北白槍団地の話 その1

 その老婆の話は、このようなものだった。

 

 1995年頃、平成七年のことだった。


 当時、北白槍団地の三号棟には家族連れやお年寄り、単身者といった様々な人が住んでいた。


 俄かにこの団地の空気が変化し始めたのはその年の秋頃のことだった。


 団地には公民館が併設されており、住民であれば申請すれば公民館内の施設を誰でも使用することができた。


 公民館には普段は使用されることの少ない会議室もあった。ここで自治会の集まりや、団地の運営についての会議が行われていたのだった。


 その会議室が頻繁に三号棟の住人によって貸し出し申請が出されるようになったのだ。


 主催は三号棟に住む二十代の男だった。


 申請時には利用目的が明記されるのであるが、そこにはある市民団体によるセミナー開催のため、と記載されていた。


 といっても、広い会議室ではなかったため、一度のセミナーで参加出来るのは精々が数人程度の小規模なものであった。


 そして、この主催者の男性は団地に住む人々、特に三号棟に住む住人を対象に、セミナーへ参加するよう勧誘を行なっていたのだ。


 熱心に誘うので、毎回、幾人かの住民はセミナーへの参加を承諾していた。


 不思議なことに、そのうちにセミナーへ参加した人々もまた他の住人にも参加を促すようになった。


 話を聞いた老婆もまた三号棟に住む知人に誘われ、一度だけセミナーへ参加をしたらしい。


 参加するとすぐにあることに気づいたという。そこでは、ある宗教の勧誘が行われていたのだ。


 市民団体自体は自然を大切にしよう、といった活動を目的としたものであった。そのため、セミナーの前半は自然保護活動を中心としたものであった。


 そこまではよかったのだが。


 後半になるにつれ、段々と、ある宗教団体の歴史や、その考え方を広めたい、という話になり、最後には信者にならないか、という勧誘をするといった内容となっていた。


 老婆は夫と共に参加しており、夫が強く反発したため勧誘の入り口ですぐに断ることが出来たという。


 しかし、団地の住民のうちの一部は押しの強い勧誘を断れずに、または、本気で感化され入信する人々がいた。


 おそらく主催の男は、まず最初に自分の住んでいる三号棟の住人を中心に入念な勧誘活動を行っていたのだろう。また、同じ棟に住む住人達にとっては身近な人間からの誘いとあって断りにくかったのかもしれない。


 信者は三号棟を中心に増えていった。


 一方で、強引な勧誘活動は団地全体からの反発も多かった。多くの苦情や被害を訴える声が生まれたのだ。


 自治会の会合でこの活動が問題視されるようになり、その自然保護団体に対する公民館の貸し出しが禁止となった。また、それと同時に、団地全体で宗教活動、または勧誘行為の禁止、といった厳しい対応が取られることとなった。


 しかし、既に団地内で信者の数が一定数増えていたこともあり、この厳しい対応は信者となったグループと、その他の住民との間で分断を起こすきっかけとなったのだった。


 宗教というだけで差別される。何も法に触れるようなことはしていないのだから、そのように言われる筋合いはない、というのが宗教団体側の言い分であった。


 そしてその態度は、更に自治会側の、住民達の感情を逆撫でした。結果として両者は真っ向から対立することとなった。


 こと三号棟に住む信者が多かったことから、三号棟の住民は他の住民からは次第に避けられるようになり、ギスギスした関係性が生まれた。


 団地内で起こってしまった分断は、少しずつ、時間をかけて醸成されていった。


 そんなことがあってから数ヶ月が経ったある時。


 三号棟で事件が起きた。


 一階に住む秋山聖子が育児放棄をした。その結果、一人息子の聡君が亡くなってしまったのだ。


 秋山は若くして結婚し、聡を出産した。


 のちに折り合いの悪かった夫と離婚して以降、シングルマザーとして生きていくため、昼夜問わず働いていた。


 彼女は宗教団体の信者では無かった。


 シングルマザーで常に働いていたという事情もあり、近所付き合いは最低限のものであったことが幸いして、運良く勧誘を受けることはなかったのだ。


 しかし、それは秋山親子にとっては不幸の始まりでもあった。


 朝早くから遅くまで働き、何年もの間多忙であった聖子は、相談できる味方もおらず、徐々に精神のバランスを崩していったのだ。しかし周囲にその事に気づいた人間はいなかった。


 その当時、件の宗教セミナーに端を発する団地内の分断が深刻なものとなっていた。


 信者グループは互いに結束し、偏見や忌避の感情を剥き出しにする信者以外の人々を徹底的に避けるようになっていた。


 そして、大多数を締める勧誘活動を許容しないグループは、信者グループを、そして三号棟の住民を避けるようになっていた。いや、信者の多かった三号棟の存在自体を避けるようになっていたのである。

 

 つまり、聖子と聡は団地内の深刻な軋轢の隙間に落とされてしまったのだ──


 以前はそうはいっても挨拶ぐらいはするし、軽い立ち話をする程度の近所付き合いはあったのだが。


 もはやこの団地の中には、聖子達のことを見ようとする人間はいなかった。


 同時に、精神のバランスが崩れた彼女は、いつしか限界を迎えてしまっていた。


 次第に、幼い一人息子を家に置き去りにし、帰らなくなっていた。


 漸く三号棟の住民が、周囲の人間がそのことに気づいた頃には、置き去りにされ、聡君が亡くなるには充分な時間が経っていた。


 聡君は人知れず、団地内の暗いアパートの一室で、その生涯を終えた。発見されたときは衰弱し痩せ細り、眠るように息を引き取っていた。


 すぐに聖子の身柄は拘束され、長い裁判が始まった。聖子は裁判で心神喪失を認められ、執行猶予付きの判決を受け、三号棟に帰ってきた。


 三号棟の人々は、聖子を温かく迎え入れた。


 それは、分断が引き起こしてしまった悲しい事件の罪悪感から来るものだったのかもしれない。


 同じように、他の団地内の人々もまた彼女を受け入れようとした。

 

 しかし──


 我が子の命を自ら失わせてしまった聖子は心の奥に深い傷を負っていた。


 そんな彼女が周囲の人間が所属する宗教にのめり込んでいくのは時間の問題だった。


 そしてその時も、中心には、三号棟のあの男がいた。彼の真意は誰にも分からなかったのだが。


 彼女は、誰よりも熱心に信仰し、赦しを乞い、献身的に働いた。


 自身の行動で命を落としてしまった子供を弔うため、償うためだったのかもしれない。


 暫くして、彼女は宗教幹部に働きが認められ、本部に行く事になった。


 そうしてこの団地を後にしたのだった。

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