ずっとそばに
きみはきれいだ。髪も、瞳も、鼻も、唇も、肌も、腕も、手も、指先の形も、身体も、脚も、つま先の整い方さえ、なにもかもがきれいだ。
でもきみがきれいなのはそこだけじゃない。
きみの背中から生える白い翼が、きみの中で特別にきれいだった。白い翼、何枚もの羽根でもって構成された翼は大きく広がれば腕より長く、背の高さを優に超すほど高くそびえる。きめ細かく整った羽毛が光に当たるとつやつや光って、むしろ光を放っているように見えた。ぼくにはきみが天使に見えたし、きみは実際に天使だった。
きみのもつ美しさをぼくだけのものにしたかった。きみには、ぼくだけのものであってほしかった。
それだけだ。
*
「ごはんの時間だよ」
ぼくがお手製のリゾットと共に部屋に入っても、きみはもう以前のように暴れたり泣いたりしない。落ち着いてぼくを見ては、あんまり食欲が無いの、とだけ言う。そっか、とでも一応きみのそばにトレイを置き、ぼくは今一度きみを観察する。
かつて、きみの髪の毛はきれいな金色だったのに、今ではぼろぼろにほつれてしまっている。服は何日も変えていないからずたずたで、白い肌は黒っぽく汚れていた。アスファルトのせいだろうか。
「ねぇ」
きみはそれでも澄んだままの金色の瞳を懸命にぼくに向けて、乾いた声を絞り出す。
「わたし、もうだめだわ」
きみの声は淡々と痛々しくて、でもまだ滑らかに一音一音が発せられていた。翼をそんなにしているなんて思えないほど流麗な発音だった。
きみの真っ白だった翼は今、黒く朽ちようとしている。
初めは汚れのせいだと思った。しかしいくら水を含ませた布で拭いても、泡を立てて洗ってやっても、その黒は消えない。きみは諦めたように言う、わたしがここにいる限り翼は元に戻らない、と。
その時にぼくははじめて「堕天病」という言葉を聞いたのだ。
堕天病は、天使にしか降りかからない、きわめて珍しい病らしい。珍しい、というのは、滅多にかからないというよりも、その病が「発動」する条件を、天使は滅多に揃えないというだけだ。症状は、その名の通り堕天するというものだ……具体的に言えば翼が朽ち持ち合わせる純白を失い最終的に天使の資格を失う……。何故このようなことが起こるかというと、堕天病発症の条件はというと、今ぼくの目の前にいるきみが見事に揃えていた。
揃えると言ってもひとつだけ。住処である天界から長く離れること。
天使は滅多なことでは天界を離れないし、離れたとしても束の間らしい。ぼくは天使の事情はよく知らないけれど、きみがかつてそう言っていた。きみは今すぐにでも天界に帰れば、きっとこの病から解放されて天使であり続けることができるのだろう。そうできないのは、ぼくのせいなのだけれど。
「このままここで天使じゃなくなるのよ、わたし」
きみは泣きそうなのを必死に隠したような顔で言った。ぼくは、きみの顔を無遠慮に覗き込んでは、きみに問う。
「天使じゃなくなったら、どうなるの?」
きみの眼光が一瞬鋭くなって、すぐ和らいだ。睨みつけられた気がしたけど、きみはすぐそれはやめたらしい。
「堕ちるだけよ。地上を通り越して地の底へ。わたしは人間にもなれず、惨めな堕天使になるの」
惨め! その言葉を聞いた瞬間ぼくは笑いだしそうになった。惨めだなんて。きみが惨めになるわけないじゃないか。きみはこんなに美しいのに、惨めになり得るわけないじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
「惨めなんかじゃないよ」
「惨めよ。堕天使は惨め。主の元を追われた悲しい存在。わたしも、きっとそうなるのね」
お前のせいだと言いたげな声色をぼくは無視した。ぼくだってまさかこんなことになるとは思っていなかったけれど、天使であるきみを手元に保ちたくてこうして監禁しているけれど、ぼくはきみがもつ美しさの本質に惹かれているのだ。だから、堕天病にかかろうが堕天使になろうが、ぼくにとってはたいした問題では無い。
きみには、理解できないかもしれないけれど。
「ねぇ、もしきみが堕ちてしまっても」
きみの頬を優しく撫でる。
「ぼくがずっとそばにいるからね」
押し込めるような誓いの言葉は、きみの瞳を一瞬だけ煌めかせた、気がした。
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