第23話 鬼哭

「どうかな真田さなだ君。このあとで軽く一杯」

「お誘いありがとうございます。ですがすみません、今日は娘の誕生日ですので……」

「おおそうか。確か四つだったかな。はは、ここで油売ってる場合じゃないよな。可愛い盛りじゃないか」

「ええ、本当に。ではすみません、お気遣い感謝します。失礼します」


 真田兼之さなだかねゆきはそう言って上司に断りを入れると、タイムカードを押して会社を出た。上司は後ろで兼之の同僚に声をかけて、飲みに行くことにしたらしい。

 家族思いで実直な会社員。それが、兼之に対する周りの評価だった。何事においても家族が最優先で、口を開けば娘か嫁の自慢。彼の嫁は、高校時代からの付き合いだという。お互い初恋というわけではなく、二人目三人目の間柄だったが、妙に馬があって大学に行っても連絡を取り合い、自然な流れで社会人一年目で結婚した。


 昭和四十六年。その頃日本は高度経済成長期にあった。戦後の復興期から間をおかず急速に経済復興する日本を見て、その国の民をエコノミックアニマルだなどと揶揄する声もあったが、兼之には一向に構わないことだった。

 娘がいて、嫁がいる。それだけで幸せな毎日だったし、会社では別段悪い立ち回りもしていなかった。嫌われることも恨まれることもない、家族が大好きで平凡な平社員。それが兼之だった。

 ゆくゆくは係長を目指し、課長部長と成り上がりたい。そう言った野心も、なくはない。いや、大いにある。今日だってそれを胸に契約を一件取ってきたのだ。


 電車に揺られて街を見やる。竣工十三年が経つ東京タワーが絢爛と輝き、急速に建てられたビル群が輝きを放っている。家に帰れば娘と嫁が、ご馳走を作って待ってくれているだろう。楽しみでならなかった。

 娘は四歳。部長が言った通り可愛い盛りだ。少しませている気がして父親としては心配だが、同僚の子も同じらしい。別に、珍しい話ではないようだ。天才バカボンとゲゲゲの鬼太郎が好きで、妖怪と友達になりたいと言っている。会社にも妖怪が勤めているが、過度に恐れるまでもなく気のいい奴だった。

 最寄駅で降りて、ベッドタウンになっている埼玉の街を歩く。

 家の付近に、喧騒が起こっていた。一体なんだと思って兼之が走っていくと、警察が立っており、兼之のマイホームを封鎖していた。何を勝手なことをしているんだと、兼之は憤った。


「なんだあんたたちは! おい、どういうことだ!」

「なんなんですかあなたは! こら入るな! ここで殺人事件があったんだ!」

「……は? っ、だれが、だれを……」

「それを探してるんだ。……可哀想にな、まだ小さい子まで殺されてた。強盗殺人だよ」


 口が軽い警官なのか、あっさりとそう言った。

 娘が死んだ――殺された? 嫁は? 犯人は?

 込み上げてくる胃液を堪えきれず、兼之は思い切り嘔吐した。警官が慌てて助け起こそうとするが、過呼吸に陥った兼之はそのまま意識を失ってしまった。


 犯人は翌日の昼、パチンコ店に出入りするところを取り押さえられ逮捕された。身勝手な供述によれば遊ぶ金が欲しかったというもので、兼之は病院でそれを聞かされた際、自分の中でそれまで必死に守っていた人としての枠が壊れるのを、はっきりと感じた。

 俺たちが何をしたっていうんだ……娘が、嫁が、一体なにを。

 激憤が、つま先から脳天を貫いた。その瞬間、兼之の価値観は、その魂は人間道から修羅道へ堕ち、夜半に病院を脱走した。


 勾留中の強盗殺人犯が撲殺されたのはその一時間後。その犯行が、鬼になった兼之のものだとは誰も気づかなかった。

 それで済ませば、兼之はまだ情状酌量の余地があったかもしれない。無論殺人を犯しているので無罪放免とは決して行かないが、世間の批判は、多少なりとも和らいだかもしれない。だが彼は同じ苦しみを味わう者の代弁者となるべく、殺人を繰り返した。

 そうして彼は、呪術師・鬼塚真之として生まれ変わったのだった。


×


 真之は人の器を放棄した。その肉体が、赤黒い肌の鬼へ変貌する。上背は二四〇センチにも達し、体重は六〇〇キロを超えた。顔は恐ろしい、まさに鬼の形相である。金棒を握っていないのが不思議なほどの有様であり、隆々と膨れ上がった筋肉はあまりの熱量に湯気をあげ、下半身を覆うぼろ布状態の袴が風に揺れる。

 鬼としての化身。本気の姿。

 燈真は溢れ出す妖力を拳に纏わせた。青色ではなくより深く濃い藍色のオーラがゆらりと静かにまとわりつき、ゆるく半身になって左手を前に、右拳を後ろに引いた構えを取った。


「こい、鬼神! 貴様を殺し、村を蹂躙してくれる!」


 真之が怒鳴る。燈真は気圧されることなく、森林の中異様な存在感を放つ真之に突っ込んだ。

 凄まじい速度。時速三〇〇キロは超えていただろう。その速力で、鬼として覚醒し体重が二〇〇キロ超に膨れ上がった燈真の拳が真之の腹筋に食い込んだ。

 運動エネルギー破壊力は質量×速度の二乗×二分の一。燈真のエネルギーは、もはや一億ジュール――百メガジュールを超える。一二〇ミリの戦車砲ですら約六メガジュール。そしてレールガンがその約十倍とされる。つまり燈真のパンチは、レールガンを超えている計算になる。

 ドパァンッと空気が割れる音が響き渡り、真之が擦過。しかし三メートルほどで耐え、血を吐き捨ててニヤリと笑う。鬼は、――妖怪はレールガンくらいでは倒れない。人間にしてみれば、まさしく生体兵器である。。常識だとか理屈で説明できるものでは、断じてない。


 来る、と思った時には真之は脇の大木を引き抜いていた。根っこに絡みついた土塊がパラパラと剥がれ落ち、そのまま大木をぶん回す。周りの木々を巻き込みながら燈真に迫ったそれを、彼は蹴りで粉々に砕き、やり過ごす。

 大木を引き抜いたことといい、生木を砕いたことといい、お互いにもはや常識が通用しない戦いをしている。


 真之が飛びかかってきて、燈真を押し倒した。拳を振りかぶり、それを頭部めがけ振り下ろした。鈍い打撃音がして燈真が固い土に埋まる。周りの大地が蜘蛛の巣状に凹んだ。

 だが、わずかに額が切れた程度の怪我であった。耐久度に優れる鬼ならではの軽傷である。いっそのこと燈真は金剛の術を使っていない。

 燈真は首跳ね起きの要領で、両足を引き抜くと両手で地面を押して飛び起き、両足の靴底を真之の顎に捩じ込む。ショートブーツの底が顎をぶち抜き、相手は後ろにひっくり返った。

 燈真は傍に落ちていた石を拾い、投擲。砲弾のような勢いで飛んだそれが真之のこめかみを穿ち、肉をわずかに抉った。

 怯んだところへすかさず突進し、肩から突撃。燈真の右肩が真之の鳩尾に食い込み、彼は両手で燈真を押さえ込んで勢いを殺した。


 真之は燈真に膝蹴り、体が浮き上がった彼の頸に肘鉄を叩き込む。ベタンと地面に叩きつけられた燈真を、真之は二度三度踏みつけストンプ

 無抵抗になった燈真を見るや、真之は「流石に死んだか」と言って足を退けた。

 燈真は血で頭が真っ赤になっていたが、死んでいなかった。荒い呼吸を繰り返し、そして傷を治癒させながら背筋の力で立ち上がると、鼻息で鼻腔に溜まった血を吹き出し、口から血痰をべちゃりと吐き捨てて、跳ね上がる体温を角から吹き出す蒸気で逃がし、式符を抜いた。


 燈真は駆け出し、廃屋のガレージに向かう。正面のぶつかり合いで馬力は確かめた。

 ここからは退魔師らしく小細工を使わせてもらうまで。


「待て!」


 唸るように怒鳴り、真之が追いかけた。直後、地雷のように設置した雷撃符が作動。まさしく「地」面から噴き出す「雷」が真之の足を切り裂くが、彼は構わず突き進んだ。溢れ出す妖気が、電磁力を持つ妖力を自然と絶縁しているのだ。四尾、もしくは五尾クラスの雷獣くらいの出力があれば力づくで絶縁破壊もできただろうが、一尾、よくて二尾並みの出力である式符では限界がある。

 投げつけた式符が火の玉になって真之の視界を覆った。彼は針金のようになった黒髪が焼けるのも構わず炎に突っ込み、燈真を見失ったことに舌を打った。


「どこだ……」


 ガレージには軽トラと乗用車が一台、廃車同然で放置されている。整備用の工具やオイルなんかもそのまま放置されており、危険極まりない。

 と、乗用車がぐわっと持ち上がり、投げ飛ばされてきた。

 真之は咄嗟にそれを

 直後、貼り付けられていた凍結符が作動。冷気が溢れ出し、


「しまっ――た」


 バキンッ、と真之の右腿から下を凍結させ、地面に縫い付けた。

 身動きが取れない――下手に力を込めれば肉が割れる。

 そこへ、燈真が突っ込んできた。正拳突きの構えを取り、静かに言う。


「〈晨星しんせい〉」


 渾身の一撃が、真之の腹をぶち抜いた。胃が扱きあげられ、激痛に肺の空気が全て絞り出され、右足を氷の中に取り残し、惜しいことに足を失いながら吹っ飛び、昏倒。

 誰がどう見ても戦闘不能に陥った真之は、かろうじて保っていた意識を手繰り寄せて近づいてきた燈真を見つめた。


「見事だ……漆宮燈真。覚醒間もないとはいえ、恐ろしい強さだ……」

「なんで俺を殺さなかった。チャンスはいくらでもあっただろ」

「後半は本気だったさ。本気で殺す気だった。そして、殺されていいと思った。若いとはいえ俺も妖怪だ。強いやつと喧嘩したいと思ってしまったんだ。……決して、舐めていたわけではない」


 本当に、それ以上の意味などない物言いだった。

 強い妖怪と戦いたい。どうせ負けるなら強い妖怪の手で負けを知りたい。それだけだ。つくづく妖怪、それ以上でもそれ以下でもない、純粋な闘争心の発露だった。


「ヤオロズの上澄み採取に、村を混乱に陥れテロを起こす……俺たち野良妖怪の存在を示す、攻撃のはずが……済まない、クー、焜。……俺はここまでだ」


 真之はそう言って、意識を失った。

 燈真の鼓動が収まっていき、角の脈の輝きが収まっていく。

 その瞬間、どっと疲れが溢れ出してきた。体が重くなり、思わず膝をつく。


「がはっ、ごほっ」


 吐血。体が、細胞が悲鳴を上げている。


 ――鬼神? 覚醒? なんのことだ、俺は一体、なんだっていうんだ?


 椿姫たちの加勢に行きたいが、もう限界だ。意識が――落ちる。


「燈真ッ!」


 遠くから駆けつけてきた、聞き慣れた少女の声が聞こえた気がしたが、燈真にはもうそれに返事をする元気も気力も残されていなかった。

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