3.魔獣

 二人が駆け出したのは同時。

 伸びる草葉や枝をかき分け、顔を傷だらけにしながら必死で走った先で、尻もちをついたまだ幼い少年と、少年を獲物と認識しているらしい三匹の狼の姿を捉える。


 だが、それを狼と呼ぶのはふさわしくない。


 異常なほどに伸びた爪と牙、正常な光を失った瞳、荒い呼吸を繰り返す口の端からは唾液が滴って糸を引いている。


「魔獣か……」


 ラートイィスが苦々しく呟く。

 魔獣と呼称されるそれは、魔法使いが魔法を行使した際に僅かに残る魔力の残滓が獣に影響して変貌した個体だ。体のどこかに現れる核を破壊しない限り、心臓を貫こうが死なない。


「っ……助けてあげて下さい!」


 叫ぶようにサエリがラートイィスのローブを掴む。


「お前がやれ。生憎、俺は小間使いなもんでな。ロクな魔法は使えねぇよ」


 けれどラートイィスはあっさりとそう言い放った。サエリが言葉を失っている間にも、魔獣はゆっくりと、だが確実に少年へと迫る。少年の怯えた目が、サエリに向けられて。


「くそ……!」


 その目に、サエリはたまらず小銃を構えて安全装置を一番下まで下ろす。サエリは単射と連射を切り替えられる小銃を使用しているが、この状況で連射は出来ない。反動が大きい分、少年に当たりかねないからだ。


「大丈夫……狩りの時と同じように……」


 独り言を口にしながら狙いを定めて銃底を肩にしっかりとつける。だが、次第に手が震えを帯び始めた。

 嫌な記憶が頭を過ぎる。

 幼い頃、魔獣に襲われた。駆け付けた大人たちによって一命は取り留めたが、背中には今でも大きな爪痕が肩から腰にかけて残っている。


「っ、だめ、出来ません、核も見付からないし……それに……っ」


 怖い、と口にしかけたその時、ふわりと何かが背中を包んだ。

 サエリの体を後ろから抱き込むようにして、ラートイィスが引き金にかかった小さな手に掌を添える。声は、耳元で。


「臆するな。よく見ろ。狙え。お前、昨日のあの兎の心臓、全部一発で仕留めてただろ」


 いつの間にそこまで見ていたのか。驚愕にサエリは目を見開くも、それとこれとは違います、と弱々しく泣き出しそうに呟いた。


「違わねぇよ。……お前が今やるべきことはなんだ。無様に泣き喚くことか? それとも信用できない俺に助けを求めることか? 違うだろ。――――唯一信じられるお前を、お前自身が誰よりも信じてやる事だろうが」


 静かな怒声に、びくりとサエリの肩が震える。

 そう。

 そうだ。

 誰も信じられないから、今日まで私は私を信じて生きてきたんだ。

 サエリの震えが止まる。


 その唇が、開かれて。


「離れてください……――――お師匠様」


 今までの抑揚のない声とは違う、凛とした声。

 ラートイィスは口角を吊り上げてそっとサエリの傍から離れた。


「今、助けるから」


 少年に告げて、引き金を引く。


 一射目は、先頭の魔獣の足元に着弾した。その音と小さな爆発に驚いた魔獣が高く前足を上げた瞬間、魔獣の胸の位置に緑色の核が見える。

 すかざずサエリは少年の前に躍り出た。

 そのまま第二射、そして第三射。

 弾き出された銃弾は吸い込まれるようにして核を貫いた。ぱん、と核の弾ける音と共に、先頭の魔獣は倒れ伏す。


「まずは一匹……!」


 残りの二匹は、先頭にいた個体より小さい。けれど兎に比べれば随分と大きな的だ。サエリは並んでこちらを睨み付ける魔獣を照準器ごしに眺めた。正面の見える位置に核はない。

 ――――ならば。

 だん、と湿った土を踏み締めて跳ぶ。これでも身体能力には自信があった。滞空しつつ小さな個体を上から見下ろせば、一匹の背中に核が現れている。そのまま真上から核を第四射で撃ち抜いた。


「――――二匹目」


 倒れ込む魔獣を背にしながら地面に着地するが早いか、ぐん、と小銃を振って体を捻る。足下で地面の抉れる感触。三つ目の核は、最後の一匹の頭の後ろにあった。こちらを振り向こうと脚を動かす三匹目を制すように引き金を引く。第五射。

 最後の核の弾ける音が、微かに響いた。


「……はぁ」


 魔獣がすべて倒れ伏すと、サエリはその場にへたり込んでしまう。こんなに集中したのはいつ以来だろうか。背後を振り返ると、そこにラートイィスの姿はなかった。


「――――」


 呆然としていれば、少年が駆け寄って来て引っ張り起こしてくれる。ラートイィスがどこに行ったかを訊こうかと思ったが、やめた。きっと何か用事でも思い出したのだろう。そう思ってから、はっとする。

 今までの自分ならば絶対に、怖くて逃げ出したに違いないと思っていたのに、と。

 そんな変化に戸惑いつつも、くすぐったくなる。

 ああ、私はあの人を、信じているんだ。


「お姉ちゃん、これ」


 と、少年が土で少し汚れてしまった小包を差し出してくれる。そういえば小銃を構えた時にうっかり放り投げてしまったのだった。中身は大丈夫だろうか、と思いながらも小銃の紐を肩にかけ、膝を曲げて少年と目線を合わせる。


「ねえ、君。この辺りにヘレネッタ・アンリエッタ・ガーディラさんっていう女性はいます? 私、その小包を届けないといけないんだけど……」

「……お姉ちゃん、ヘレネッタ・アンリエッタの婆ちゃんのお客さん? だったらこっち!」


 一瞬きょとんとしたかと思えば、少年はニッと笑って小包を片腕に抱えたままもう一方の腕でサエリの手を引っ張った。そのままどんどん森の奥深くへと入っていくと、不意に視界が開ける。

 そこには、小さな集落があった。

 羊の毛を刈る女性や、真水の入った桶を運ぶ男性、駆け回る子供たち。その人々全員が、蒼と銀の混じった不思議な髪と目の色をしていた。そんな不思議な色に驚いたように見つめられながら、サエリは少年に引っ張られるまま集落の一番奥にある小屋へ辿り着く。


「婆ちゃん、お客さんだよ」


 少年がノックもなく扉を開けると、窓際の机で書き物をしていた女性がこちらを振り返った。白髪交じりの蒼銀の髪を高い位置で纏めているおかげで顔がよく見える。やはり彼女も蒼銀の瞳だ。


「知っているよ、ヘイズ。お前が集落の外に出て魔獣に襲われたこともね」


 そう言って、ヘレネッタ・アンリエッタ・ガーディラは椅子からサエリを手招いた。ヘイズと呼ばれた少年はバツが悪そうに小包をサエリに手渡して、どこかへ駆け出してしまう。


「えぇ、と……ヘレネッタ・アンリエッタ・ガーディラさん?」


 確認するようにその名を口にしながら、サエリは後ろ手に扉を閉めて窓際に近寄る。こちらを向いて座り直した女性は、こくりと小さく頷いた。


「アンタはサエリ。今年十八歳で、無期懲役の投獄を言い渡されている。それから、……金髪の坊ちゃんは、アンタにそれを託したんだね。あら、ご丁寧に手紙まで」


 つらつらと告げられるのは、おおよそ彼女――――ヘレネッタ・アンリエッタが知らないだろうことばかりだ。サエリがぽかんと口を開けていれば、ヘレネッタ・アンリエッタは皺の多い顔を楽しげに歪ませてくすくすと笑った。


「驚いたかい? 紹介が遅れたけれど、私はヘレネッタ・アンリエッタ・ガーディラ。この集落でガーディラ一族の長を任されているんだよ。私はねぇ、昔から色んなものが視えるんだ。過去も、未来も」


 いわゆる千里眼ってヤツだよ。

 と、目の前の彼女は不敵に笑って見せ、サエリの手から小包を受け取った。膝に乗せながら中身を確認し、手紙に目を通すと、すぐさま机に向き直って返事を書き始める。そうしながら、


「中身は茶葉だ。いつもならこちらから出向いて受け取るものだけどね……人手が足りなくてさ。けど、そうかい。金髪の坊ちゃんはアンタを運び手にしたのか。無自覚もここまで来ると怖いねぇ」


 と独り言のように呟いた。サエリは手持ち無沙汰を感じながらも、皺まみれの手に握られた羽根ペンがさらさらと動くのを眺める。


「さ、これを金髪の坊ちゃんに渡してくれるかい? そうすれば、アンタの未来はきっと良くなる。ただし、良いことばかりは続かない。大きな選択を迫られる時がいつか必ず訪れる。……後悔のないように生きな」


 書き終えた手紙を封筒に入れながらそう言って、ヘレネッタ・アンリエッタは横目でサエリを見て笑った。何を言っているのか半分も分からなかったが、それでも、その笑みは憎めなかった。




 集落を後にする。

 ヘイズが大きく手を振っているのに片手を振り返して歩き出すと、ちょうど集落が見えなくなった辺りで声を掛けられた。


「無事に届け物は済んだみたいだな」


 聞き覚えのある声は、上空から。

 眼前の空を睨み上げれば、杖の上に器用に胡坐をかいて座りながら空を飛んでいるラートイィスがいた。ロクな魔法が使えないと言っていたが、空は飛べるのか、と妙な感心をしつつも、サエリはハ、と息を吐き出した。


「いなくなったと思ったら。全部終わってからやっと登場ですか、使えませんね」

「お前、師匠に向かってそれはねえだろうよ」

「さっさとトンズラする人を師匠にした覚えはありません」

「その割に、さっきお師匠様って呼んでたけどな?」

「……っ、ああもうほらさっさと帰りますよ! 私、明日には無期懲役なんですから!」

「そんなもん、逃げりゃいいのに」

「それも考えましたけど。そしたらあなたも同罪じゃないですか、そんなのは目覚めが悪いし、……それに、地下牢で死ぬ前にちゃんと誰かを信じられて嬉しかったので」


 もういいんです、と。

 どこか諦めにも似た表情で笑うサエリを、ラートイィスはただ見つめていた。


「だから、帰りましょう」

「…………あ」

「え?」

「行きは荷馬車があったからいいけどよ……帰りのこと、忘れてたわ」

「……馬鹿ですか? 馬鹿なんですか!? ここから歩いて帰るのに何日かかると思ってるんですか、飲み水もないし!」

「うるっせぇな、お前だってなんも言わなかったろーが! 同罪だ、同罪!」

「どのみち同罪ですよ馬鹿!」


 ぎゃあぎゃあとけたたましい二人の罵声は、森の入り口までやむことはなかった。

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