第18話 もうそろそろ夏ですね
この世界は不思議な事に四季がある。
地球のように球体ではなく、かつて人類が想像したように平面で存在するこの世界は、どんな法則に則ってか地域ごとによって温度や湿度、風から気候に至るまで全てが地球の頃と同じ様な動きをするのだ。
ただし地球ならば多少例外はあるが赤道付近は暖かくそこから遠ざかると寒くなっていったものだが、この世界では熱い国の隣の国が寒い国であったり、その逆もまた然りで土地毎に日射量が変わっている訳でも無いのにかなりの温度差がある。
これには精霊や小さな妖精などが関わっているらしく、場合によっては龍などの力ある種族の影響で気候や温度が変わることも有るらしい。
ちなみに世界の端にはいくつか祠が設けられており、それらはお互い転移魔法で移動することができるのでそれほど困ることもないらしい。
「夏ですねぇ……」
「夏だねぇ……」
ごろごろと転がりながらそんな事を呟くのは半袖半ズボンに身を包み、外に出ようとしたものの暑さに負けて部屋の中で寝転がる事を選択したエラとエルピスだ。
エルピスの魔法のおかげで比較的エルピスの部屋自体は適温で保たれており、随分と快適に過ごすことができるので外に行くのには少々抵抗が生まれる。
本来ならばこう言った場面ではエラが何とかしてエルピスを外に連れていくのがいつもの事なのだが、気温が高いだけならばまだしも、じっとりとした森特有の高い湿度は服を肌に触れさせるたびになんとも言えない不快感をもたらす。
エラでもそんな中で外には出たくない。
「あらあらお二人とも。いつまでも寝転んでいては楽しい時間が過ぎていってしまいますよ」
湿度が高いからなのかいつもならば乾いた音のする扉が静かに開くと、だらけているエルピス達を見かねてやってきたリリィが入ってくる。
今日はどうやらゆったりした服装を主としているようで、いつもよりひらひらが多くついておりリリィが体を動かすたびにそれらが小さく動き回りエルピスの視線をさらう。
すると扉のところに立っていたリリィの後ろに黒い影がちらりと見えた。
この家に来てから何度も見たそれがなんなのかは、エルピスにはすぐに分かった。
「そうですよエルピス様、経験者が語ってるわけですし聞いておくのが良いかと」
「あらなんだか棘を感じる言い方ねフィトゥス、貴方最近少し調子に乗っているんじゃなくって?」
「何を言い出すかと思えばこれだから見た目だけ若い森霊種は、昨日の事でまだ怒っているんですか?」
エルピスを外に出す為に集まったはずの二人は、その当初の目的を忘れてお互いに一歩も引かないと睨み合う。
これでもこの二人は召し使いの中でも仕事ができて人望の熱い憧れの二人の筈なのだが、その面影を喧嘩している二人からは感じ辛い。
今日は普段なら喧嘩を止めてくれるヘリアが食料調達当番なので出払っており、誰も止めるものがいないので二人の言い争いはさらに加熱していく事になる。
「お風呂当番は今までずっと私の役目であったのにそれを! それをあろう事か横から掠め取るような真似をして、よくそんな口が聞けますね!?」
「リリィ姉様それはエルピス様が指定なされたので、その言い方だとエルピス様のせいになってしまいますよ」
「うっ……貴方までこんな変態悪魔の味方なのエラ。それを言われると何も言い返せないじゃない」
リリィが怒りをフィトゥスにぶつける理由は、彼女が言っている通りエルピスの風呂当番を交代させられたからだ。
それ以外にも食事中の付き添い係、剣術指導魔法指導受け身指導からサバイバル指導etc。
エルピスの身の回りによくいるフィトゥス、リリィ、ヘリア、エラは勿論のことそれ以外のメイドも含めて様々な指導がエルピスにはなされている。
その指導の当番は基本的にエルピスが指名するものであり、体術指導と魔法指導に関しては両親が名乗りを挙げたのでエルピスが指名はしていないが、それ以外のメンバーは大体がエルピスが指定したものなのだ。
ただ今回議題に上がっているような掃除当番であったり、朝の着替えの当番であったりなどはエルピスが駄々をこねたため母から無理やり決められており、それならば仕方がないとこの間苦悩の末にようやく決定したのである。
「そもそも僕は昔っから一人で入れるって言ってるのに、どーしてもやらせろっていうからだよ? なんならフィトゥスも──」
「──いやいやちょっと待ってくださいよエルピス様! そりゃないですって!」
「エルピス様のために鍛え上げた私のマッサージ技術、メチルさんやヘリア先輩に教えを乞いながらエルピス様に気持ちよく入浴していただけるよう会心の出来に仕上げたのに、一体なぜ!」
あんまりですと言いたげな目で見つめてくるリリィに対して、エルピスは端的に、それでいて心の底からの答えを口にする。
「いや普通に異性だし、体見られるのが嫌だからだよ」
この屋敷には数人エルピスが警戒している人間がいる。
もちろんそれは命の危険だから警戒しているといわけではなく、単純に危ない人間だったり関わったりすると何か面倒毎に巻き込まれる可能性がある人間のことを指している。
警戒している人間筆頭はもちろんエルピスが5歳の誕生日の時に付き添いをしてくれていた森霊種の女性だが、あの人は父の仕事を手伝っていることが多いのでエルピスと行動を共にする事は少ない。
次に怒らせると怖いヘリア、これはそのまま怒らせると怖いので警戒して喋っていないと何かヘマをした時が怖いからだ。
そして次にリリィである。
最初こそどことなく怖さを感じたリリィだが、最近はエルピスの事を甥や従甥のように扱ってくるので距離感が測りづらいのだ。
「がーん! ですがこのリリィそれならば目隠しをしてでも!」
「気配察知使ったら目で見るよりよっぽどくっきり写るでしょうが、というかリリィってがーんとか口で言っちゃう残念な子だったっけ」
「エルピス様、夏の暑さは人を変えてしまうのですよ」
やれやれとばかりにフィトゥスが手を震っているが、そんな彼が頭に葉っぱを乗っけたままなのをエルピスは黙って見過ごしてあげる。
今日朝方目にした時は庭の掃除をしていたのでその時に乗っかったのだろうが、ずっと気付かずに乗せていることなどあるのだろうか。
実際目の前で乗っているので、そんな事もあるのだろうが、それにしても何だか妙な姿である。
フィトゥス程の美形が頭に葉っぱを乗っけていると、まるで狸にばかされたような気分だ。
頭を撫でられた形になり嬉しそうにしているフィトゥスを押しのけるようにして一歩前に出たリリィは、頑固とした態度で話を本筋に戻す。
「とにかく! お外に出ましょう!!」
「確かにこのままここでゴロゴロしているのも良くないですね」
エルピスとしてはまだまだごろごろしていたいのだが、エラは軽く伸びをするとその場で立ち上がり身体をほぐし始める。
大体これをした後はいつも外に連れ出されるので、エルピスは意地でも動かないという意思表示のためにベットに飛び込もうとするが、首元に伸びたエラの手によってそれは阻止された。
「夏という事でそうですね、薬草採取なんていかがでしょうか?」
「まだまだねエラ。違う、エルピス様が求めているものは全く違うのよエラ。夏、森、つまりは虫取りよ!」
「この森に出る虫ほとんど魔物ですよ? あんな世紀末生命体誰が飼うんですか」
「この前ヘリア先輩飼ってたわよ? 私はちょっと分からなかったけど結構慣れたら可愛いらしいし。紫色の……名前なんだっけな」
この森で生息できる生物は、種属的に強者であるものが大多数である。
龍が闊歩しているこの森では生態系の頂点がアルヘオ家のメンバーを除けば龍主体で作られており、頂点が高過ぎるため何とかしてそれに対抗しようと固有種がどんどん強くなっていったからだ。
虫も毒を持つものが非常に多く、毒を持たなくとも不気味な外見をしていたり鉄程度ならば断ち切れる顎を持った虫も少なくはない。
またサイズもかなり大きく、30センチ程度のものから大きいと馬程の大きさの物も存在することがある。
頭の中で軽くこの森に住む虫の情報を思い出していたエラの横で、白い肌を青くしながら肩を震わせているのはエルピスだ。
落ち着きがなく何か恐怖に駆られているようにも見えるエルピスに対してエラが声をかけようとすると、大きな声をエルピスがあげる。
「あの紫色の虫ヘリアのだったの!?」
「どうかなされましたかエルピス様?」
「今朝なんだけど廊下歩いてたら肩に付いてきたから、びっくりして虚空に飛ばしちゃった……あぁ怒られる絶対怒られる!」
早朝、まだ太陽も上がりかけておらず非常に涼しい気候の時に最近エルピスは朝の散歩を行なっている。
その際に帰り際自室へ戻ろうと渡り廊下を歩いていたら、紫色の3~40センチ程の虫が背中に止まり声も出ないほどの恐怖に駆られて虚空に消しとばしてしまったのだ。
そもそもサイズ感からして異常なのに、ゴキブリとゲンゴロウを足して割ったような見た目をしているのだ、気持ち悪いことこの上ない。
いま改めて見ても同じように虚空に消し飛ばす自信があるが、ヘリアの飼っているペットであったのならば、あれはまずい事をしてしまったのかもしれない。
「本当ですかエルピス様、確かあれ名前つけてましたよ?」
「おわっ……た。エラ、ごめんねもっと仲良くしたかったけど、もう僕はここまでみたい」
先述した通りエルピスがこの家で会える人物の中で最も恐れているのはヘリアだ。
基本的にはフィトゥス達と同じようにエルピスに優しい彼女だが、してはならない事をしてしまった時のエルピスに対する怒り方は人一倍のものがある。
エルピスも嫌われているからそうされているとは思ってもいないし、むしろその逆である事は分かっているのだがなにせ怒り方が怖いのだ。
助けてとばかりに隣にいるエラに倒れかかると、耳まで赤くしながらエラが声を上げる。
「ちょエルピス様急にそんな! ヘリア姉様にこんなところ見られたら私死んじゃいますって!」
「これはお尻叩き五十回ってところですかねー、代わりに殺しちゃった虫取りに行きます?」
「見た目も覚えてないし虫嫌いだからできない!」
今日一番の心を込めてエルピスはそんなことが出来るわけないと叫ぶ。
それにヘリアの事だ、きっと同じ種族の同じような虫を連れてきたところで一目でその違和感に気づく事だろう。
「ならお風呂当番フィトゥスじゃなくてヘリア先輩にしたらどうでしょう?」
「それは恥ずかしいから絶対にやらない!」
「そうですか、ところでエルピス様、そろそろ振り向かーー」
「ーー無いからね絶対に! 死んでも嫌だから!」
エルピスは未だにエラにもたれかかっているため扉の方に背を向けている。
だから扉のところに誰が来たところで気づくはずもないのだ、そう自分に言い聞かせてはみるものの、エルピスの背中をチリチリとした気配が突き刺すような感覚と共に何かを感じ取る。
それはきっと知らない方がいい何か、だが一度感じ取ってしまったものを今更なかった事にはできない。
「ーー私は何も太郎君を殺してしまった事に文句があるわけではありません! それを隠していたという事を怒っているのです」
「すいません……いま知ったので言いにいこうとは思ってたんですが」
「エルピス様、言い訳ですよねそれは?」
(母さん相手ならこれで通じたのにぃ!)
普段から厳しいヘリアが自分の母親ほど甘いわけがないのだが、それでも一縷の望みにかけたくなってしまうのがエルピスの性分である。
助けを求めるために目線を送れば、苦虫を噛み潰したどころではない何ともいやそうな顔をしながら、しぶしぶといった風にフィトゥスが口を開く。
「ちょ、そんな助け求めるような目で見られても困りますよ……ま、まぁでも事故は事故ですしヘリア先輩もそんなに怒らずに……ね?」
「人の会話に割って入って来るように、貴方に教えたことがあったかしら?」
「あ、すいませんこれ無理です」
「あきらめるのが早いよ!」
フィトゥスがだめならばと同じくらいエルピスが信頼を持っている相手のほうを見てみれば、目が合う寸前で首が折れたのではないかと思えるほどの勢いで目線をずらされた。
自分が今のエルピスの目で見つめられてしまえば確実に助けに入ってしまうという判断からの彼女の行動だが、助けてもらえると思っていたエルピスはそんな彼女の行動に絶望感をあらわにする。
するとさすがにかわいそうに感じたのかリリィがおずおずと入っていこうとして、エラに服の裾を軽く握られたことでその動きが止まった。
エラはヘリアの指示には誰よりも従順なので、リリィを引き留めることが最善だと判断したのだろうがエルピスからしたらたまったものではない。
「……そう言えばフィトゥス、貴方って少し前からまた上位の悪魔になったわよね」
「なんでそれ知ってーー」
「ーーなったわよね?」
「はいなりました」
いつもならかっこいいフィトゥスもヘリアには頭が上がらないようで、そうなってしまった原因であるエルピスは申し訳ないと思いながらも顔を伏せる。
ヘリアが口に出した通り、フィトゥスは常日頃からエルピスの魔力を大量に摂取している影響もあって、悪魔としてかなり上位の種族になった。
どうやらこの進化は悪魔に限った話でないらしく、許容量が少ない分悪魔に比べて極端に確率が下がるが、花や蟲に魔力を分け与えても十回に一度程度は進化するのが確認されている。
逆に言ってしまえば成長速度に体が耐え切れず爆発四散することもあるが、本来であるならば長い時間と修練と膨大な魔力が必要である進化を無理やり行うのだから多少のリスクは致し方がないといえるだろう。
「虚空、行ってみる? 運が良ければまだ太郎ちゃん生きてるかもしれないし」
「か、勘弁してくださいよ! あそこ自我保つだけで背一杯で俺なんかが一度行ったら帰ってこれないんですから!」
そんなことを考えていると意外な情報がエルピスの耳に飛び込んできた。
ヘリアとフィトゥスの会話について聞くために、エルピスは音をたてないようにゆっくりと動きリリィのそばに立つ。
「虚空って存在したの? 原子レベルで敵を崩壊させてるだけだと思ってたんだけど」
「空間魔法〈虚空〉はその性質上並行世界とこの世界の間に物質を強制的に転移させるものなので、水食料自我が不要な生命体であれば一応生存は可能ですよ」
「しかも虚空には伝説が確かなら、悪魔の始祖や凶悪な魔物も沢山住んでいるとか。一部地域は魔族領に繋がっているところもあるらしいですよ」
リリィの言葉に対してエラが補足説明を入れているのを聞きながら、エルピスは未知の場所に冒険心をくすぐられていた。
いまだにイロアスやクリムには勝てないが、エルピスもそれなりに力をつけている実感がある。
一度自分の今の限界がどこなのかを知りたいと思ってしまうのは、男だからかそれとも
ちょうどいい理由もあることだしと、エルピスはおずおずとしながらもヘリアに話しかける。
「なら今からそこに行ってくるから太郎君見つけてくるからそれで許してもらえないですかね……」
「ダメです、あそこは人の身では立ち入れません。長い寿命と魔力を持つ生物ですらあらゆる感覚を奪われるストレスと急速に進む老化で死にますよ?」
膨大な魔力と神の称号を持つエルピスは慢心から自身が虚空に行くことを提案したが、ヘリアによってその提案は一瞬で却下される。
もしヘリアがエルピスの能力をすべて知っていたとしても、それでもおそらく許可しなかったことだろう。
なにせ虚空はすべてがない場所であるが、同時にすべてが生まれる可能性のある場所なのだ。
不確定要素が最も多いと言い換えてもいいその場所に冗談でもヘリアがエルピスを送るわけがない。
「知ってたけどそんなところを勧められた俺って一体……」
「リリィ姉様、エルピス様の寿命ってどれくらいなのですか?」
「半人半龍だから……500から600ってところね。貴方も大体それくらいじゃなかったかしら」
「はい! 命が終わるその時まで、なんとか仕える事ができますね」
「そうだけど死ぬ話なんてするものじゃないわよ? まだまだエラには時間があるんだから、ゆっくりと自分の気持ちに向き合いなさい」
「……? はい分かりました?」
この世界に存在する多くの両親が同一種族ではない所謂ハーフと呼ばれる者たちは、一部の例外を除き両親の寿命にかかわらずその寿命が五百年から六百年ほどであることが多い。
もちろん魔力の多いものはその魔力を用いて自身の細胞の寿命を強制的に引き延ばし延命することは可能だが、そうでないのならばどれだけ力ある種族の子であってもそのルールは変わらないのだ。
なぜそのような仕様になっているのかはこの世界を作り上げた神にしかわからない事ではあるが、何らかの意図があってこの寿命は決められているというのがこの世界おける通説である。
ちなみに一部の例外というのは
一旦話も止まりどうしようかとお互いに顔を見合わせていると、ふとリリィがハッとした表情を浮かべる。
「こちら側から向こうに行くのがダメならば向こうをこちら側に寄せればいいのでは無いでしょうか」
確かにそれならば問題がない。
やり方をどうするかは別として、今日出てきた話の中では最も現実的な方法だったのでそれしかないとエルピスは足早に今朝蟲に出会った場所へと向かっていく。
「それで勢いだけで中庭に来たわけだけど…どうするの?」
「いくら虫とは言え五感がなければ体を動かすことは出来ないので、漂っていたとしてもここら辺にいるはずです。なので後は空間指定で無理やり向こうから引っ張ってくればいけるかと」
「送るだけでも尋常じゃ無い魔力消費なのに、こちら側に持ってくるとか下手したらエルピス様の身体が危ないんじゃ?」
「きっとエルピス様なら大丈夫よ。それにもしもの時は私がお手伝いしますから」
自身を虚空に送るだけであればそれほど魔力消費は多くないが、どこにいるか分からない虫を探すとなるとかなりの範囲をこちら側に引っ張ってくる必要がある。
最近少しずつ使用できる魔力量が増えている実感はあるが、それでも何度もできるほどの魔力量は聞いている限りなさそうである。
「魔法の発動は送るイメージから戻すイメージで。液体が出てくるので範囲指定して空中に留めたほうがいいですよ」
「任せて、失敗はしないよ」
国家級魔法にも匹敵するほどの消費魔力をものともせず、エルピスは魔法を発動させる。
すると空中に少しずつ縦に線が入っていく、それは明らかに自然の現象ではなく向こう側との景色のずれには、口にしがたい違和感を感じるのも仕方がないだろう。
線は二メートル程度の長さで止まると、大きく横に開き虚空とこの世界を繋ぐ扉となった。
少し間をおいて水色に近い紫色の液体が少しずつたれ始めると、中で何かが決壊したのかいきなり大量の液体が外へと向かってあふれ出してくる。
しかしその液体が地面に着くことはなく、エルピスが作り出した半透明の障壁によって作り出された器に全て収まっていく。
「うっわ何この色、しかも臭いキッツイ」
「この世界において最も危険とされる天然の毒ですね、触れるだけで知性が蝕まれ、飲んだら思考が完全に死にますよ」
「虚空で生きていくのが難しい理由の一つでもありますね……不純物も多いですし。あそこに見えるのが太郎君なのでは?」
生物の骨のようなものや何かよくわからないごみのような物、折れた杖や土などとにかくいろいろなものの中に言われてみれば虫のようなものの姿も見える。
「あ! 本当だナイスエラ! でもこれどうやって外に出したらいいんだろ」
「水自体を転移指定し外に出した後もう一度虚空に戻すしか無いでしょうね」
「それミスったら不味く無い?」
「この毒はこの世界の要素と触れれば触れるほど毒性が強くなるのでそうですね……せいぜい家が溶けるくらいです。メチル先輩とかもうとっくの前に屋敷から逃げ出してますし、他の人達も安全は確保してますよ」
エルピスが焦るのには訳がある。
今日はエルピス以外にはメイドや執事などしかおらず、イロアスとクリムがいないからだ。
あの二人が居れば何かあっても何とかしてくれるだろうが、もし今日大きな失敗をしてしまうと取り返しのつかない事にもなりかねない。
「そ、それじゃあやるよ」
だからといって目の前に目的の物があるのにここで引き下がるわけにもいかず、極限まで集中力を高めながら少しずつ作業を進めていく。
ただの水を取り除くだけならば簡単だが、不純物が多いうえに水自体に変な魔力が付与されているせいで条件指定がかなり難しい。
五分ほどだろうか、ただの転移魔法をエルピスが行使するにしては随分と時間がかかっているが、それだけ今行っている作業が難しいということでもある。
「やった! 出来たよ、ごめんねヘリア」
「構いませんよ、ありがとうございますエルピス様」
「えっと……なんで手を出してるのかな?」
なんとか作業を終えて脱力感から膝を着くと、ひざを曲げて視線を同じくらいの高さにしながらヘリアが今日一番の笑顔を見せて手を差し出す。
何をさせたいかはなんとなく理解できるが、間違っていては申し訳ないという気持ちからエルピスが確認をとると今日一番の笑みをヘリアが見せる。
「手渡ししてくれるのでは無いのですか?」
「本気で言ってる?」
冷や汗を流しているエルピスの視線の先にいるのは、かさかさと体を動かしながら時折奇声を発している虫の姿だ。
おおよそかわいらしいと思える要素は皆無で、気に入る人はもちろんいるのだろうが体の中から湧き上がる嫌悪感があるのは否定できない。
「ええ、もちろん」
「薄々思ってたけど先輩少しでも虫に慣れさせようとしてるな……」
「一緒に虫取り行きたいってこの前ぼやいていたし、丁度都合がいいと思ったんじゃ無いかしら」
フィトゥスとリリィが見守っている間にもエルピスの手は虫のほうへと伸びていく。
エルピスが手を伸ばしていることに気づいたのか体全体で威嚇してくるその姿に、無意識に発動しかけた魔法を寸前で抑え何とか障壁に触れる。
あとは魔法を解除すればいいだけ、手の感覚をないものと思いエルピスが魔法を解除しようとした瞬間に、その魔力に反応して虫がその体を薄く光らせながらぎちぎちとどこからか不気味な音を立て、それを見たエルピスは一目散に逃げだしていく。
「やっぱり虫だけは勘弁してぇ!」
「あ、逃げた」
「こんなにもかっこいいのに……何がだめなんでしょうね?」
おおげじのような見た目の虫を抱きながらそんなことを言うヘリアに対して、フィトゥスやリリィが苦笑いを浮かべる。
興味ありげに虫をつつくエラの姿を見つめながら、エルピスは虫に対して少しだけ慣れてみようと心に決めるのだった。
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