4.熱き泉の雪女

「殿方のほうは随分とお元気そうで……」

「男ってイキモノは畢竟ひっきょう、何歳になっても子供なのだよ」

 呆れ気味に苦笑を浮かべるアイシャの隣の浴槽で、腕を組み物知った糸目顔でウォッカをワンショット呷るアイグル。

「温泉でウォッカとは、通だねぇアイグル」

 パンドラは腰を上げるとアイグルの横で再び湯に浸かった。

「おーい! 男たち! 今からそっちに行ってもいいかい? 私と一緒にウォッカでもどうだい!?」

「パンドラさん、流石にそれはちょっと……!」

 パンドラが笑みを浮かべながら叫んだ瞬間、隣の湯にいたアイシャが堪えきれなくなった苦笑を浮かべて制止の声をかけた。

「別に大したことないよ。こんな筋肉質で傷だらけの女に誰が興奮するってんだい」

 パンドラがグラスを持ち上げると、アイグルは無言でそのグラスにウォッカを注いだ。

「パンドラだ!」

 聞き慣れた凛とした声に気付き、浴槽の方に四つ足で走って戻ってくるカテナ。そのままの勢いで誰もいない方の(ちゃっかりぬるい方の)湯に飛び込み、大きな水飛沫を上げる。

「こっちきたいだって! べつにいーよね?」

「む? あぁ、わしは別に構わんが」

「パンドラさんさえ宜しいのでしたら、私も特段差し支えありませんよ。腰にタオルはしっかり巻いてありますし、民族学者として先住民との交流のために混浴は慣れておりますから」

 いつも通り平然と答えるドルジと、存外にあっさりシラフ顔で同意するリュリコフ。

「みんないいってさパンドラ! いつでもきていーよ!」

 カテナは姿の見えぬ声の主に向かって叫ぶと、誰も居ない浴槽でバシャバシャと犬かきを始めた。

 リュリコフの一見無頓着にも聞こえる先の言葉はその実、“文明人”の価値観の色眼鏡で辺境の異文化を偏見蔑視せず、あらゆる人類の文化を多元的に捉え、積極的に“郷に入っては郷に従う”という、民族学者でも並大抵ではない異文化に対するリスペクト姿勢に強く裏打ちされていた。

(やれやれ、あの貴公子サマは……でも、民族学者の器にはこれほどない逸材ね)

 リュリコフの声を聴力のいい小耳に止めたアイグルは、その全てを見透かし、口元に苦笑を浮かべつつ黙して湯に浸かり、人知れずそう心の中で呟くのだった。


 と、パンドラたちが雑談をしていると、不意に一人の女性が温泉に入ってきた。

「ご一緒しても?」 

「もちろん♪」

パンドラの言葉に少し笑みを浮かべた女性は、北国出身の人間以上に白く美しい肌を湯につけた。肩にかかる銀色の髪が水面にきらびやかに反射する。

「久しぶりね。その節はどうも」

 パンドラが笑みを浮かべながら話すと、銀髪の女性はキョトンとした表情を見せた。

「ふふ、失礼。旅芸人をしていたせいか、顔見知りは多いのだけど、どうも記憶力が悪くてね。知り合いかと思ってカマをかけてみたのよ。気を悪くしないでね。この土地の人の肌の色はもうちょっと日に焼けた茶褐色で顔立ちも柔らかいからね。貴女のような美白でくっきりした顔立ちの人間は、私と同じでもっと西の方の出身かしら?」

「そうです。サンクトピチルブールクから一人で来ましたわ」

「へぇ、一人でよくここまで来たもんだわ」

「私の力なら、大したことありませんよ。パンドラさん♪」

 その一言でパンドラは即座に湯船から立ち上がり、鍛え抜かれた腹筋が湯に浸かる銀髪の女性の顔の前に現れた。

「あんた、何者だい? 名前は名乗った覚えはないよ」

「宮廷魔術師最高指南役のジーニャと申します。コードネームは“ハロードナエ・セルツェХолодное сердце”」

 女性がニヤリと笑みを浮かべる。

「宮廷魔術師!? どどどーしてこんなとこにっ!?」

 驚いて湯船から跳ね上がるアイグルは意にも介さず、

「“冷たい心”という意味ですが、ひどいですよね。だから気軽にジーニャと呼んでくださいね♪」

と女性は温泉の湯を両手で汲み上げ、目の前に零すと、湯が徐々に凍っていき、凍った湯は水面で動きを止めた。

「宮廷!? ラスプーキンや一味の敵討ちかい? それともぼうや(カテナ)をまた狙ってきたのかい!? 一人でいい度胸ね」

「あの時はザハル様がお世話になりましたね。ラスプーキンとは関係ありません。私たちの目的は獣人ではなかったのですから。未熟者のキールやアルダーがやられたようですが、あなた方を恨むなんてとんでもない」

 ちょうど今から一年ほど前のルーシ遠征時、帝都で妖術を弄して皇帝一家に取り入り擅横を働くという悪名高き怪僧「ラスプーキン」とその手下に鉢合わせ、記憶を操作されたカテナの心と身柄を奪われかけつつ奮闘し、何とか死守した出来事(『絆の記憶』)を思い出して一層警戒を強めるパンドラの眼光を、女は不敵に微笑んで受け流す。

「目的はなんだい? もしかしてバカンス中だなんて言うんじゃないでしょうね?」

「あなた方と同じですわ。伝説のワインを飲んでみたいだけ。それと温泉目当てでもあったのですが、私にはどうやら熱すぎたようで、もうちょっと冷たいほうが好みでしたわね」

 ジーニャはそう言うと湯から立ち上がり、脱衣所に向かって歩き出した。

「伝説のワイン、ご一緒に飲めたら良いですね♪」


「もし、パンドラさん~! 大丈夫ですか~!?」

「大事ないかの~?」

 男湯のほうから、リュリコフとドルジの心配そうな叫び声が聞こえた。女湯のクルトとアイシャも、相手の女を警戒しつつ心配そうにパンドラの様子を見守っている。しかし、全員が全員そろって全裸であるため、誰も行動は起こせずにいた。

「がう? どーしたの? なにかあったの? オイラおよいでて、むこうのおときこえてなかった!」

 雪遊びをしていたカテナがようやく空気感の異変に気付き流れに追いついた頃、

「フ○ッキン宮廷魔術師サマが何の用!? ここいらで何かしでかしたら、辺境民族クルグズ生まれの“翠き狼団員”ゼリョーナヤ・ヴォルチツァことアタシ様がタダじゃ帝都みやこに帰さないわ~!」

 パンドラの最も近くにいたアイグルが、大急ぎで体を拭き服を着て、女湯の縁まで駆け戻ってきて大見得を切った。

「かわいいお嬢様たち、そしてあちらにいる殿方たちもぜひご一緒にワインを楽しみたいですわね」

 ジーニャはアイシャたちにウインクをすると、ドルジたちがいる方向にも目を向けて笑みを浮かべた。

「それではお先に失礼」

 ジーニャが脱衣所に向かって歩きだすと、彼女の周囲を氷の粒がまるでダンスをするかのように舞い始めた。


 ジーニャの姿が見えなくなると、安堵したかのようにパンドラは湯の中に座り込んだ。

「本当に一人で来たのかしらね。私の耳には違和感なかったわ」

 パンドラは常人以上の聴力を持っており、反響定位エコーロケーションによって周囲の情報を得ることが出来るのだ。

「みんな大丈夫? 変な魔法とかかけられてないかい?」

 裸のパンドラは心配そうな表情を浮かべながら、同じく裸のクルトの身体をペタペタと触っている。

「ほぁ、パンドラさん……? くすぐったいよ……」

 発育が通常の人間より若干遅めのハーフエルフとはいえ、12歳も末に至り、流石にもう“女児”の域を卒業して年頃の乙女心が萌芽しつつあるクルトは、赤面してとっさに身をすくめてバスタオルを取るが、パンドラの仲間を案ずる純粋な本心ゆえの行動であることを重々理解しているため、その真心に甘んじて強く抵抗することもなく、半ば為すがままにわしゃわしゃされるのだった。

「ひゅ~、クルトちゃんもいつの間にか思春期だねぇ♪」

「何と云いますか、その……感慨深いものがあります」

 脱衣場からパンドラとクルトの様子を眺め、腰に手を当てて瓶牛乳を喇叭飲みしつつニヤリ顔でうんうんと頷くアイグルの横で、アイシャは肌着姿で芯から温まった体の湯気を取りつつ、髪を櫛梳って拭う手を思わず止め、余熱も相まってか少し赤面し何とも云えない苦笑を浮かべた。

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