推しの胸

 制服の袖でダラダラと垂れている唾液を拭き取ると、俺は頭を掻きながら口を開く。


はなから他の奴らに言う気はない……けど……」

「けど?」


 俺は真剣な表情で鶴瀬さん……いや、ありさちゃんを見つめながら口を開いた。


「俺のお願いを聞いてくれないか?」


 そう言って俺は人差し指を立てる。


「な……なによ、お願いって……。まさか――」

「ああ、そのまさかだ」


 すると、彼女は顔を赤くしながらデカい声でこう言った。


「それは卑怯よ!」

「何が卑怯なんだ?」

「だって……」


 彼女は顔を赤くしながら目線を逸らして言葉を続ける。


「そんなことしたら、私……アイドルとして活動していけるか――」

「えっ……握手もしちゃダメなのか?」

「…………へッ? 握手?」


 なぜだか彼女は間抜けな表情をしていた。握手をしてはいけないアイドルなんて聞いたことないけどなぁ……ありさちゃんはNGなのか? いや、今は握手会をするアイドルグループが減ってるってネットの記事で見たことがあるから……握手ができなくてもおかしくはない。


「ありさちゃんは握手……NGなのかな?」

「握手……」


 彼女は下を向いていてどんな表情をしているのか分からないが、ブツブツと独り言を言っているのが耳に聞こえる。一体どうしたのだろうか?


「てっきりお付き合いを強制されるんじゃないかと思ってた私がバカだった! 不知火くんは私のことを推してくれてるから、推しの弱みを悪用しようって考えているのかと……。だけど、不知火くんはそんな人ではなくて……むしろ私が……惚れてしまいそうな人だった!(ブツブツと独り言)」


 彼女は咳払いをして正面を向き、俺の顔を見つめると……俺の右手を両手で包み込んできた。そして、彼女は目を逸らしながら口を開く。


「絶対に私の正体をバラさないでね。……絶対だからね!」

「ありさちゃんの手……思っていたよりも小さいんだな」


 すると、彼女は俺の方を向いて口を開く。


「えッ!? そ……そうかな?」

「約束するよ。ありさちゃんの正体は絶対に他の奴らにバラさない」


 俺が真剣な表情でそう言うと、彼女はなぜか顔を赤くして……手を離して目を逸らした。


「これからよろしく……」


 俺は笑みを浮かべながら口を開く。


「ああ、よろしく!」


 俺は笑みを浮かべたまま頭を掻いて言葉を続ける。


「にしても、まさか本当にありさちゃんに会える日が来るなんてなぁ~!まるで夢を見ている気分だ!」

「私のこと、そんなに好きなの?」


 彼女の質問に対して、俺は推しへの熱い愛を語る。


「ありさちゃんは俺にとって女神のような存在だからな。ショートカットの艶のある銀髪の髪に、端正な顔立ち、そして……意外とデカい胸を持っているからな!」

「…………胸」


 彼女はそう言うと、自分の胸を見つめ……俺の方を向いて口を開いた。


「その~、不知火くんは、きょ……巨乳が好きなの?」


 俺は顎に手を当てて、考える素振りを見せた後でこう答える。


「巨乳が好きでもなければ貧乳が好きなわけでもない。ありさちゃんの胸の大きさが……いや、ありさちゃんの胸が大好きなんだ!」

「不知火くんが何を言っているのかほぼ分からないけど、私の胸が好きなことだけは分かったわ。まあ、要するに……重度の変態さんってことね」

「へ……変態ッ!」


 今の俺はありさちゃんから引かれて嫌われているのだろうか? まあ、胸が大好きとかって言ったら世界中の女子から引かれるのは間違いないだろう。しかし、彼女は微笑んでいるように見えるのは見間違いだろうか? ビンタなどをして怒ってもいいのに、彼女は重度の変態さんと言うわけでビンタをしたりしなかった。彼女は今、どのような心境なんだ?


「そろそろ午後の授業が始まるみたいだし、教室に戻らないと……」


 そう言うと彼女は、食べ終わった弁当箱を手に持ってベンチから立ち上がる。


「不知火くん、教室に戻ろう」


 そう言って彼女は、俺に手を差し伸べす。


「あ……ああ」


 俺は差し伸べられた彼女の手を掴んでベンチから立ち上がる。マジで分からん……ありさちゃんは今、どのような心境なんだ? 怒っているようには見えないし……。


「不知火くん……放課後、予定ある?」

「えっ……いや、特にないけど……」


 すると彼女は微笑み、腕を後ろに組みながら口を開く。


「駅の近くにクレープ屋さんがあるのを今朝見たんだけどさ……一緒に食べに行かない?」


 嘘だろ……推しからクレープを一緒に食べに行こうって誘われちゃったんだけどぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおお!! どういう風の吹き回しだよ!? これは……一緒に行くべきなのか? ……何言ってんだ、俺! こんなご褒美を見捨てるわけにはいかないだろッ!!


「喜んでお供いたします!」

「よろしい! それじゃあ放課後、クレープを食べに行こうね!」


 そう言うと彼女は、笑みを浮かべながら屋上の扉を開けて去っていった。俺は上を向いて晴天の空を見つめながら呟いた。


「マ~ジで夢を見ているようだ。だけど、これは現実なんだ。ありさちゃんと出会ってから、俺の日常が変わっているように思えるなぁ……。勘違いかもしれないけど……」


 俺は頭を掻くと、両腕を上げて大きな声で叫ぶ。


「よーし! ありさちゃんとクレープ食べに行くぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおお!!」


 俺は清々しい表情で屋上を後にしたのだった。

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