしれない。でも、あなたの前でならこんな格好もいい。

「夜の底は、夜の底だよ」

「答えになってないよ」

 公園に敷かれた道をあなたに続いて歩いては、スニーカーを履いてきて正解だったなと思う。砂が舞うし、あなたは歩くのがわたしよりも速い。わたしはちょっと小走りになる。

 わたしが入ってきたのとは真反対の公園の出入り口近く、ベンチの横にわたしのキャリーバッグを止めて、あなたは立ち止まった。

「これが夜の底だ」

 あなたが誇らしげに指をさしたのは、自動販売機だ。誰か来るかも分からないのに飲み物をきんきん冷やし、ぴかぴか光って存在をアピールしている。

 目をぱちくりさせるわたしをよそに、あなたはポケットに入れていたらしい小銭をじゃらじゃらと出して適額を見繕っている。

「僕はぶどうジュースにしようかな。君は?」

「……一二〇円で買える夜の底って、自販機のジュースのことなの」

「正確には、この時間にわざわざ公園に来て、わざわざジュースを買い、わざわざベンチに座って飲むことだ」

 あなたはしゃがんでぶどうのジュースが入った小さなペットボトルを手に取る。果汁が二割くらい含まれている美味しいやつだ。

「不良みたい」

「夜の底は不良の溜まり場かもね」

 あなたはわたしに拳を突き出す。なにを求められているのか分からなくてぼうっとしていたら、わたしの空っぽの掌の中に小銭を押し込んできた。一二〇円。なにか好きな飲み物を買えということなのだろう。確かに少し喉が渇いたかもしれない。たくさん歩いたし。あなたについて走りもしたし。

 ラインナップをひと通り見て悩んだ挙句、わたしはミルクティーを買った。正確には、ミルクティーみたいな味がするジュース。冷たいペットボトルを両手に、ベンチに座っていたあなたの右を陣取る。

「これが夜の底?」

「そう、夜の底」

「意味がわからない」

「そう? それなら、まだ、君は夜の底にいない」

「意味がわからないってば」

 あなたは誤魔化すようにペットボトルのフタを開けてぶどうのジュースを飲む。見ていたらわたしも喉がからからだったのを思い出して、ミルクティージュースをごくごく飲んだ。甘い。美味しい。

「早く夜の底まで来てほしいな」

 そう言ってあなたは、もう十二年は伸ばしている綺麗な黒髪を耳にかける。長いまつ毛はほんとに女優さんみたいで、わたしはあなたが主役なら、蛾が集るスポットしかない舞台にだって足を運ぶ。





記憶:まだ、君は夜の底にいない。ほんとに夜明け前が最も暗い?


 夜の底はとってもさみしい。君にスマートフォンでメッセージを送っても返事なんてない。草木も眠る丑三つ時、君だって大方眠ってしまっている。

 僕はこんなにさみしいのに、君は幸せな夢の中。好きなものにふわふわ囲まれてきっと笑っているのだろう。その中に僕はいるのだろうか? 目が覚めて、少しでも僕を思い出すような夢だったなら。

 電話の着信音は、ぴるるるるる、みたいな音がする。今も鳴っている。今鳴り始めた。僕はびっくりして誰からの電話なのかもろくに確認しないまま、もしもし、と小さく言ってみた。

「おはよう、いや、あんまり早すぎるね。まさか電話に出てくれるなんて思っていなかったな。もしかして起こしてしまった?」

 電話の相手は君だった。こんな冗長な話し方をするのは君だけだ。僕はしとしとと瞳の奥が覚めていく感じを享受しながら、見えないと分かっているのに首を横に振る。

「ううん、起きてた。めずらしいね、君、こんな時間に」

「うん、なんだかね、あなたを思い出しながら目を覚ましたんだ。そんな夢を見てたんだ」

「いい夢?」

「あなたにすぐさま電話したいと思ってしまうような夢だよ」

「わからないよ」

「あなたはどうして起きていたの?」

「とってもさみしいから」

「さみしいなら連絡をくれていいよ」

「だって、君はどうしたって眠っているでしょう」

「起きてみせるよ、あなたの為なら」

「君を夜のさみしさに連れていきたくないよ、だって」

 一瞬だけ、言葉に詰まる。

「だって、とってもさみしいから」

「さみしさも、ふたりなら紛らわすことができるよ」

「いいの。夜はね、さみしいの。さみしいものなの。さみしくっていいの。君には君の、僕には僕のさみしさがある。それをなくしちゃいけないんだよ。さみしいさみしい夜の底」

「夜の底?」

「いちばんさみしい夜のこと」

 ふうん。君は興味の居所がよく分からない相槌を打つ。そして思いついたように続ける。

「ねえ、あなた、夜の底にわたしもいけるかな」

「君には君の夜の底があるよ」

「ねえ、ねえそれじゃああなた、わたしの夜の底とあなたの夜の底を出会わせることはできる?」

 些か興奮じみた君の声色。夜とぜんぜん溶けない声。

「わからない。他人の夜の底なんてみたことない。だれかの、いちばんさみしいところなんて」

「なら、わたしの夜の底を見てよ。わたしの夜の底をあなたに知ってほしいな。そして、さみしい夜の底を幸福にしよう」

「幸福になったら夜の底は夜の底じゃなくなってしまうよ」

「でも、今は夜の底じゃない」

「どうして?」

「わたしとあなたは言葉を交わして幸せな気持ちになっているから。さみしくないでしょう?」

 ぱちぱちと瞬きをする。ちょっとだけ世界の彩度が高い。

「ほんとうだ。さみしくない」

「さみしさを分け合えば幸せになれるよ」

「でも、でもね、僕は夜の底が好きだよ。とってもさみしいけど、そんな夜の底が僕は好きなんだ」

「わたしはまだ、君が味わうような夜の底へは行けていないのかな」

「夜の底はさみしいけど、さみしくっていいんだよ」

「さみしくっていいの?」

「いいの」

「なら、わたしはあなたの夜の底を邪魔しちゃったかな」

「そんなことないよ。君の声が聞けて嬉しいよ」

「わたしはあなたのおかげで夜の底から抜け出すことができた気がしているよ。ありがとう」

 会話の終わりを告げそうな文句に、心がちらと暗雲を巻き立たせる。

「君がさみしくないのはいいことだよ」

「わたしもいつか、夜の底からあなたを救い出せるかな」

「さみしくっていいのに」

「あなたがさみしいのはわたしにとっていいことじゃないんだ」

「僕には僕の、君には君の夜の底があるんだから、いいんだよ」

「でもさみしいんでしょう」

「まだ、君は夜の底にいない」

 君は聞き返したそうに訝しげな声を漏らす。

「僕の夜の底に君はいない。だから僕の夜の底の居心地を君は知らない」

 少しの、痛い、快適な沈黙。夜の底のうっとりするような沈黙は、右耳と左耳でぜんぜん違う。

 あなたはあくびまじりに言う。

「また眠くなってきた。そろそろ切るね」

「うん」

「おやすみ。太陽はまた必ず昇る、夜明け前が最も暗いよ。ねえ、あなた、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 夜明け前が最も暗い。幸福の前が最もさみしい。分かる、とってもよく分かるよ。

 確かに、きっとそろそろ夜は明ける。





童話:まだ、君は夜の底にいない。昼の頂で君のこと待ってる。


 君は、夜の底を求めてこの深い深い崖をひとりで下りている。

「ねえ、まだ夜の底には着かないの」

 わたしは崖の上から君がいるであろうところを覗き込み、旅をしている君の話し相手になる。なんでも、夜の底は勿論のことながら、そこに至るまでの空間だってとっても暗いんだそうだ。わたしが君を見ていれば君の視界は明るくなり、わたしの声が君に聴こえていれば君の気持ちは明るくなる。だからわたしは、もうとっても深いところにいるであろう君にまた話しかける。君の行く末を照らすために。君が迷ってしまわぬように。

「夜の底はね、とっても深いところにあるんだよ。そんなに簡単には着かないよ」

 君はいつもそう言って、もうしばらくそうやって旅を続けている。旅、旅、とわたしは言うけれど、狭くて果ての見えない崖を地道に下りるだけの道中。ううん、そこには道すらない。スリリングなのかもしれないし、君にとってはなんてことないのかもしれない。だって、わたしとこうしてお話をしていられるくらいだもん。

 わたしは地べたに寝っ転がって頬杖をつきながら、君がいそうな方にまた声をかける。

「夜の底ってどんなところだろうね」

「着いたら真っ先に君に教えるよ」

「そしたらわたしもそっちに行っていい?」

「あなたが一緒に来たら、夜の底が夜じゃなくなっちゃうじゃあないか」

 それはその通り。だってわたしは昼のおうじさま。夜も、夜の底さえも、わたしがいれば太陽が明るく照らす。君が夜の底にたどり着くまでにわたしという灯りが必要だ。でも、わたしが夜の方に向かってしまっては、わたしが従える昼がそちらにどんどん迫ってしまう。君は永遠に夜の底に着けなくなってしまう。それはきっととても困ることだ。

「もし、あなた。もしや、あなたがそこから見ているから、夜の底にまで昼が届いてしまっているのかもしれないよ」

 君の声が下からぐわんぐわん響きながら這い上がってくる。なんてことを言うのだろう。君がわたしに、ここにいて声をかけてくれるように言いつけたのに。

「わたしのせい?」

「試しに顔を引っ込めてみてはくれないか? 少しだけでいいんだ」

 でも君が夜の底に向かう邪魔はしたくないし、君の言うことはきっともっともだ。

「わかったわ」

 深淵から目を逸らし、身体を引く。ぽっかり空いた穴は少し遠目に見てもやっぱり暗くて、異質で、とってもこわい。ここにほんとうに夜の底があるのかしらん?

 きみが、おお、と感嘆の声を上げる。なにか変化があったんだろう。

「どう? 夜の底には着いた?」

 再び小さく崖の中を覗き込んでみて、君に話しかける。ほわんほわんと声が反響して下へ下へ潜っていく。でも君からの返事はない。

「ねえ、どうしたの」

 いつもならすぐ、うん、とか、なんだい、とか、そうだねえ、とか声が返ってくるのに。もしや聞こえていないのかしらん。

「おうい」

 もう一度大きく呼びかけるけど同じだった。君からの返事はない。残響じみたわたしの声と、冷たい静寂が連れてきた夜の香りだけがほんのりそこにはあった。

 ああそうか。きっと君にはもうわたしの声が聞こえなくなってしまったんだな。そのくらい深いところにたどり着いたんだな。でも、君は夜の底に着いたら一番最初にわたしに教えてくれるって言っていた。君が君の声で君が見た夜の底のことを教えてくれるまで、わたしはきっとここで待っていよう。声も光も届けられないかもしれないけれど、わたしはここで待っている。

 いまも君は、夜の底をめざしている。

 けれど、まだ。まだ、君は夜の底にいない。

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