北白槍団地の話 その2

 

 老婆の話は衝撃的なものであった。


 「なんというか…不幸という言葉では言い表せないほどのものですね。誰も幸せになれないというか…救いがないと言いますか」


 「ああ、今となればね、信者になった人たちの言い分も少しはわかりますわ。こちら側も必要以上に拒絶しすぎていたかもしれん」


 お互いが一線の引き方が分かっていなかったのだろう…桐谷はそう思った。


 隣に住む同士、お互いが何処かで認めることが出来ていたら違う結果があったのかもしれない。


 「そんな対立なんてなければ聡ちゃんも死なずに済んだかもしれんのにな」

 老婆は遠くを見つめた。


 「秋山聖子さんは、今何をしてるのですかね──」

 罪は消えないであろうが、どうか穏やかにあって欲しい、そう思った。


 「さあどうでしょうかなあ。何処で何をしてるんだか分かりません。


 宗教なんてのは、聖子さんみたいな人を救うのが役目でしょうに。救われていてほしいものですけどねえ」

 その言葉に嘘はないだろう。老婆もまた、秋山聖子を憂いているのだ。

 

 「その後のことですがね。佐島さん、佐島ひで実さんの件」


 「ああ、佐島さんですね」

 そうだったのだ。事件はまた起こっていたのだ。


 「聡ちゃんがなくなってから、一年ぐらい後のことでしたかな。佐島さんはね、あの団体に嫌気がさしたんですよ。


 排他的な集団の中で生活を強いられて。息苦しかったんでしょう」


 「それでは、脱会しようとしていたのですか?」


 「ええ、団地内でも相談してたんですよ」

 ところがね──と老婆は言った。


 「脱会は許されなかったと?」


 「そうそう。あの人たちはね、抜けることに対して思ったよりずっと厳しかったのよ。


 こっちはね、ほら、聖子さんのこともあったから。本人が望むなら力になりたいって思ってね。色々と手を貸していたの」


 「しかし、それなら自らの命を断つなんて…」


 『サトシ君』の話の中では、彼女は屋上から飛び降りて亡くなったのだった。


 「それがよくなかったのかもしれないけどねぇ。うまくいかないものですね。


 あの人たちはあの手この手で脱会を阻止しようとした。ここからは私の妄想だと思って聞いて欲しいんですけど」


 老婆はそう前置きを置いて、深く息を吸い込んだ。


 「佐島さんはね。あの連中にね、殺されたのかもしれないの。じゃなきゃ筋が通らないのよ」


 「そ、それは…警察は確か自殺と断定したはず。屋上にも靴が揃えてあったとか」


 「わかってるわ。でも私は──」

 違うと思うわ。そう老婆は言った。


 老婆がそう考えるからには、何か根拠があるのだろう。

 

 しかし。

 

 そこまでする団体なのか。

 

 「確かにね、警察はさっさと自殺って決めちゃったよ。でもねぇ、亡くなる前日もその前の日も、私たちは佐島さんと会ってるのよ。


 表立っては難しいけどね。ほら、ゴミ捨て場で待ち合わて、偶然っぽく話してみたり。その時もね。前向きに今後のことを話してた」


 「で、でも、三号棟の屋上から飛び降りた──そういう話なのですよね…」


 「ええ。目撃者もいる。それで自殺と断定された。けどね。その目撃者ってのがさ、例の宗教の信者だったのよ」


 「え…それは…」


 どういうことなのだろうか。


 確か、目撃者は『サトシ君』の話によると、語り手の母親──ではなかったか。


 「それでは、信者側が脱会を阻止しようとしていて。佐島さんが亡くなったところを唯一見ていたのもまた信者だったと」


 しかし、それを証拠としてしまうには問題がある気がする。


 老婆は話を続けた。


 「他にも根拠はあるのよ。三号棟にね、一人ガラの悪いのが住んでいたの。いつもお酒の匂いをさせてね。街で色んな悪さをしてるって噂だったわ。


 舎弟っていうのかしら、同じようにガラの悪い若い人引き連れてねえ。


 彼だけは信者って感じじゃなかったんだけど。避けられていたわ。というより誰も触れなかったわ。別の意味で危険だったのよね」


 たしかにそんな男なら信者達も迂闊に近寄れなかっただろう。


 「その男が何か関係していたと?」


 「何やらね飛び降りが起きる少し前にね、ほら、セミナーやってた主催の男がね」


 ああ、確かその男も三号棟に住んでいたのだ。


 「そのガラの悪い男にね、何やら相談してるようだったのよ。


 ほら、私が住んでるのは五号棟の最上階なんだけど。窓から三号棟がよく見えるのよ。よくベランダで、二人がコソコソ話してるのが見えたわよ。


 それにね──


 事故の当日の朝ね、そのガラの悪い男がね、三号棟の周りをウロウロしてた。周りを気にしてたような気がするわ」


 成る程──信者側がその男に依頼して、殺害した、そう考えたわけか。


 「でも、ここの団地の屋上にはかなり高い柵がありますよね。


 三号棟の作りが同じだったかわかりませんが……相当な力がないと抱えて落とす、なんて難しいような気がしますが」


 桐谷は五号棟の屋上を見ながら疑問をぶつけた。


 「その男ね、凄く背が高くて。

 多分あなたより背が高いんじゃないかしら?

 あんな程度の柵なら抱えて落とすなんて平気で出来そうよ」

 

 ああ。それじゃあ。

 その男は。


 ──ここにいたのか。


 「あ、あの、その男の特徴、他にないですか」


 「あ、ええ、髪が長くってね。いつも帽子を深く被ってたわ」

 

 ──そうだったのだ。

 

 「あとはそうねぇ、よく長いコートを着てたかしら」

 

 ──間違いないじゃないか。

 

 「そ…その男がここに住んでいたのですね」


 今はプレハブ小屋しか建っていないほうを指差す。


 「ああ、そうですよ。あんた、何か心当たりあるんだね」

 やっと小野に追いついたのか。


 「小野さんはその──大柄の男のことを聞きに来たのですね」

 「ええ、確かにそうでしたな」


 小野は、山小屋の部屋にいた大柄の男を追っていたのだろう。


 そしてここに辿り着いた。そして事件を知り、『サトシ君』の話を発表した。


 だとしたら。


 「その宗教団体、青い服を着ていませんでした?」


 「なんだい急に。うーん、信者の連中は普通だったよ。

 でも、確か。セミナーには幹部って人が来ていたんだけど、青い服、そうだったかもしれないね。


 いや、そうだったと思うわ。全身真っ青。趣味悪いと思ったわ」


 やっぱり。小野さんが青い服の集団について知ったのもここだったのかもしれない。


 「その男、なんという名前なんでしょう」


 「ええと、確か。真下──晋太郎、だったかしら」


 「小野さんも知っていたのですかね」


 「ええ、真下さんについて教えてくださいって感じだったよ」

 やはり、小野は男の名前まで特定していたのだ。

 

 すぐに次の疑問が湧いてきた。


 「あの、今でも信者の方はここに住んでいるのですかね」


 「そうねぇ。どうかしら。三号棟が解体されるってなったとき、散り散りになってね。多くの人は出て行ったわ。


 団地内の他の空き部屋に引っ越して行った人もいるけどね、いまではそんな熱心に活動してないみたいだし。


 なんだかね、三号棟が無くなると同時に、どうでもよくなっちゃったのよ。


 私たちも、信者さん達もね。もう変ないざこざは辞めましょうって。気がつくとそうなってたわ」


 そうか──団地の住民にとって、三号棟こそが信仰の本山であったのだろう。そこが無くなってしまえば彼らにとっては解決したも同然なのか。

 

 「あの、因みに、目撃者の女性はその後どうなったのですか?」


 「ああ、亡くなりましたよ。ついこないだ。


 まあ、なんだかね、佐島さんの事件以来ずっと具合悪かったみたいよ。


 もう三十年ぐらいは経つのかしら。

 長いこと苦しんでいたみたいね。可哀想にね」


 桐谷は貴重な情報をくれたその老婆に丁寧に礼を言い、その場を後にした。


 真下晋太郎──今何処にいるのだろうか。


 例の宗教団体とどのような関係があったのだろうか。


 小野は、その男に会えたのだろうか。


 帰路に着く頃、桐谷はそんな事ばかりを考えていた。

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