僕の虚無は静寂の中に。

 

 暗い部屋の中。パソコンの明かりだけが、ぽっとしている。

 もう何時間も経っているのだろうか、僕はエンターキーを押せずにいた。それさえ押せば、卒業論文の骨組みが終わるのに、だ。とはいえ、少しばかりの文章構成は必要ではあるが。

カチカチと、時計の針の音は無機質で、今の僕には、丁度良い。丁度良い、というのは、気持ちが安らぐというのではなく、自分も無機質になった気がするからだ。

 何も考えなくて良い―

 という具合だ。

 今日の否、本日の折檻は酷いものだった。

今日の午後に帰宅した僕は、母に言いつけられた事は全てやった。掃除、皿洗い、風呂磨き…米をといで、炊飯のスイッチを押し炊きあがり時間をセットするだけ。

 良い状態にした。全てが終わったで、僕は二階で寛いでいた。

—やっと終わった。

 しかしだ…。

 母は帰宅するやいなや、台所をチェックし始めた。

見ていなくても、二階に僕はいても母の行動が、まるで見えているかの如く、把握出来た。

 ―大丈夫…、今日は完璧なはず…。

 だが、そうは問屋が卸さない。

炊飯器の蓋を開ける音がすると、バンッと、乱暴に蓋を閉められた音。

 —炊飯器の開ける音が二階にいても聞き分けられるなんて…。

 自分で自分の過敏性に驚く。

 母は、階段を一機に駆け上がると、僕の部屋に入ってきた。

 僕は、凍り付いた。

 —何かが不十分だったのか?

 頭を駆け巡らせる余地もなく、僕に近づいてきた母は、手を振り上げ、思い切り僕の頭を殴った。

  —え?…

 と思った瞬間、二発目がきた。

「米をといでと言っていたでしょ!とぎ汁が未だ濁っていた。この怠け者!」

 —とぎ汁?

 頭が追い付かない。

「オマエは」

 三発目。

「どうして」

 四発目。

「手伝いの一つも」

 五発目。

「出来ないの!」

 六発目。

「私は働いているの!」

 七発目…、

 —来るか?

 僕は目をつぶり、七発目を受ける心構えをした瞬間、

 キャイン!

 悲鳴が上がった。

 すぐに目を開けると、時はゆっくり流れており、視界に平(へい)が、宙に浮いていた。

「うるさい!この犬が!」

母が平を蹴り上げたのだ。僕の中の何かが切れた。騒めきと言うより、怒りというより、憎しみが、ハッキリ、鮮明に心の中で存在を露わにした。

次の瞬間、今度は、母がふっと宙に浮いて、壁に激突した。

 僕は目をひん剥いて、

「利き足でないことに感謝しろ!」

叫ぶと、床で悶えている平を抱き上げた。大丈夫か?と。骨折でもしていたら…否、人間の蹴りを、小型犬が受け取れる訳がない。平は僕の肩の高さ程、宙に浮いていた。強烈な痛みだったに間違いはない。

 僕は平を抱きしめたまま、母を見据えた。

 母はぽつり、

「…い、たい…」

 と、僕に蹴られた腹を抱えていた。

 ―痛くて良かったね…。

 僕の頭の中の誰かが、そう、呟いたのに、大きく賛同した。

 母は、腹を抱えながら、僕の部屋ら出て行った。

 夜。

 僕は、父、兄に給仕をしながら、食卓で共に夕飯を食べていた。

 先ほど、から母の姿が無い。

 耳を澄ませると、二階で電話をして誰かと喋っている。全くもって、僕という奴は、音に敏感になっている。母が家中どこにいて、何をしているのか、ハッキリと聞こえてくるのだ。そして何をしているのかも、いつしか分かるようになっている自分がいる。

 自分の心の中で、嫌悪感が流れる。

 正直、嫌な予感しかしない。先ほどから、食事の味がしない。そう考えをめぐらしていると、二階から、母が勢い良く階段を下りてきて、食事中の僕に携帯を差し出した。

 きょとんとする僕。

「電話に出なさい!私の妹よ!」

 どうやら、叔母と電話をしていたらしい。

 内容は分からない。

「え…な、に…?」

 意味が分からない。

 またくだらない癇癪を起して行動に出たのだろう。いちいち付き合っていられない。

 母は続けて「いいから出なさい!」と、僕の耳に携帯を押し付けて来た。

「痛いッ!」

顔面に携帯を押し付けてくる。押し付けて、ぐりぐりと顔への摩擦係数が高くなる。ここで嫌だと言うと、また何をされるか分からないので、「分かったから」顔に電話を押し付けて来ないでくれと懇願る。

「もしもし?」

 と電話に出た瞬間、

 「あなたね!母親を蹴るってどういう事よ!」

 癇癪持ちの妹も癇癪持ちか?

 未だもって何がどうなって、いるのか頭が追い付かない。

「家事位、お手伝いしなさい!何故しないの!」

 僕はあまりの理不尽の𠮟咤に、タガが外れたように、泣きだしてしまった、

「どうして…僕ばかり責められる?」

 僕の叫び声に、叔母は、

「どうしたの、私には状況が分からないわよ!」

 僕は床にひれ伏してしまった。

 悔しさ、一方的に怒鳴り散らされる毎日。生きているのが辛くなった。僕はもう叔母話せる状態ではなくなってしまった。

 その後は、叔母の電話がどうなったのかは知らないが、わんわん泣き叫ぶ僕を前にして、父と兄が、何事もないかのように、普通に食事をしている姿が目に入り、絶望を感じた。

 助け欲しかったわけじゃない。ただ、理解して欲しいだけだった。僕はただ、存在すら認めて貰えていないが良く分かった。

 僕は夕飯を残し、食器洗わず、お構いなしに、自室に閉じ籠った。

 こんな思いをして迄、生きるのか?

 僕に、またしても、誰かが囁く。

 体の中から、どくどくと鳴る。血が流れる音だ。僕はくすくす、と笑った。僕にさえも、未だ体は「生きたい」と嘆いているように思えたからだ。

 僕の部屋の中には、三面鏡がある。あるのだが、今は扉を閉じられている。

  僕は三面鏡を見つめた。自分の部屋にある、母親の嫁入り道具の一つだ。

 しかしながら、花嫁道具だろうが何だろうが、母親の所持している私物が僕の部屋にある事自体不愉快極まりないので、僕はそれを、悪意を持って使っている。

 三面鏡を開く。角度を付けると、何通りもの自分の姿が映る。

自分の手前、左の自分、右の自分と実際の自分。この四人で話し込む。

自分の手前は、現実の自分。左の自分は、腹黒く、よく悪口を言う。右の自分は、いつも大丈夫だよ、とそう言ってくれる。

僕は鏡に映る自分に話かけた。

「大丈夫だよ・・・」

君は悲しいだけだろう?

右の自分がそう言う。返事はない。当たり前だが。しかし、頭の中に返事はやってくる。

「そんなわけないだろう」

 苦しいさ・・・、と左の自分が言う。

 そして、腹黒い僕は、

「さぁ、お待ちかねの時間」

 と、にやついている。

 僕はすっと、引き出しから、剃刀を取り出した。そして、剃刀を手首にかざし、思い切り、スライドさせた。

 嗚呼、僕の血も赤い。

 胸が血だらけで赤いと感じる毎日なのだが、いざ、血を見ると、赤いのだなと、そう確認しては、安堵する。それの繰り返し。

 ある程度、流れる血を見ていると、落ち着いた。落ち着くと、引き出しから包帯を取り出し、自分で自分の止血をする。消毒もせず、流れる血もぬぐわず、そのまま、ぐるぐると包帯を巻く。

 包帯から染み出す、僕の血。

 愉快だった。爽快と言うべきか。ちりちりとした痛みが僕の心をくすぐる。いっそのこと、腕を切り落としてやろうか…そんな考えさへ浮かんでくる。

 ―と、人の気配に気が付くと、母が僕の部屋の扉を開けて、こちらを見つめていた。

 「また切ったの?」

 くだらない事して。

 その言葉が耳を通して海馬に行く迄に、平手が飛んで来て、僕は床に倒れ込んだ。

 母は何事もなかったかの様に、すたすたと自室に入っていった。

 僕はどうして、このような目に合うのだろう?

 僕には三歳上の兄がいる。先程、僕が折檻を受けているにも関わらず、平気で夕飯を食っていた男だ。僕のノートパソコンを家電と何とも情けない事を言う、兄だ。文句を言えば平手をくらわすような馬鹿僧だ。

 以前、居間でパソコンを使って、レポートを書いていると、急に腹が痛くなり、トイレに行った。それから居間に戻ると、兄が僕のパソコンの前で、ブラインドタッチからは程遠い、両人差し指で、たどたどしくレスをしていた。

 は?

 僕はその光景が信じられず、「は?」となった。それ以下でもそれ以上でもなかった。

「人のパソコンで何してくれてるんだ」

 僕は自分のパソコン兄から取り上げた。僕のモノだと、僕なりの精一杯の意思表示だった。

 しかし、兄は、お前にこんな高価なモノが買える訳がない。母親にでも金を出してもらって買ったのだろう?

そう言った。最後には、

「ノートパソコンを開いたままにしている方が悪い。第一、家電だ!」

は?

こいつは脳みそが膿で腐っているのだろうか?

こんな情けない奴が、実兄だとは・・・。

何とも情けなくなった。そして、パソコンの画面を見ると、書き進めていたレポートの文章が消えていた。僕はヒヤリとした憎しみが湧いてきた。承知する事が出来なかった。しかし、兄の力に叶うわけもなく、平手を一発くらい、床に倒れ込んだ。その勢いで、パソコンが床で粉砕した。

 兄は息を荒げて、その場を後にした。

 床に転がっている、僕。同じく床に転がっている、粉砕したパソコンを見つめた。

 床って、こんなにヒンヤリしているものなのだな・・・。

ぼんやり思った。レポートの事等、もうどうでも良くなっていた。どうせ、一から書き直しなのだから。データーは復活出来ないろうから。

 「床が冷たくて…きもちいい・・・」

ところで、僕には、もう一人上に姉がいる…、はずだった。しかし、姉が出来た頃に、母は闘病中で、身体にとって、厳しい投薬治療をしていた。そんな中での母の妊娠発覚。医師曰く、投薬治療が原因で、お腹の子供は障がい者になって、産まれてくるだろう、との事で、母は堕胎を申し出たそうだ。かといって、兄一人では可哀そうだと、堕胎後、服薬も中止し、一年かけて、僕をつくり上げた。

 僕は、世に、この砂漠の様な枯れた心の持ち主の両親の元に降り立った。

 望まない、輪廻。僕は自分を呪った。選択を間違えただと。空から見て、この家の家族になりたいと思ったが故に、自分で選んで、この家に生を受けたのがまずかっただろう。

 「お前、鎌倉にでも療養に行きなさい」

 母の言葉で僕は我に返った。そして、『鎌倉』と聞いて、背筋が凍った。床の冷たさで癒されている場合ではない。

 療養をと言いつつ、きっと策略があるに違いない。母が心の中で、にやりと笑ったのを何故か見て取れた。言うだけ言って、今度こそ母は自室に去って行った。

 僕の中で闇に潜めていた、僕の暗雲が僕の心に立ち込めた。恐ろしく、「死、あるのみ」、の言葉が頭を掠めるのを感じた。

 僕の卒業論文をレスしている指はエンターキーを押す事が出来ず、夜は古通り、深けていった。月の光が僕を照らす事もなく、ちかちか、パソコンの光が僕を照らしていた。

 ずっと、ずっと。可笑しい位、単純に。

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そうして僕は死んだ @moro_jkp

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