第1話 ようこそ、魅雲村へ!

 何かに揺られている。それはゆりかごのようでもあり無機質でもあり、リズミカルに振動するその感覚が、意識を徐々に覚醒へと導いていく。

 燈真はハッとして目を覚ました。

 車窓の向こうには青々とした木々が広がっており、燈真は寒気がして二の腕を擦った。冷房が効きすぎるくらいに効いた私鉄・魅雲線みくもせんに揺られることかれこれ一時間。二の腕に寒気がしたのは悪い予感からではなく、ただ純粋に寒かっただけだ。

 夢の中で自分は、何をしていたっけか。思い出そうとして、記憶がつっかえるのを感じた。

 白い、ふわふわしたものを見ていたような気がして、それ以上を思い出せなかった。


 漆宮燈真しのみやとうまは、間をおかずトンネルに入った列車の車窓に映った己の顔が、ひどく陰気であることに気づいて苦笑いした。あんまりにも陰鬱な顔に、我ながら呆れてしまう。

 死者の骨のように白い髪、海の底のような藍色の目。白髪は父親の家系の、青い目は母の家系の。

 父の家は、どうやら燈真の曾祖父の代が神社の神主という一族で、母の一族は祖先に鬼神がいるとかなんとかという、よくわからない血族だった。

 周りの反対を押し切り、駆け落ち同然で結婚し、燈真をすぐに出産したという。

 母は「退魔師」として、父は妖怪も診れる外科医として暮らしていた。


 燈真が十歳の頃、母の死という形でその幸せは突如終焉を迎えた。


 詮無いことだ。考えるだけ時間の無駄というか、馬鹿げている。燈真はフッと、自嘲気味な苦笑いを浮かべた。

 たとえ自嘲の苦笑いでもマシになっただろうか。そう思っても、自分の顔は陰気なままだった。

 あたりを見回せば乗っている客は、わずかに二人。

 本州では妖怪といえば当たり前に存在していることは知られているが、珍しく見られるものだ。騒がれたりはしないが、注目を集めることはあるかもしれない。だがこと裡辺地方――東北地方の東に浮かぶこの地域では、妖怪なんて珍しくもなんともない。下手したら、地域によっては人間の方がレアモノである。

 まして芽黎がれい八年現在、西暦でいえば二〇八六年。様々な出来事から科学技術を平成末期、令和初期で固定したこの世界において、妖怪やなんかは昔から存在する、人間たちの隣人なのだ。別段騒ぐことはない。本州の人間も妖怪を見ても珍しがるだけで、騒ぐこともなく受け入れる。


 燈真は長いトンネルの中で、思考の海に浸った。


「都会での暮らしは疲れるだろう。少し田舎で頭を冷やさないか。あそこには、母さんの知り合いもいる――」


 父・孝之たかゆきがそう言って、燈真が通っていた高校で起きた事件のケアをしてくれようとしているのは、なんとなくわかっていた。

 婦女暴行事件の主犯に仕立て上げられ、濡れ衣は晴れたものの逮捕歴がついてしまった燈真。病院では外科医としてそれなりのポストについている父にとっては、癌のような存在の自分。切って捨てて、無かったことにしたいと――母の死後、ひどく冷淡な打算的思考を行うようになった父なら、そう思うかもしれない。

 父にとって大切なのは病院での立場と、世間体のために再婚したいけすかないあばずれのくそ女と、そして燈真にできた無邪気な義弟――義母の連れ子なのだ。

 自分へのケアだったと――そう思いたいのは、燈真が見せる父への幼き日の良き父というフィルターなのだろうか。それとも、父の本音なのか。それさえも……もう、曇ってしまった今の自分の目には、判然としない。


 そこまで考えて、かぶりを振った。考えるのはやめよう。もう、とっくに終わったことだ。やり直しの効かないことをいつまでも考え込んだって、仕方ない。失敗を引きずると、次のチャンスを掴むときに枷になるかもしれない。自分の悪い癖だ。ネガティブな思考が、常に付き纏う。


 やがてトンネルの終わりが見えてきた。長い暗闇も、いつかは終わるのだ。

 長い暗闇が開けたそこにまず広がっていたのは、美しくキラキラ反射する湖。遊覧船が出ており、山に囲まれた土地でありながら涼しげである。

 村の中心は地方都市ばりに発展しているが、その周りの景色は伝聞系に聞く田舎の景色そのものだった。

 快晴の青空に、ピーカンの太陽が輝いている。太陽の輝きが、レンズフレアのように降り注いで湖面で宝石の如く輝いていた。

 七月上旬だというのにすっかり暑い陽気が、電車にいてもわかった。


「間も無く、魅雲村、魅雲村です。お出口は向かって右手になります。電車が止まるまで、席は立たないようお願いします――」


 車掌のアナウンスが電車に響いた。燈真は隣に乗せていたリュックサックを手繰り寄せる。他の荷物は、業者に頼んで運んでもらっていた。リュックの中には誕生日に父が買ってくれた最新のラップトップと、手持ち無沙汰な時のための小説が一冊、他はすでに空っぽの水筒くらいだ。財布と携帯エレフォンはハーフパンツのポケットである。


 電車が停止し、アナウンスが流れた。お荷物を忘れないようお気をつけください――という言葉を聞きながら、燈真は暑い外に出る。

 盆地とはいえ湖に棲むという龍神様の加護で冷たく冷えた水温の龍神湖のおかげで、湖面を吹き渡る風もあり気温はそこまで高くないと聞いていた。実際にも駅の温度計には二十八度とあり、昨今の夏日にしては涼しいくらいだ。ここ最近は六月でも余裕で三十度近くなることを考えれば、尚更である。


 燈真は涼しいとはいえ初夏の盛りである村に降り立った。今年は梅雨入りと明けが早く、七月上旬なのにすでに蝉が鳴いている。燈真の梅雨明けの指針は、以前ある妖怪がテレビで言っていた「蝉が鳴いたら大体梅雨明け」というものを採用していた。時々外れることもあるが、概ね当たっているし、なんだかんだ野生の生き物の勘とは役立つものである。

 駅は立派に作られていた。とはいえ百万都市で暮らしてきた燈真には物足りないものだが、村というには随分しっかりと建物があるし、中には売店や休憩スペース、喫煙所もある。野晒しの無人駅のようなものを想像していたが、そうではなかった。

 出入り口にドアの類は、当然ない。燈真は改札に切符を通し、問題なく通行した。


 喉が渇きを訴えているので、燈真は自販機に向かう。手早く水分補給するにはこれだろうとスポーツ飲料水を購入。歩きながらキャップを捻って、塩分と甘みの入り混じったそれを飲んだ。美味い。喉が渇いているというのもあるが、体が塩分を欲しているのがわかる。

 聞いた話によると、スポーツドリンクを汗の味と感じて不味いと思うのは、電解質や塩分が足りている証拠で、美味いと思うのは足りていないからだとか。

 ということは、今美味いと感じた自分にはそれらが足りていないんだろうか。そんなことを思いながら外に出た。


 空中を、天火という怪火が漂っていた。関西の方ではジャンジャン火とも言われる青い火の玉である。

 怨念の化身で、見たら高熱に苦しんだり家に入れると病になるというが、裡辺の天火は別にそんなことはしない。確かに死者の魂が変質したものだが、その実態はちょっと脅かしたりして妖気を吸い出すくらいのものである。

 目の前に現れた天火もそうだ。おぞましい表情の落武者が生首よろしく浮かんでいるが、燈真は平然としていた。


「少年、儂の形相を見て驚かぬとはな」

「妖怪は見慣れてるからな」

「なんだ、本州から来た観光客じゃないのか」

「そうだよ。それより、稲尾さんは来てないか? 迎えに来てもらう手筈なんだが」

「あそこのクリーム色の車がそうだ。なんだそうか、稲尾のところの小僧か……なら驚くわけないよな」


 天火は親切に答え、ふわふわ漂っていった。心なしかしょんぼりしている。その後、虫網を持っている化け狸の子供に追い回されていた。「おちむしゃだ! まて!」「やめんか! 儂を追い回すな!」


「本州の連中があんな天火みたらびっくりだろうな」


 無論、子供に追い回される姿を見て、という意味だ。祟りや災いなんて気配はこれっぽっちもない。すっかり子供の遊び相手である。まあ、あれはあれで陽の気にあたる妖気を吸収できるので、天火にとっても悪いことではないだろう。

 燈真は教えられた車に近づいた。クリーム色のSUVである。

 ひょっとして別人じゃないだろうなと思いながら恐る恐る接近すると助手席の窓が開いて、わずかに青みを帯びた白い、月白の髪を伸ばした狐耳の少女が、紫紺の目でこちらを一瞥した。


「燈真ね?」

「あ、ああ……」


 なぜだろう、初対面という気がしない。

 ひょっとしたら母の葬儀の時に会っていたかもしれないなと思った。

 ――白くてふわふわの狐。


稲尾椿姫いなおつばきよ。よろしくね。ほら、陰気な顔してないで乗って。暑いでしょ」

「あ、ああ」


 随分ハキハキ元気に喋る子だな、と思った。なんとなく自信家のようにも思える。瞳には自分自身への揺るがぬ信頼のようなものがあった。羨ましい限りだ。

 燈真は後部座席に座った。椿姫は座っているためか尻尾を縮めており、何本あるかよく見えない。

 一方の運転席に座っている女性は、振り返ってにこやかに微笑んだ。


「燈真君、暑くなかった?」

「いえ、大丈夫です……」


 美しい化け狸の女性だった。ふんわりした柔らかい声に、豊かな胸元。和服越しにもわかるたおやかな体つきは、しかしその不思議な母性のせいで妙な感情は抱かない。

 茶色のボブカットヘアに、緑色の瞳。

 女性はふふ、と微笑んで名乗った。


山囃子伊予やまばやしいよっていうの。普通にタメ口でいいから、気楽に接してね」

「はあ……」


 燈真は伊予の優しい口調に流されるがまま、頷いていた。

 車がゆっくりと発進し、燈真は妙にソワソワする気持ちを落ち着けようとスポーツドリンクを呷る。この不可思議な高揚感は、妖気の高い場所に来たから感じるものなのだろうか。それとも、自分が精神不安に陥っているからなのだろうか。

 なんでこんなにも気分が高揚するのだろう。今までの不良中学生だった頃の評判を周りが知らないから、新鮮な気持ちになっているんだろうか。荒れた生活をしていたせいで、周りからは厄介者扱いだった――。

 と、そんな取り止めもない緊張を抱えていると椿姫が振り返って、こう言った。


「燈真」

「えっ、あ……うん?」

「ようこそ、魅雲村へ!」


 それは純粋な祝福であり、燈真は裏表のない彼女の顔に、自然と溢れた微笑みを浮かべていた。

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