サトシ君 その2
険悪になりそうな雰囲気を感じたのでたまらずA氏が口を挟んだ。
「ねえ、そういえばなんで三号棟って行っちゃダメなの?」
母がこちらを向き直る。
「あそこはね、ほら、建物も古いじゃない。今度建て直しされるみたいだけど。
今住んでいる人もね、お年寄りが数人だけ。亡くなっちゃったけど、若い人は江島さんぐらいだったじゃない。
管理も行き届いてないし、子供だけであそこに行って事故があったら大変よ。だから行ってはダメよ」
若い人はいない、という言葉に違和感を感じたA氏が言った。
「えー、でも僕あそこに住んでる子と友達だよ」
一瞬、両親の顔が固まった。
「お、おまえ、何言ってるんだよ」
「そうよ。あそこには子供なんていないわよ」
「えー、じゃあ違うのかなぁ。サトシ君、いつも公園で遊んだ帰りに三号棟のほうに歩いて行ったんだけど」
父の顔が引き攣る。痙攣しているように頬が震えている。
母はグラスを持ったまま全身が硬直したように固まっている。
「おい、お前、その子はサトシ君っていうんだな」
「あなた、やめてよ、そんなことある訳ないじゃない」
「お前は黙ってろ。おい、その子はサトシ君なんだな」
「うん、そうだけど…」
「絶対にもうその子とは遊ぶなよ。それから、そのことは誰にもいうな。分かったか?」
普段あまり怒らない父が珍しく強い口調になっていた。
「…分かったよ」
「それからな、しばらくは公園に行くな」
「えー、なんでよ」
「なんでもだ。ゲームでも買ってやるから家で遊べ。いいな」
腑には落ちなかったが新しいゲームを買ってくれるということで文句はなかった。
サトシ君とも別段仲がいいというほどでもなかったし、まあいいか。そのぐらいに考えていた。
その後、しばらくは父の言いつけを守り、というより、新しいゲームに夢中になってたこともあり家で遊ぶことが多くなった。
しかし、ゲームにも飽きた頃、結局A氏は公園で遊ぶようになっていた。
しかし。
不思議なことに、それからサトシ君の姿を見ることは無くなった。時が経つにつれ、いつの間にかサトシ君の存在も忘れていったのだった。
以上がA氏の子供の頃の記憶である。
それから二十年ほどたった今。
大人になったA氏は久しぶりに昔住んでいた団地に足を踏み入れた。
両親と折り合いの悪かったA氏は、高校の卒業を機に住み慣れた団地を出て一人暮らしを始めたのだった。それからというもの、なんとなく帰るきっかけを持てないままいつの間にか時間が過ぎてしまっていたという訳だ。
そんなある日、母が体調を崩したことで久しぶりに実家に帰ることになった。
有給が溜まっていたこともあり久しぶりにまとまった休みを取った。家を出て以来、初めてと言っていいほど親との時間をゆっくり過ごすことになった。
久しぶりの団地は驚くほど綺麗になっていた。
数年前にリノベされたらしく、家も建物もまだ新しい匂いが立ち込めていた。
窓から外を眺めているときに、ふと三号棟のことを思い出した。
暫く思い出せなかったのも無理はない。昔三号棟が建っていたそこは、今は建物は壊され、資材を置くためのプレハブ小屋が建っていたのだった。あまりにも景色が違い過ぎて思い出せずにいたのだ。
両親に三号棟のことを聞いてみる。
「あそこはねぇ。あんたが出て行ったあと暫くして解体されたんだよ。
建て直すって言ってたけど中々進まなくてね。色々あったところだからねぇ」
「色々って何だっけ?」
「ああ、あんた知らなかったんだね」
「あんた昔、三号棟に住んでいるサトシ君と遊んだって言ってたでしょ?」
「サトシ君?うーん、ああ、そんな友達いたかな?」
少し考え込むと一気に記憶が蘇ってきた。
「ああ、サトシくんね、いたいた」
「そんな子はね、いないのよ」
「え?どういうこと?」
「三号棟にはね、あの時子供は住んでいなかったの。前にサトシ君という子は居たけどね。
その子はだいぶ前に死んでいるのよ」
「え!?じゃあ俺が見たのは…」
「ほんと、びっくりしたわよ。あんた一体何と遊んでるんだって心配だったわ」
「そのサトシ君、なんで死んだの?」
「親から虐待を受けてたみたいよ。母子家庭だったんだけどね、最後は親が家に帰らなくなってね。人知れずよ。可哀想にねえ」
「そうだったんだ…じゃあ俺が見てたのは…」
自分の遊んでいたあの男の子は…サトシ君の霊──だったのかも知れない。
思い起こせば、初めてサトシ君を見たのも一階のベランダの下の僅かな隙間だった。
まだサトシ君が生きていた頃。
虐待されてはそこに隠れていたのではないか。
「その、サトシ君の親はどうしちゃったの?」
「その虐待していた母親はね、神経が参っちゃってたって判断されてね。捕まらなかった。
でもね、戻って来てすぐ出ていっちゃったわ。
その後ね、あの江島さん、ほら飛び降りた日、あんたも学校の帰りに人だかりが出来てるところ見てたでしょ。その江島さんがマンションに入ってきたのね」
母の話によると、他にも老人が孤独死したりと、何かと亡くなる人が多かったそうだ。
そんな棟だったので、徐々に入居者も減り、いつしか閉鎖されたそうだ。
母の体調も回復し、自宅に帰る日、実家を出て歩いていると三号棟の跡地が目に入ってきた。
今は小さなプレハブ小屋が建てられている。資材を置くための場所として使われているそうだ。
小屋の前にベニヤの板やブロックが無造作に置かれている。
その時、プレハブ小屋の窓枠でちらっと何かが動いた気がした。
何もない。
気のせいか。
目線を外し、当時を思い出す。
ああ、サトシ君に最初にあったのはあのあたりだっただろうか。
そんなことを考えていた。
再びプレハブ小屋の窓で何かが動いた気がした。
見間違いではない。
目線を窓枠に戻すと。
そこには、あの日見た男の子、サトシ君がいた。
隣には、知らない中年の女性がいた。
江島さん、という女性なのか。
ああ、懐かしいなぁ。
まだ彼らはここに住んでいたのだな。
そんな不思議な体験でした。
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