なつ

「今日の数学、難しかったねぇ」

 なつが、なんとなくそんな風なことを言った。他の生徒はほとんど通らないような裏道を、私となつはふたりで歩いていた。もう少し遅くなると陽が落ちる。と言ってもこの道に関しては、木の影が今もずっと足元を覆っていて、光といえばその隙間からちらつく夕陽くらいのもので、実際一番暗いのはこのくらいの時間帯だった。

「微分積分?」

「そう、わたしぜんっぜんわかんなかった。先生の話もちゃんと聞いてたのに。りぅちゃんはわかった?」

 りぅちゃん、とは私のことだ。果実の「なし」に「うちゅう」の「う」で「梨宇」と書き、「りう」と読む。今までこの名前は、字の並びも口当たりも珍しくてそこまで好いていなかったのだが、今は別だ。

「まあ、人並みに」

「すごいなぁ、りぅちゃん」

 なつが私の名前を呼ぶと、「りう」と上手く言えないらしくて、限りなく「りゅう」に近い発音になる。なつが口にする私の名前はなんだか日本人離れして聞こえて、特別な響きをもつ気がして、ちょっとだけ好きになれる。

「塾で予習してたから」

「えらいねぇ」

「えらいんじゃないよ、なつ、本当はあんなところで勉強する必要なんて無いはずなんだからさ」

「そういうものかなぁ」

 なつの綺麗な革靴の先が小石を遠くに蹴っ飛ばそうとして、空振る。バーガンディが艶めく深茶色のローファー。靴汚れるよ、とだけなつに言って、私は歩き続ける。

「ほんとにさっぱりわからなかったからさ、授業中に先生に当てられたらどうしよう、ってずっと思ってたんだけど、当たらなくて良かったぁ。前の席の赤川くんが当てられた時、びくっとしちゃって」

「なつ、その時、私の方見たよね」

 はっとしたようになつは私に視線を向けた。数学の授業の合間の目配せより、ちゃんとこちらを見ていた。

「りぅちゃん、気づいてくれてたんだ」

「肩竦めたでしょ、私」

「うん、そうだね、そうだったぁ」

 なつは嬉しそうに笑う。頬の横で細い茶髪がさらりと揺れた。なつの髪は一面に広がる小麦畑みたいに柔らかくて、とろとろのチョコレートフォンデュのような可愛い色をしていた。

「でも、先生はわたしのこと当てなかったよ。笹川は分からないだろうって、先生も思ったのかな」

「岡村先生、気まぐれだから」

「いつもはわたしのことばっかり当ててくるのにさぁ」

「それは、なつを指名したら求めている答えが返ってくるって、先生も分かってるからだよ」

 照れくさそうに目を細めたなつの指には、年季の入ったペンだこ。けどそれが気にならないくらい美しい手をしている。ピアノを弾く手の中でこんなに心配な指といったらなつの指が一等賞だけれど、リストだとかショパンだとかも見事に弾きこなすから、不思議なものだ。

 なつが天才なのか秀才なのか、私には正直分からない。まだなつと知り合って一年半そこらだし、なつが出来ることの……あるいは努力して出来るようになったことの……すべては知らない。なつ自身だってすべては知り得ないのかもしれない。ただ、要領が良いのは確かだよなあと、私はぼんやり思っている。

「みんな、塾とか行ってるのかなぁ」

「多いだろうなとは思う」

 なつが立ち止まる。私も止まった。俯くなつの表情は憂いを帯びていた。

「ほんとにぜんぜんわからなかったの、今日」

「あの分野、難しいから仕方ないよ」

「数学だけじゃなくってさ、古典とか、世界史とか」

「伊勢物語、メッテルニヒ?」

 そんなのだったっけ、となつの声は震えている。

「塾って、どう、りぅちゃん」

 ゆっくりなつが歩き出したので、私も隣を歩く。どう、という漠然とした問いに少し悩む。

「楽しくは無いよ、やっぱり」

「なのに、みんなはちゃんと行ってる」

「それは、たとえば」

 私が指を立ててやれば、なつはふっと目線をそこに集中させる。

「親が行けって言うから。お金を払っているし行かなきゃ勿体無いから。楽しくは無いけどそういう場所にでもいないと勉強をしないから」

 あとは、と口の中で言葉をごちゃごちゃと錬成していく。なつは私の言葉を待っているような気がしていたが、ちらと視線の端に映したなつはもうこの話題を続けたくないような顔をしていたので、ひとさしなかくすり、全部握った拳の中に仕舞いこむ。

「とにかく、なつが行くような場所じゃないよ」

「どうして?」

 木漏れ日がちくちくと私達を刺す。

「……息が詰まる場所、だから」

 並木道の終わりが見える、正面の光の丸。まだ外はこんなに明るかったんだ、と身体の緊張がふと解ける。

「りぅちゃんは」

 なつの声は滑らかで耳触りが良い。

「息が詰まってるの?」

 なつはまた転がっていた石を蹴りやろうとして、すかっと爪先は宙を切る。私はそれに気付かないふりをして

「かもね」

 と空気を濁した。なつは黙る。目も合わせてくれない。泣いてるのかもしれないし、怒っているのかもしれないし、なにも考えていないのかもしれない。見えない表情を察することは出来なかった。走る沈黙。歩く私達。

「ねえ、今から、なつの家に行っても良い?」

 転じられた話題になつは、えっ、と目を見開いた。コーヒーキャンディのような丸い瞳は愛らしい。

「これ、から?」

「うん。都合悪い?」

 なにも珍しいことを打診したつもりは無いのだけれど、と私は内心ぼやく。少なくとも週に一度くらいは、互いの家に行き来する仲だ。こんなに家も近いくせに、小中共に寸のところで学区が異なり、十六になるまで知り合うことが叶わなかった、なつ。ふんわりした太めの眉毛を困り気味に下げて、えっとね、と口ごもっている姿は、昔からのものなのだろうか。

「部屋、散らかってて」

「別に気にしないよ」

「わたしは気にするよ、片付けしなきゃ」

「片付けくらい手伝うけど」

「そうもいかないの、わけが違うから」

 わけ、と。今までも「部屋が散らかっていて」と来訪を渋られたことは何度かあったが、「課題をやりっぱなしで教科書ノート類が広げられている」とか、「どうしても弾きたい曲の楽譜を部屋中探したからベッドの上をピアノスコアが埋め尽くしている」とか、そんなところだった。その片付けをたまに手伝うのも一興。なつもなんだかんだと私を部屋に呼んでくれていたのだが。

「りぅちゃんを、今は部屋に呼べない」

「なにを散らかしてるの、そんなに」

 並木道の影から脱出すると、少し広い通りに出る。とはいえ片側一車線の、車通りもさして多くない道だ。私の黒いローファーが夕陽に照らされたアスファルトの上を三歩進んだあたりで、あれ、と思って振り返る。なつはまだ並木がつくる暗がりの中にいた。光が当たる一歩手前に、気まずそうに立っている。

「なつ?」

 私からの何気無い問いへの返答を、一生懸命考えているのだろうなとは見当がついた。なつはそういう子だ。はぐらかしてしまえばいいものをまともに受け止めてしまう。そこがなつの真面目なところで、悪いところで、堪らなく可愛いところだよなあ、としばらく見つめている。それにしてもあんまりにも返事に窮しているものだ。

 そういえば以前、「部屋に虫の死骸があるけど処理できないまま朝出てきちゃって、そんな状態の部屋にりぅちゃんを呼べない」なんて理由の日があった。なつは虫が嫌いだったし、なつが思う私もそれなりに虫が嫌いなことになっていた。

 そのことを思い出して、なんだか少し揶揄ってやりたくなって、私はなるだけ明るい声で言ってみる。

「部屋になんか死体でもあったりして」

「死体、」

 なつは焦ったように顔を上げた。顔面蒼白、といった感じだった。かっ開かれた目からは涙が溢れ出そうでありながら、そのくせ砂漠よりも乾いていた。鬼気すら帯びるなつの様子に私まで焦燥を覚える。

「なつ、」

「りぅちゃん、わたし、あの」

「ごめん冗談だから、ごめんね、なつ」

 そばに駆け寄ってなつの手を取ろうとした。なつは二歩三歩後ずさって呼吸を乱している。なつはしばらく焦点がふらついていたけれど、少しずつ落ち着いてきて、やっと目を合わせてくれた。

「ごめんね、なつ」

 息を整えてもう一度謝る。木々の真下に立ち尽くしたなつが、弱々しく首を横に振った。

「りぅちゃんは、悪くないよ」

 色の薄くなった唇が恐る恐るそう動く。短いけど踊るように丁寧に跳ねたまつ毛が目につく。

「今日は、いいよ。無理に押しかけようとしてごめん」

「来ては、欲しいの」

 でも、となつは言葉を濁す。私は背中にしっとりと浴びている夕方の陽がほんのり暑くて、この真白いセーラー服が煌めく橙色に染まってしまいそうな心地になる。

「今は、だめなの。ほんとに今だけ。もう少ししたら呼べるはずだから、きっと……」

 なつは泣きそうになりながら私との距離を一歩縮めた。足音が耳につかなくて、なつの嗚咽になり切らない声に飲み込まれてしまったのだなと、なつに向かって微笑む。

「その時は声かけてね、なつ」

 なつは安心したように笑い返してくれて、涙を拭うように袖口を頬に押し付けてから、しっかりと頷いた。なつは隠したつもりだったのだろうけれど、その直後に表情の中に傷心を滲ませたのが私には見えた。これもなつは気が付いていないことだろうが、なつは嘘をつく時はいつもこうだった。他人を騙すこと、偽りを信じさせることに心を痛めるらしく、その心象が顕著に顔に出る。なつは優しくて素直だから。

 更に眩しい斜陽が限りなく白に近くなって街を照らす。

「帰ろ、なつ」

 なつは首を横に振って否定する。

「もう少し暗くなってからがいいの」

「日焼けでも気にしてる?」

 唇にちょっと笑みを携えたなつは、頬の高いところに曖昧な桃色を浮かべている。

「うん、そうなんだぁ」

「なつ、色白いもんね」

 私は天使なんて見たこと無いけれど、もしそういう雲の上の存在が人の形をしていたら、その肌はなつの肌のような色と質感をもっているのだろうなと思うくらい、なつは白くて柔らかい肌面をしている。マシュマロみたいにふわふわしていて、シルクの如くするりとした触り心地で、その上お日様の光のような温度がある。

「日焼けは女の子の大敵だよ、りぅちゃん」

 冗談ぽく言うなつが誰より女の子だった。

 私も影が覆う道の中に戻って、木に寄りかかった。なつは私のそばになんとなく立っている。すぐそこの通りを車が通った、赤い軽自動車だった。

「なつのお母さんが乗ってる車、赤じゃなかったっけ」

「赤だよ。免許取ってから、乗る車はぜんぶ赤色にしてるって、言ってたなぁ」

「好きなんだね、赤」

「そうみたい」

 ゆるやかに吹いたそよ風は少し冷たくて、もう秋になったのだなあと身をもって知ることが出来て、なつと知り合ってから二度目の冬も近いなあと教えてくれた。昨冬は休みの間ほとんど一緒にいて、外に遊びに行くこともあったけど、どちらかの家でのんびり過ごしていることが多かった。申し訳程度に出ていた宿題なんてものは、私もなつも年内最後の放課後に終わらせていた。私が塾に行かねばならない少しの時間と互いの家に泊まらない夜以外は、ずっとなつと一緒に過ごした、気がする。その冬は楽しかったし、願わくば今冬もそうなればな、と思いはする。なつといることは好きだ。

「結局のところね、すごかったのはわたしの身体だったのかも、なんて……」

 なつが危うげに小首を傾ける。

「そういうことかぁ、って、思ったの」

 また少し落ちた陽は地平線とは程遠い市街の雑踏の影かたちの中にゆっくりゆっくり取り込まれていく。

「記憶や考え方をしまっておくための装置として身体があって、わたしはたまたま沢山のものを取り出しやすく仕舞っておける身体に生まれただけなんじゃないかなぁなんて、ね、たとえばだけどね」

「なに、急に」

 なつは笑った。悲しそうに笑った。いや、笑ったのは気のせいだったのかもしれない。悲しそうにしているだけだったのかもしれない。なつは私の質問に答えなかった。私もなつが質問に答えることを期待していなかった。

「りぅちゃんの身体も、だからすごいんだ、ほんとに」

 なつの言葉は呪いみたいに私を縛るけれど、知らぬ町の選挙の街頭演説のような他人事ぶりを孕んでいる。

「だからね、心だけ、精神だけ、魂だけになっちゃったら……肉体から離れて一人歩きしてたら、きっとどんな人もだめなんだ。新しいことなんてなんにも分からないしなんにも覚えられない。引き出しがないのに物が増えても、持て余しちゃうみたいに」

 なつが何の話をしているのか、段々分かってくる。

「わたしには積分のグラフは書けないし、伊勢物語の後半の話の文法事項は分からないし、ウィーン会議がどうなったのか知ることもない」

「もう、引き出しが無いから?」

 なつは私を見た。どうして、と唇が可哀想に動く。

「なんで、りぅちゃん」

 小石を蹴ろうと空振る足。

「ごめん、なつ」

 先生が指名しない「優等生」。

「なんで、謝るの」

 そもそもこれから塾になんて行けるはずもない。

「うん、そうだね、なんでだろう」

 取らせてくれなかった手。

「なんでだろうね、本当に」

 日差しは影をつくることをしなければ姿かたちさえ消しかねない。

 ぜんぶ、ぜんぶ。

「ねえ、なつ」

 いつの間にか涙を流しているなつが、なぁに、と掠れた声で呟く。

「さっきの赤い車、なつのお母さんのじゃないよね」

 小さく二度なつは頷く。太陽はほとんど沈んでいる。

「なつの家、ううん、なつの部屋、行っても良い?」

「だめだよ、りぅちゃん」

 なつの涙が温かいのか冷たいのか、私は知らなかったし、確かめる手段も今となっては無かった。

「お願い」

「だめ、だめなの、ほんとに」

「奈月」

 はっと息を呑む顔が本当に可愛い。涙のせいで顔に貼り付いた髪までも。

「世界一優秀な身体を、あの部屋でもう一度見せてよ」

 よく泣かずに言い切れた。鼻の奥がじわりと捩れてくる。なつは、奈月は胸元のスカーフを濡らす勢いで滴る涙を必死に止めようとしながら

「ありがとぉ……」

 一番、綺麗に笑った。


 もう私達の世界には夜が来ていた。街灯の明かりで浮かび上がる影がひとつしか無くても、誰も気が付かないくらい、その道には人がいなかった。

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