第2話 車中の会話と、ベーカリーと

 木立から木陰へ駆け抜ける影。それは異形であった。

 頭部のほぼ全てを占める巨大な口に、鋭く尖った耳。聞くに耐えぬ呻き声をドロドロと漏らし、不快で吐き気を催す音による蹂躙を密かに繰り返す異質な存在。

 異形は闇より生まれた、この世の理を壊す怪物だった。人を、獣を、自然を蹂躙し破壊する化け物以外の何者でもない、まさしく異質で異様な形質なモノである。


 それを狩る、銀光が一筋。


 木立から飛び出した黒装束の、現代版忍者ともいうべき猫又の女が逆手に握った脇差を振るい、異形を切った。四本の尻尾が踊り、銀光を閃かせる脇差に血の軌跡が刻まれる。

 口だけの顔から掠れた悲鳴が溢れる――心臓と肺腑を切り刻まれ呼吸もまともにできない化け物は、ゴボゴボと溢れ出す己の血潮に溺れて沈んでいく。


 猫又の忍者は化け物を狩り尽くすと、脇差を背中に交差した鞘に納めてそばの木にのぼり、遠くの道を見下ろした。

 その先に己が仕える主君と、その主君がわざわざ出迎えに行った新しい家族がいる――。


×


 車は中心街を走っていた。本当に中心部は地方の都市みたいだと、燈真は過去に何度か地方に出かけた際の記憶を頼りに思った。行き交う人々はその多くが性別も年齢も、種族も異なる妖怪たちである。人口の八割が妖怪と言われる魅雲村においては決して珍しくない、ごく当たり前で普通の景色である。

 と言っても、都会の方でも半数は妖怪が馴染んでいるのが裡辺という土地である。なので都会生まれの燈真が魅雲村の風景を見ても、特別それを変わったものだとは思わなかった。むしろ、これから先の田園風景の方に興味津々だ。彼は都会暮らしが長く、田舎というものをテレビや本でしか知らない。


 振り返ることもなく、椿姫は何気ない様子で「燈真はこの村に来て、何をしたいの?」と聞いてきた。

 村に来て何をしたいのか。

 いざ質問をされても、燈真は答えに窮した。特別何をしたいとか、何かをすべきという理由で来たわけではない。

 強いて言えば、療養だ。精神的な、療養。


「親父が田舎で養生しろって言ったんだ。あっちで、ほら……俺、逮捕歴ついちまったし。親父にしてみれば、体のいい厄介払いだろうけどさ」

「ふうん……そうかしら」

「捨てる気なのかなって思うよ。最近の親父は母さんのこともいなかったみたいに扱ってるし、過去を無かったことにしたいのかもな」


 何気なく出た弱音で捨て鉢なセリフに、伊予が「冗談でもそんなことを言うんじゃありません」と、やや強めの口調でぴしゃりと言った。はっきりと叱っているというニュアンスが伝わってくる。

 燈真は反射的に反論しようとして、けれど言葉が出てこなくて口ごもりつつ、どうすることもできなかった。燈真は「ごめん」と絞り出すのが精一杯だった。

 父に対して思うところは多々ある。世間体が大切なのは、燈真だって少しはわかる。仮にも医者だ。信頼と信用で成り立つ仕事である。だが、世間体のためだけに若さが取り柄なだけの女なんかと再婚した挙句、駆け落ちするほど愛した女の存在をいないように扱うのはどうなのだろうか。

 それどころか家にだって月に一回か二回帰ってくる程度で、燈真とも一言喋るかどうかだ。そんな生活が、もう二年は続いている。


「お父さんに言いたいことあるなら、直接言えばいいでしょ。私ならそうするけど。気に食わないと思ってることがある、直してほしい、改善してくれ。あるいは、自分も反省すべき点を指摘してくれっていうふうにさ」

「……それもそうだな」


 椿姫に言われ、燈真はその通りだと思った。少なくとも父は生きている。気に食わないことをしっかり言えるし、気になることを問いただすこともできる。――自分にその勇気があれば。無論、父から燈真に対して直してくれと言われる部分があれば、できる限りの努力はする。

 車が赤信号に捕まって、椿姫が「伊予さん、パン屋によってよ。すずなからおやつ頼まれてさ」と言った。


「あら、いいわね。おやつはパンにしましょうか」

「燈真も、パン食べるでしょ? ……別に財布なんか出さなくても、うちで出すし」

「え、ああ。食べるよ」


 椿姫が気を利かせて空気を変えてくれたことに気づき、燈真は言葉には出さず感謝した。


「ところで稲尾家について、燈真ってどの程度知ってる?」

「どの程度って……あれだろ、平安時代に邪龍を討ち滅ぼした稲尾柊が始祖で、千年近く生きるその柊が未だに家で暮らしてるっていう」

「そうそう。私がその三十四代目。うちの家系ってちょっと色々あって、妖怪にしては早いスパンで世代交代しちゃったんだよね」


 燈真が気になったことを、椿姫が答えた。

 そうだ、普通妖怪は百年ほどで成人と看做される。たった千年足らずで三十四世代も世代交代しているというのは、妖怪にしてはあまりにも早すぎるのだ。人間並の世代交代の早さである。妖怪であることを考慮すれば、椿姫はせいぜい十代目くらいの稲尾家子孫でなければ説明がつかない。

 が、いったいそこにどんな秘密があって早世になってしまったのかを聞くほど、燈真は野暮ではない。話さないということは出会って間もない相手に話せることではないのだろうし、言えるようになれば自然と話してくれるだろう。

 椿姫は「まあ私のお母さん世代でそれも治ったけどね」とけろっと笑っていた。

 感情表現豊かな少女である。見ていると、自分の悩みがちっぽけに思えてしまった。不思議な魅力のある少女だ。


 車が中心街からやや外れたところにある、喫茶店のような建物に入った。看板には「ベーカリー・うつみ」とある。どうやらここが椿姫のいうパン屋らしい。

 燈真はバタバタしていて昼食を抜いてしまったので、パンはありがたかった。出費を抑えられるというのも嬉しい。わびしい話だが、燈真の懐事情は少々寒風が吹くほどに物悲しいレベルである。素寒貧というほどではないが、お世辞にも裕福とは言い難い。バイクの免許取得のために、細々と貯めていた貯金を使い切ってしまったのだ。


 車を降りた三人は、揃ってベーカリー・うつみに向かった。そこで椿姫の腰を見ると、小ぶりに縮小させた、先端が紫色の尻尾が五本生えている。

 五尾なんだ、と思いながら、燈真はベーカリーに入った。記憶の中の狐も、確か五本の尻尾の白い狐だったなと思いながら。

 いらしゃいませ、と静かだが通る女性の声がして、パンのふんわりした甘い香りとコーヒーの芳醇な匂い、そして控えめにつけられた冷房が優しく体を包み込む。

 椿姫は鼻歌を歌いながらトレーとトングを手に取り、パンを選び始めた。


「菘っていうのは誰なんだ?」と燈真が問うと、伊予が「椿姫ちゃんの妹。可愛いわよ。他にその子の兄で、椿姫ちゃんの弟の竜胆りんどう君もいるの。どっちもふわふわモフモフで可愛いわ」と答えた。

「竜胆はちょっと生意気な盛りだけどね、あいつ」


 椿姫が振り返らずに言った。反抗期の年頃なのだろうか?

 妖怪で反抗期――人間換算十三、四歳といえば、だいたい四〇歳前後だろうか。多感な時期の少年だろうということは、想像に難くない。


 燈真は自分のトレーに惣菜パンを乗せていく。チキンサンド、たまごサンド、そして焼きそばパン。

 椿姫は甘めの菓子パンをメインに、大きなトレーいっぱいにパンを乗せていった。伊予も、軽食の範囲内の種類のパンをいくつかのせる。

 一個二五〇円とかそれくらいで、安いのが印象的だった。

 燈真は合計三つのパンと、それから紙パックの牛乳をトレーに置いて列に並んでいた。前にはすでに並んでいる椿姫がおり、小ぶりな尻尾がふわふわしている。

 獣妖怪や鳥妖怪は抜け毛で外敵に気配を気取られぬようにするため、幼い時分に毛根の硬化術を学ぶ。それによって毛を抜けにくくし、外での抜け毛を極端に防ぐのである。

 なので飲食店で鳥獣妖怪が少し尻尾や羽を出していたところで、少なくとも事情をよく知る裡辺地方民は何とも思わなかった。別段、料理に毛が混入するとかはあまり思わない。強いて言えばフワフワしてるなとか、そう思うくらいである。


 精算している前の客は西洋妖怪のオークの男性である。大柄な体躯に、薄く緑がかった肌をしている。黒地のタンクトップにダボっとしたワークパンツという出立ちに、腰にはチェーンをぶら下げている。まさに「田舎にいるばちばちに決めた怖いあんちゃん」という装いだ。

 燈真が暮らしていた百万都市・燦月市さんげつしには街中にメイドや侍がいたものだが、どこの地域にも架空の存在としか思えない者がいるのだろう。

 オークの男性は、それでも意外に几帳面で小銭を財布から出して会計を済ますと、フードコートでオレンジジュースを啜っていた犬妖怪の女と駄弁り始めた。


「お次のお客様どうぞ」

「はーい。すみません、三人とも会計一緒です」

「かしこまりました。袋はお分けいたしますか?」

「一緒でいいですよ」


 燈真は車で食べるので別にして欲しかったが、口は挟まなかった。まあ、家に着いてからのんびり食べるのも悪くない。


「当店のポイントカードはお持ちでしょうか?」

「椿姫ちゃんの、ある?」

「あるある。学校帰りにちょくちょく寄るし」


 椿姫は黒い革財布からポイントカードを取り出し、ハンコを押してもらう。

 次回五〇〇円券として使えます、と言われ、彼女は「得した」と微笑みながら財布をしまう。

 それにしてもいい財布だなあ、と燈真は思った。燈真の財布はアウトレットで買った八〇〇円の安物である。中学一年の頃から使っている、年季が入ったものだ。

 パンは紙袋に入れられ、燈真が一つ持った。ほのかに香るパンの匂いが、腹の虫を刺激する。


 車に戻り、傾斜のついた坂道を登っていく。傍には桃の果樹園があり、農家を営む妖怪の男女が桃を収穫している。

 魅雲村の農産物は桃、米、そして酪農、付随して牛、それから鶏である。

 魅雲ブランドの牛肉と鶏肉は高級品でもあるらしく、燈真も一回、小さい頃に退院祝いということで魅雲牛のハンバーグを食べた記憶がある。

 そのことを椿姫に話すと、


「えっ……魅雲牛なんて時期が来たらもらえるけど」

「もらう? 買うんじゃないのか?」

「いや、もらってる……。うちは代々退魔師やってる家だからってのもあるけど、昔から色々なんかあるたびにうちが関わって解決してきたからってことで、農家のひと解体ツブした牛をくれるのよ」

「よその連中が聞いたら呆れるだろうな。テレビとかの特集になるくらいなんだろ、魅雲牛って」

「へー。私テレビじゃなくてネットモフリックスでお笑いばっか見てるからわかんね。高級品食べてる俳優の嘘くさいリアクションより、センブリ茶飲まされた芸人のリアクションのが好きかな」

「穿ったものの見方するなあ」


 なんというか椿姫もしっかり思春期なんだな、と思った。世間というものに対して斜に構えた部分があるというか、身近に感じられるものを、少し垣間見た気がした。

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