ビニールプールにマーメイド

「ベランダでスイカ冷やすんです」

 ホームセンターのパートのおじさんに向かってそう笑った私は、たぶんとてもぎこちなかった。こんなこと言わなくても良かったのに。よほど動転しているのだろう、私。パートのおじさんが「水張る時は気を付けてね」と親切に言ってくれるのに適当に会釈をして、トートバッグに突っ込んだのは今買った品物、子ども用のビニールプール。こんなものを買う予定は私の人生プランには組み込まれていない。でも、今は買わざるを得ない。

 いつまでも浴槽にいられては困るのだ。

 大学に通うために借りているマンションの一室、三階、階段側から二番目の部屋。鍵を開けて中に入ると冷房が効いて涼しかった。つけっぱなしで来たのだ。だってもし中で奴が死んでたら胸糞悪い。

「ただいま」

 おかえりぃ、と涼やかな声が鳴る。一丁前に留守番気取りか、と後ろ手にドアを閉める。サンダルを脱いで、真っ先に風呂場に向かった。ドアが半開きになって快適な温度が保たれているバスルームに、奴はいる。

「おかえり、ラレイ」

 まるで世界一美しい名詞みたいだ。私の名前なのだけれど。「ラレイ」の「ラ」は森羅万象の羅、「レイ」は王偏に命令の令の字の玲。珍しくてこの名前はずっと好きじゃなかったけど、バスタブに身を浸している彼女に呼ばれると身がぞくぞく震える思いがした。彼女はそんな声を持っていた。

「外は暑かった?」

 ぱしゃ、と浴槽の残り湯が跳ねた。彼女の尾びれが跳ねさせたものだ。彼女には信じられないことに尾びれがある。下半身が魚で、上半身は人間。いわゆる人魚というやつだ。

「うん。ドレミも出たら分かるよ」

 ドレミというのは彼女の名前だ。私がつけた。名前を覚えていないというから。私は人に名前をつけるなんてこれが初めてだから、「ドレミ」という名前がセンス溢れるものなのか幻滅ものなのか分からない。でも本人は……という呼び方でいいのか……気に入った様子だから構わなかった。

「私が外に出たらきっと死んじゃうね、暑くて。茹で人魚になっちゃうかも」

「笑えない話しないでよ」

「ねぇ、私って天国からきたけど、死ぬのかな?」

「知らない」

 ドレミは得体が知れない。突然風呂場の浴槽の中に現れて「天国からやって来た人魚です」って尾びれをきらきらさせていた。ゾンビみたいなものなのだろうか、そのあたりも曖昧だし当人もきっとよく分かっていない。突如降臨した彼女をどう処理するわけにもいかず、成り行きで私が世話をしてやることになって、冷静になると段々不安になってくる。いつまで、どうやって、誰に相談できるものなんだ? 夏の暑さとは異なる意味で頭が痛んでくるが根源に相談するわけにもいかない。

「さぁ、引っ越しするよ」

 ドレミは水に下半身を浸していないとダメみたいで、ずっと浴槽で水に浸かっている。その代わり私はぜんぜん風呂に入れなくて困っている。だからビニールプールを買ってきたのだ、ドレミをその中に入れるために。

「いいよ。私の新しい住処はどんなところ?」

「これ」

 トートバッグから取り出したのは小さく畳まれたビニールプール。ドレミにはたぶんぴんとこないだろう。案の定むぅと頬を膨らませて

「ちいさぁい」

 とバスタブのへりで頬杖をついた。

「空気で膨らますと大きくなるの。ドレミが浸かれるくらいには」

「そうなの?」

 ぱちぱちとドレミの瞳が瞬かれる。長いまつ毛が優雅に宙を掻いた。絵に描いたような碧眼、まっすぐした視線。

「うん」

「すごいんだね」

 外袋から取り出して、潰れた状態のビニールプールを広げる。ドレミはまだ不思議そうに見ている。私は透明の空気蓋をぽんと外して、空気を入れるためにそこを咥える。

 ふぅ、ふぅ、とひと息ごとにプールが蘇生されていく。ドレミがてっきり感嘆の声でも上げるかと思ったのに黙っていた。なにをしているんだろう、上目に覗いて見ると、目が合った。とろんとした垂れ目が私を見つめていた。

「なに見てるの」

「ラレイ、たいへんそうだなと思って」

「そうだよ」

 肺活量が多い方じゃないからか、まだ半分も空気が入っていないのにもう息が上がっている。それをドレミには悟られたくない。もう一度思い切り空気を吹き込む。

「たいへんなんだね」

「ドレミのせいなんだけどな」

「そうだね、私のせい」

 ドレミは特段悪気があるようでもないように頬杖をついたまま私を眺めている。優雅な笑み。これは人魚の風格なのか、それともドレミ特有のものなのか。どっちにしても、今私に迫っているものに変わりはない。

 膨らみ終えたプールは家の中で見ると想像より大きい。風呂場で見るからだろうか……そう大して広くもないバスルームなので……。

「これをどうするの?」

「中に水を張るの」

「ここで?」

「ドレミがここにいたいならここで水を張るけど」

「やだ、ラレイのそばがいい」

 そんなことを真顔で言わないでほしい。

「じゃあ、リビングに」

「やったぁ」

 ドレミは小さく手を上げて喜んでいる。見た目に似合わない愛らしい所作に一瞬視線を奪われた。そんなこと無かったふりをして私はリビングの真ん中に陣取る机を退かしてはプールを置きに行く。水を張りたいがバケツが無いので、洗って干してあるボウルに地味に水を溜めてプールに投げ込んでいく。遠くでドレミが歌を歌っていた。うっかり聞き惚れそうになる歌。耳を傾けすぎないようにしながらプールにやっと水を張り終えて、私はバスルームに戻る。

「水、張ったから……」

 ドレミはくすりと笑う。碧色の瞳がきらり揺れた。

「ラレイ」

 ちゃぱ、と水音が鳴る。ドレミの濡れた毛先がバスタブをぬらりと撫でた。ドレミは私に向かって濡れた腕を伸ばしている。

「なに」

「連れてって」

 プールまで、ということか。確かにその濡れた身体で床を這いずり回れては堪らない。仕方無しにドレミに近づくと、水の匂いがした。

「ラレイ、濡れてもいい?」

「少しくらいなら」

 ドレミの腕が背中に回る、少し水が染みて冷たい。私はドレミの顔を自分の首元に仕舞いながら浴槽の中に手を突っ込み、ドレミの背中と膝に……厳密には膝では無いが人間で言えば膝に相当するであろう箇所……添えた。勢いそのまま水の中から担ぎ上げる。ばしゃと音立ててドレミが宙に上がった。人並みに重い、人じゃ無いけど。多少水が滴るのはこの際仕方無くて、ドレミを落とさないようにのそのそ歩いてリビングまで向かうことにする。

「重い?」

「重い」

「そう」

「なんで聞くの」

「重そうな顔してるから」

「だって重いもの」

「これが私の重さだよ、ラレイ」

 リビングに鎮座しているプール、そのそばに跪いてドレミを滑らせ入れる。ばしゃんと水しぶきが立った。廊下と一緒に後で拭けばいいや。ドレミは狭いプールの中に一瞬バウムクーヘンみたいな形で眠った後、のそりと顔を出して外に腕をついた。

「こうしてないとバランスとれない」

「じゃあ頑張って」

「冷たいんだ」

 ドレミの濡れた髪が頬に、胸に、ぺとりまとわりついている。いい加減ドレミには服を着せた方が良い気がしてきた。リビングに置くとなると尚更目のやり場に困る。

「ここにいればラレイがよく見えるね」

「見なくていいよ」

「見えるんだもぉん」

 ご機嫌なのか、尾びれをちらちら水面で鳴らしている。

「ありがとう、ラレイ」

「どういたしまして」

「ラレイは優しいね」

 優しさだけで人魚の世話なんて出来るものか。そうは言ってやらないけど。

「……そうかな」

「早く私に愛を教えてね、ラレイ」

 ドレミは可憐ににっこりと笑う。悪意があるほど純粋に。私はそれが癪で、ときめきかけたことすら認めたくなくて、そっぽを向いた。意地悪、とドレミが笑み混じりに呟いたのも、無視した。

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