おかえり
ただいま、って、笑って欲しかっただけなんだ。
*
人間の死とはあっけなく、不可逆だ。
あなたが永遠の眠りについた姿を居間の片隅で見つめながら、思う。
それは三日前のことで、あなたはマンションの階段から落ちて頭を打った、らしい。病院に運ばれてしばらくら昏倒状態にあって、しかしその後呆気なくその生命を散らした。私が病院に着いた頃にはあなたはとっくに息を引き取っていた。
どうして階段なんか使ったのか、と私は些細な行動さえ恨み、あなたの血溜まりが薄ら残るコンクリートがふわふわと柔らかだったらどんなに良かったか、と夜な夜な泣いた。
あなたはベッドで眠っている。ただしこれまでのようにすやすやと寝息を立てることは無い。ただ静かに、そこにあるだけだ。
あなたの遺体は、じきに燃やされる。私がかつて祖父の葬式で皆とそうしたように、近親者の魔法による炎で焼かれ、灰になる。私はあなたのただの恋人だから、葬式であなたを焼く権利は無い。
私とあなたの縁ってこんなもんなんだな、と思った。私の方があなたのことを家族なんかより深く知っていると思うのに、私の炎にはあなたを燃やす権利は無い。私の魔法にはあなたを灰にする権利は無い。どんなに愛し合ったとて、それがこの国が認めてくれた関係で無ければこういう時にはなんの意味も無い。残酷なことだ。
顔にかかった白の布をふと取り払ってみた。あなたはすっと通った鼻筋を生きている時と変わらずに携え、真っ白な唇は真一文字に結ばれている。閉じた瞼の縁から長いまつ毛がすぅと伸びて、天高く聳えていた。あなたは死体になってもこんなに美しい。あなたは生きている時と変わらずこんなに美しいのに、もう私と話をすることはない。
つぅ、と頬を生温かい雫が伝って、また自分が泣いているのだと気がついた。あなたの顔を見るといつもそうだ。あなたが生きている時だって、あなたの顔を見ると、愛している切なさや愛されている喜びが込み上げてきて泣いてしまったものだ。今はそのどちらでもない涙。あなたがもう二度と私に微笑みかけないことに哀しみだけを覚えた末の涙。
あなたの顔に布を今一度かけて、カレンダーを見た。黒いマジックで丸をしてある日付が、あなたの遺体を親族が引き取りにくる日。その次の日にあなたの葬式がある。
それまでに、と、私は立ち上がり、あなたを残して部屋を後にした。
*
「ねぇ、上級魔法に興味は無い?」
「上級魔法……ですか」
「そう。今より高く空を飛び回ったり、嫌いな奴が決して自分に話しかけなくなったりするの」
「それは」
「魅力的でしょ?」
「そう……ですね」
「ふふ、ねぇ、わたしと一緒に上級魔法の勉強をしない?」
「勉強、ですか」
「そう。わたしたちみたいな一般人でも、勉強して訓練すれば上級魔法が使えるようになるんだって。わたし、そのことを知ってからずっとわくわくしっぱなしなの。上級魔法が使えるなんて夢みたいだし楽しそうでしょ? そう思わない?」
「確かに、夢みたいな話です」
「夢を夢のままにしておくのはわたしのポリシーに反するの。ねぇ、一緒に叶えない?」
「……どうして」
「ん?」
「どうして、私なんですか」
「ぴんときたから」
「なんですかそれ」
「ふふ、ねぇ、今から付き合っちゃおうか!」
*
ぎぃ、と書庫への扉は重い音を立てた。続いてぱちぱちぱち、と書庫内の電気が灯る。私は扉を閉めてから、手元のメモを参照しながら書庫の中をかつかつ歩いた。このメモは、ある本の所蔵場所で、私は今探し物をしている。
この図書館は、さまざまな魔法書が所蔵されている大型の公立図書館だ。一般に開放されている開架書庫と、身分証を見せて入らねばならない地下の閉架書庫がある。開架書庫には、生活に必要な魔法のコツなんかが書いてある下級魔法についての本が多く並んでいる。一方の閉架書庫には、一般的には使うことが困難とされている上級魔法についての本が収蔵されている。私がいるのは閉架書庫の方だ。
ある柱番号の前で立ち止まり、棚と棚の隙間に入る。そこで背表紙をずらっと眺めながら、目的の本を見つけた。最上級の魔法ばかりが書いてある本を手に取って、目次を参照し、目的のページにはらりと飛んだ。ひと目ではとても覚えられないし、魔法は過程が大切なので、近くにあるコピー機に向かう。
魔法が当たり前のこの世界では、紙に印刷なんてしなくても書物の内容をコピーする方法はいくらでもあるのだが、図書館という場所は未だに魔法の介在を許さないきらいがある。
コピーされた数枚の紙を見て、私は瞬く。これで、これで、と握りしめそうになるのをなんとか堪えながら、平然と本を書架に戻し、コピーの内容を見られないように書架を後にした。
*
「ひと口に上級魔法といっても……いろいろあるんですね」
「だよね。私も本を読んで初めて知った。ねぇ、どれをやってみたい?」
「そうですね……この、高速移動とか」
「あはは、楽しそう」
「便利そうですし」
「そこかぁ。私はぜんぜん、便利なのじゃなくていいかな。どっちかっていうとどうでもいいやつがいい」
「どうでもいいやつ、って」
「たとえば……花を錬成するとか」
「あまり上級魔法らしくないですけど、確かにすごいです」
「じゃあ、人体切断!」
「いよいよ大道芸みたいになってきましたね」
「じゃあじゃあ……うーん、疲労回復は役に立っちゃうしなぁ」
「そこは頑ななんですね」
*
あと一日しかない。
あなたの親族があなたを迎えにくるまであと一日。私は焦っていた。なかなか魔法が思い通りにいかない。やはり私のような一般の人間では、上級魔法を使いこなせないのだろうか。否、あなたとあれほど勉強して、私だって少しは力があるはずだ。あなたほどではなかったかもしれないけれど、私だって、やればできる。やらなきゃいけないんだ。
何度も口に出して覚えた呪文を間違えないよう唱えながら、あなたの顔の前に手を晒す。そこにゆっくり力を込めるようにして、光を降らせるように、念じた。私の誦じる呪文は一言一句間違いは無い。しかしぴんと指先まで伸ばした手はびりびりと力に負けそうで、私は必死に堪える。やはりこの魔法は身体の負担が大きいらしく、でもそんなことは言っていられない。この魔法に挑むのはきっとこれが最後のチャンスだ、呪文の長さや体力から、そう思っている。
私は愚かだろうか。周りは私をなんと思うだろうか。笑い者だろうか。誰も私を許さないだろうか。
否、そんなことはない。
*
「ねぇ、これはどう?」
「どれです……あぁ」
「すごくない?」
「すごいですが……」
「あんまり乗り気じゃ無いね」
「それはちょっと、自然の摂理に反するのでは」
「えー、そうかなぁ。私はいいと思うけど」
「そうですか?」
「あ、でも待って、これ禁忌だって。なになに……身体への影響が大きすぎるため? ふーん」
「残念でしたね」
「でもさぁ、それを押してもやりたいってことも、あるよね」
「……そう、かもしれませんね」
「ふふ、ねぇ」
「なんですか」
*
あなたはきっと、私を許してくれる。
*
「もしわたしが死んだら、きっと復活させてね」
*
「……もちろんです」
答えるように呟いた。その瞬間、あなたの瞼がじり、と動き、まつ毛の根本に涙が滲む。あぁ、この瞬間を、この瞬間を心待ちにしていたのだ。
あなたを復活させることが、やっとここに叶った。歓喜の涙が溢れそうになったが、あなが目を覚ますその瞬間をこの目に焼き付けておきたい。泣くのはその後でもできる。
「……わたし、」
あなたの声だ。私の涙腺は堪えられず瞳からどぅと涙を零す。泣きじゃくる私を見て、あなたは、ひ、と息を呑んだ。
「どうしたの」
なにがですか、と答えたくて、声が出ない。泣いているから上手く話せないのも当然か、と、視界が眩んだ。あなたと並ぶように倒れ込む。ぜ、と息が荒い。
「ねぇ、なにをしたの、なんでそんな」
身体が熱い。熱でもあるみたいだ。さっきまで元気だったのにな、と、喉が締まって上手く息ができないことに気がつく。あれ、私、どうしちゃったんだろ。
早くあなたに、おかえり、って言いたいのに。
状況が飲み込めないらしいあなたが私の身体を揺さぶる。あぁ、そうされると、振動が頭に響いてつらいなぁ。でもそれを訴えることもできずに、私は仰向けになり、ごぼ、と鉄くさい咳をした。
私の意識は遠のいていく。あなたともう一度会えたのだから満足だけど、せめて「おかえり」くらい、言いたかったな。
**
状況が飲み込めない。いったいなにが起こったんだろうか。目が覚めたらあなたが苦しそうな顔でこちらを見ていて、すぐに倒れてそのまますっと、眠ってしまった。寝息は聞こえない。脈も聞こえない。まさか、死んでしまったのか……まで考えて、ぞっと末恐ろしくなった。
と……わたしの頭の中によぎったあなたとの思い出……私の頭は不意に冷える。仮にあなたが死んでしまったのだとしても、わたしにはまだ術があるではないか。昔あなたと閉架書庫で見た、死者を復活させる上級魔法。あれを使えば、あなたを生き返らせることができるのではないか?
それしかない、と私は重い身体で立ち上がり、死者復活のために……あなたの復活のために、死んでも構わないと家を出た。
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