お札の家
虎元がその廃墟に足を踏み入れたのは、薄暗くなりかけた夕方のことだった。札が大量に貼られているという古い廃屋は、街から遠く離れた山間の奥地にひっそりと佇んでいた。
ここに至るまで、虎元はいくつかの限界集落を通り抜けてきた。幸運なことに、その中でも特に人影がまばらだった集落で、昔を知る一人の老婆から話を聞くことができた。
老婆の顔は深い皺に刻まれ、語る声には年輪を感じさせる落ち着きがあった。彼女は虎元の問いに、口を重くしながらも答えてくれたのだった。
後ろめたい何かがあったのだろう、何か肝心なことには触れていない気がした。
そして、老婆の話を聞き終えた虎元は、夕闇迫る中、この廃屋にたどり着いたのだった。
虎元がここ、茨城県の山間の地を訪れたのは、一つは秋山聖子について聞き込みをするため、そしてもう一つは、このお札の家を訪れるためであった。
秋山聖子は茨城県のこの地方の出身だった。その後の足取りを調べていたところ、運良く昔の知人から秋山に似た人を見た、という目撃情報が寄せられたためであった。
幾人かに当たってみると、同級生の田邉という女性が秋山と再会した、ということから話を聞きに遠くまで訪れたのだった。
否、本来は電話での聞き込みで十分であったのだが。
ここ、お札の家と呼ばれる廃屋の近くであることを目ざとい泉名に指摘され、近いのならばどちらも行ってきたらいい、ということでここ茨城県の山間部まで遠出をする羽目になったのだ。
田邉という女性に話を聞くのはいいが、廃屋に一人で訪れるのは嫌だった。
玄関の扉は半ば崩れかけており、その表面には無数の剥がれたお札の跡が残されていた。かつては壁を埋め尽くすほどびっしりと貼られていたのだろう。
その数の多さに、虎元は思わず眉をひそめた。まるで家そのものが何かを封じ込めるために覆われていたかのようでさえある。
重い扉を押し開けて中に入ると、廃屋の荒れ果てた姿が目の前に広がった。窓ガラスは割れ、そこから草木が侵入してきている。
雨風にさらされたせいか、当時の生活の痕跡はほとんど残っていなかった。部屋のあちこちには遊び半分で訪れた者たちが残した缶ビールの空き缶や空瓶が無造作に転がっている。
それ以外には天井から剥がれ落ちた板や、床の抜けた部分から剥き出しになった土が見えるだけであった。
足元に注意しながら進む虎元の目に、壁に貼られたままの数枚のお札が映った。色褪せ、半ば剥がれかけている。
そこには、奇妙な梵字のような文様が描かれていた。どことなく薄気味悪さを醸し出している。ありし日の頃、この札が全面に貼られていたのだろう。
不気味だった。暗くなる前に調査を終わらせよう。そう決心した。
その時、不意に強い風が吹き抜けた。割れた窓から入り込む風で木々が激しく揺れる音が響き、虎元の背筋がわずかに震えた。
「うわっ……」
思わず視線を窓から逸らす。すると、床に転がる何かが目に留まった。近づいて見ると、それは一本のロープだった。
古びたようにも見えるが、ある種の不自然な新しさも漂っている。ふと天井を見上げた。梁が剥き出しになったその一部に、木材が擦れたような跡があるのに気づく。
間違いない。小野はここで首を括ったのだ。
胸の奥に重い感情が湧き上がるのを感じながら、周囲を改めて見回した。
その時、足元で小さな光が反射した。目を凝らして見ると、部屋の隅にSDカードが落ちていた。
拾い上げると、それはごく普通のもので、特に古びた様子はない。廃屋の中にこんなものが落ちているのは不自然だった。
虎元はカードをポケットにしまい、さらに探索を続けるべきかどうか迷った。外では風が強まり、木々がざわめきの音を立てている。
この家に漂う異様な気配が、次第に彼の心を押しつぶし始めていた。
この家に起こった怪異──札がまるで生きているかのように揺れ、梵字のような文様は脳裏に巻き付き、人の心を惑わせる。今は札自体が殆ど残ってはいない訳ではあるが。
ここに住んでいた者の悲しみが焼きついたものなのか、それとも札を配っていた男の怨みなのか。小野は何に絡め取られてしまったのか。
虎元は深く、重いため息をついた。
あの老婆の話を聞かなければ──小野の件が無ければ。ここはただの心霊スポットだったはずなのに。
結局、虎元は静かにお札の家を後にした。振り返ると、薄暗い空の下でその廃屋は静かに立ち尽くしている。
玄関に残る剥がれた札の跡が、まるでこちらを見つめているかのように見えた。どこか生気を失ったその姿には、異様な圧迫感があった。
木々を抜ける風が吹き抜ける。そこでは今も、存在しないはずの札が。ゆらゆらと、札が揺れている。そんな気がした。
******
翌日、事務所に戻った虎元は拾ったSDカードの中身を確認する準備を始めた。パソコンに接続し、慎重にフォルダを開く。現れたのは、いくつかの取材メモと、一枚の画像ファイルだった。
小野が残したものに間違いはなかった。
画像を選択すると、すぐに画面に映し出された。虎元は背筋に寒気が走るのを感じた。そこには、藁の敷かれた床に、白布に包まれた、人の形をした何かが横たわっているのが写っていた。
白い布は古びていて、まるで儀式の一部のようだった。人形の膨らみからはどんな人物なのか、性別さえも判別はつかない。
ただ、無表情に、無造作にそこに置かれている、そんな印象がより気味悪さを醸し出している。
布の上には胸元に大きな四角い物体が置かれている。それはどうやら写真のようだが、画像が粗く、不鮮明なため細部までは読み取れない。
その四角い物体が異様な存在感を放っていることだけは明らかだった。この写真は……何なのだ。背筋が寒くなる感覚だけが残った。
小野が何の目的でこの画像を持っていたのか。生前蒐集していた話とどんな関係があるのだろう。
小野の死にどう関係していたのだろう。
全ては謎であった。
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