メリコとサシガシ

すやすや太郎

本編

 「祈りってなんだろう?」

 メリコがボソッと呟いたのをサシガシは認識していたが、いつものことだと思い特に返答はしなかった。

 こういった場合、メリコが疑問を投げかける相手はどこかの誰かではなく、彼自身なのだとサシガシは知っていた。

 「昔はよく使われていた言葉らしい。自分じゃない何かに願う行為って、正直意味が分からないよ。自分で何とかするべきだ。祈ってる暇があるならさ」

 メリコは今どき珍しく本を読む。データを視覚を通して会得することに何の意味があるのかサシガシにはさっぱりわからなかったが、彼が読んだ本について話を聞くのは、嫌いではなかった。

 「やっぱり昔の人が何を考えてたかなんて、わからないね」

 オレはお前の考えてることもよくわからないけどな。という言葉を飲み込んで、サシガシは立ち上がった。そろそろ時間だ。

 「ちょっと待ってよ」

 メリコが鏡を覗き込んでいる。その時彼が悲哀を秘めた表情をしていたことに、サシガシは気づけなかった。

 メリコが何か納得したように頷いて、サシガシに言った。

 「さあ、はやく仕事に行こう! 日が落ちる前に!」



 日が落ちてきて世界は橙色に変わる。どこまでも規則的に並ぶ家々が、均しく同じデザインの支給された服を着る人々が、傷一つない整えられた道が、目に映るものすべてが真っ白なこの世界に色がつく瞬間だ。

 メリコの家から真っ直ぐ三十分ほど歩いて建物の列を抜けると、景色が急に変わる。ぽっかり空いた穴のように、何もない正方形の空間。それが広場だ。

 広場では人々が仕事をしている。

 仕事は義務ではないが、やらないと落ち着かない。そういった人がほとんどだ。

 この広場は市の中では四番目に小さく、いつも閑散としている。サシガシたちは敢えて、メリコの家からは少し遠いこの広場にずっと通い詰めていた。

 広場の中ではすでに二人の男女が仕事をしていた。

 棒切れのような男が、どこを見るわけでもなく中腰になってゆっくりと回転している。三回転したら逆向きに同じことを繰り返す。

 ずっと真上を向いたままの女が、両手を機械的に上下させ二回ジャンプしたのち、自身を抱きしめるように座り込む。三十秒経ったらまた立ち上がってジャンプする。

 いつもと変わらない光景をサシガシはぼうっと眺めていた。

 「早くしないと場所取られちゃうよ!」

 メリコはいつもこういうときだけ忙しない。こんなにも人がいない広場で場所を取られるようなことなど起こるはずもないのに。

 二人のお気に入りの場所は広場の入り口から向かって右隅に位置する。太陽が沈む位置に近い。

 メリコはいつものように二回拍手して、お辞儀をするように顔を膝の辺りにくっつける。そのまま五歩前に歩き上体を起こす。そして身体を後ろにのけぞらせたまま五歩後ろに歩く。それをずっと繰り返す。

 少しサイズが大きめなだけで、他の人たちと変わらないはずの支給された真っ白な服も、胸のあたりまで伸びカールがかった透き通るような白に近い髪も、夕陽に照らされて輝いている。シャツの襟から見える恐ろしいほどに白い肌も同じように。

 サシガシにじっと見られていることに気づいたメリコが動きを止めて言う。

 「なんでずっと見てるの」

 じっとメリコがサシガシの顔を見つめる。

 薄白色の虹彩に吸い込まれそうになる。

 「今後ろに六歩歩いてたぞ」

 「えっ! うそ? もう五十年は同じことやってるのに?!」

 それは明らかな嘘だったが、サシガシはとっさにそう口走ってしまった。何か誤魔化さなければならないという焦りがあった。

 しかし本当になぜメリコから目が離せなかったのか、サシガシには理由がわからなかった。

 少ししてサシガシは笑った。

 つられてメリコも笑った。

 一時間ほど経って、つつがなく仕事も終わり、それぞれの帰路に立つ。分かれ道でメリコは何か喉元まで出てきた言葉を押し殺すように、いつもように笑顔で「サシガシ、さよなら」と言った。

 サシガシはあえてそのまま「メリコ、さよなら」と返した。

 日は完全に落ちて、すべての建物がうっすらと白く発光している。

 帰り道にサシガシは今日や昨日あった出来事をぼんやりと考えていた。

 さっきメリコは何か言いたがっていた。いや、それは今日一日中そうだったかも知れない。昨日のことと関係あるのだろうか。メリコが泣いているのを見たのは昨日が初めてだ。二百年以上も付き合いがあるのに、あんなに取り乱している姿は見たことがなかった。彼は読書会の奴らと揉めたと言っていたが。それが本当かどうかも怪しい。だがそれに触れてほしくないということだけはわかった。だからあえて話題に出さなかったが。まぁ、明日聞けば良いさ。



 翌日の昼頃、いつものようにサシガシはメリコの家へと向かった。人々に支給されている家は、どれも同じ五メートル四方の真っ白い立方体だ。道路に接している側の壁に手を触れると丸い点、ベルが浮かび上がる。それを押せば家の中に音が鳴り、来客を知らせることになる。

 サシガシは毎回、それを律儀に押していた。メリコの家に自らの生体認証を登録していたものの、勝手に入るのはどうにも気が進まなかった。

 少し待ったが反応がない。

 しばらく間をおいてもう一度押す。

 やはり反応はない。

 留守だろうか。しかしサシガシはメリコからは何も聞いた覚えがなかった。

 こんなことは今まで一度も起こったことはない。

 ずっと待っていても仕様がないと思い、サシガシは家の中に入ることにした。

 生体認証を登録している人間は、そのまま壁の中に入ることができる。文字通り壁に吸い込まれるように。

 普段と変わらず整頓された室内だ。手入れされた大量の有機プラント、ピカピカの鏡、埃一つないベッド、机と椅子。

 サシガシは部屋の床に座ってメリコを待った。時間だけが過ぎていく。やがて仕事の時間になってしまったため、サシガシはもしかしたら広場にメリコがいるかもしれないと思い、一人で広場に向かった。

 そこにはいつも見かける男女一組だけがいて、メリコはいなかった。

 サシガシはおかしなこともあるものだと思い、仕事をしてから家に帰った。

 翌日、メリコの家に向かったサシガシだったが、またしてもメリコは留守だった。さすがのサシガシも何か妙だと思い始めた。

 メリコは正直言って変わり者だ。何か急に思い立って、どこかで何かしているのだろうか。もしかしたらかの読書会かもしれない。もしそうなら、仲直りできるとよいな。

 サシガシはメリコについていろいろと考えていた。やがて少し落ち着かない気分になり外へ出た。あたりを歩き回り、たまにすれ違う人の顔を覗き込む。しかしどこにもメリコはいない。時間になったのでまた広場に向かうも、やはりメリコはいなかった。

 夜の帰り道、サシガシは胸中にある説明できない感情について考えていた。どうも落ち着かず、メリコのことを考えてしまう。彼に会ってから色んな感情を覚えたが、その中でもこれはどうも居心地が悪い。しかしやはり答えは出ず、ただ次の日を待つことにした。



 メリコがいなくなってから今日で三日目だ。サシガシは正常さを取り戻したくて仕方なかった。どうも気分が悪く、思考も鈍る。この異常状態を体内のFマシンが無視していることが信じがたかった。メリコの家の前に立ち、壁に触れてベルに触れる。

 やはり返答はなかった。

 サシガシはため息をついてそのまま家に入る。

 何かが妙だった。何かこの部屋の中にある空気が、今までのものとは違っているような気がした。

 ゆっくりと一歩一歩進んでいく。すると足の裏に違和感を感じた。

 床が少し濡れている。

 手で触れてみる。少しぬるい水のようだ。

 水の跡を辿ると、部屋の端にある机の辺りから流れてきたようだった。

 椅子はさっきまで誰かが座っていたかのようで、そこを中心に水が広がっている。

 卓上にも同じように濡れた痕跡があったが、そこが少し妙で、誰かが拭き取ったかのように水の跡が途切れていた。

 つい先ほどからある考えがサシガシの頭の中に浮かんでいた。全身の血の気が引き、まるで悪夢の中を生きているかのように思わせた。

 頭の中に決して浮かんではいけないことが浮かぶ。端に追いやっても、その考えが頭の中で暴れ回る。

 深呼吸をして落ち着かせる。サシガシは首元に埋め込まれた端末を起動した。

 端末を介して、イムシステムと繋がることができる。

 『ようこそサシガシ ご用件は何でしょうか?』

 「メリコ・ミリの現在位置を教えてくれ」

 『個人情報になりますので、お教えすることはできません』

 「くそっ! じゃあどうすれば………」

 サシガシは頭の中に浮かんだ最悪な結果を否定したかった。だからこうするしかなかった。

 「ここ一週間の死亡者について教えてくれ」

 『該当は2件です。詳細を……』

 「そのなかにメリコ・ミリはいるか?!」

 『メリコ・ミリ、業印喪失により3505年10月15日0時に死亡』

 目の前が真っ暗になった。しかし濡れた足元の冷たさが、これは現実だと主張している。

 じゃあこの水は………



 「人間は死んだらどうなるんだろう?」

 メリコがサシガシに問いかけた。

 サシガシは、メリコがこの答えをすでに知っていることを察していた。なのであえて乗ってみることにした。

 「普通人間が死ぬわけないだろ。もう不老不死が当たり前になって五百年以上も経つんだぞ」

 メリコがニッと微笑む。笑った時に唇から犬歯がのぞき出る。

 「この世界で死ぬ方法は二つ、システムに申請して自死を選ぶか、それかもう一つ……」

 「業印喪失だろ」

 「なんで先に言っちゃうんだよ!」

 「いいじゃないか。それぐらいオレでも知ってるよ」

 「まぁいいや。とにかく人間は死ぬことはできる。でも死んだらどうなるかは知らないんじゃない?」

 「考える必要もないだろ。そうはならないから」

 「まあね。でも気にならない?」

 「ならない」

 「気になるって言え!」

 「わかったよ。気になる」

 「では教えましょう。我々の体内に埋め込まれている極小で大量のFマシンが体内のすべての細胞を維持し続けるため、我々を不老不死たらしめているわけだが、肉体に死という状態が訪れると、Fマシンたちはとんでもない行動に出る。な、なんと肉体を食べてしまうのだ!」

 「なんでだよ」

 「衛生的な観点からそういう設計になってるらしいよ」

 「じゃあ答えは『食べられる』か?」

 「残念! 違います。人間の身体は60%が水分で構成されてるんだ。Fマシンが食べるのはそれ以外の部分、つまり……」

 「水になる」

 「だから先に言うなって!」

 「メリコがやたら溜めて言うからだろ」


 

 事実を知ってから、サシガシはやけに冷静になった。今すぐにすべきことが一つある。この部屋はもうすぐシステムによって処理されてしまうだろう。その前にそれだけは、やらなければならない。

 いくつも並ぶ有機プラントの右から四つめの鉢を持ち上げると、薄く透明な外部端末が底に見える。

 メリコがいつも読書に使っていた端末だ。

 サシガシはそれを回収してすぐに立ち去った。


 サシガシはふらふらと家に帰った。目に映る白い家々がとても冷たく無機質に見えた。まるで別の世界に紛れ込んでしまったようだった。

 ベッドで横になり考える。


 なぜメリコは死んでしまったのか。

 そもそもなぜ人は死ぬのだろうか。



 サシガシが生まれたころ、もう不老不死は当たり前のことだった。イムシステムによって管理された、安定した世界。戦争や疫病などは遠い過去の話だった。子供の時の記憶を思い出そうとするが、どれも朧気だ。確かなことは十五歳で不老の手続きをしたこと。同い年のメリコもおそらくその時に。

 自らの五百年近い人生を考えれば、メリコと出会ったのはほんの最近だということになる。本当に一瞬だった。ずっと続くと思っていた。

 サシガシはメリコを思った。

 涙が出てくる。これはいったい何なんだろうか。


 サシガシは自宅の鏡の前に立つ。

 鏡の機能は自らの像を映し出すだけではない。鏡面の右上を見ると真っ黒な丸い印が小さく三つ表示されている。 

 それがいわゆる業印というもので、全て消えた時、その人に死が訪れる。体内のFマシンが細胞の維持を放棄し、宿主の身体は緩やかに崩壊していくのだ。

 サシガシが生まれたころには、すでに何をしたら業印が減っていくのか、その明確なルールについて知っている人はほとんどいなくなっていた。当初はおそらく、皆それについて熟知し、忌避していたはず。しかし時が流れるにつれ、それは日常になっていった。そもそもそれをわざわざ犯してしまうような人たちは、最初に死んでいったはずだ。

 現在、何をしたら業印が減るのか、何が禁忌とされていたのか、そのルールについて知っている人間はいない。



 突如サシガシの心に火がついた。彼にとっての生きる目標ができた。

 メリコが死んだ理由を知りたい。しかしそれは業印のルールを知ることと同じ意味になる。

 今は誰もが禁忌について考えることは無いが、もしそれを知ってしまったら?

 日常にヒビが入る。常にそれをしてはいけないという死の恐怖と向き合いながら生きなければならない。

 サシガシはゾッとした。今の今まで生き死にのことなど考えたことがなかった。足の裏に染みた水の感覚が蘇る。あれがメリコだった。人は本当に死んでしまうんだ。

 でもオレは知らなければならない。

 サシガシは揺れかけた心の奥に、その畏れを無理矢理閉じ込めた。今はそんなことで悩んでいる場合では無い。

 手がかりはある。メリコが遺した端末と、彼と過ごした思い出だ。サシガシはメリコのことを誰よりも知っていると自負していた。しかし自分の知らない彼の側面があるとしたら? 

 その答えを知るために、向かわなければいけない場所がある。

 メリコは現代において珍しい社交的な人間だった。対人コミュニケーションは生きる上で必要なことではない。それは自明の理で、わざわざ煩わしいことに手を出す人間はほとんどいない。

 オレ自身もあの時メリコに話しかけられなければ、きっと大勢の人間たちと同じように生きていただろう。

 サシガシは、五十年前の会話を思い出す。



 「サシガシはさぁ、私以外と喋りたいなーって思わないの?」

 メリコは机に突っ伏して、表示した裏窓から外を眺めながら言った。

 「思わないね。そこに意味があるとは思えない」

 「じゃあ私とおしゃべりするのは何か意味があるんだ?」

 メリコがゆっくり上体を起こし、サシガシの目をじっとみて言った。吸い込まれそうになる瞳からサシガシは目を逸らして呟く。

 「そりゃ、だって、友達だし……」

 「あれ? 照れてる?」

 ニヤニヤとメリコが尋ねた。

 「照れてねえよ! メリコがおかしいんだ。そんなにいろんな人と喋ろうなんて」

 「いろんな人と喋るのは楽しいよ。これがあるから本当に生きてるんだって思える。同じ考えを持った人たちもいるしね」

 「よくわからないね」

 「本当は知ってるくせに! まあ無理強いはしないけどさ。気が向いたら顔出してみてよ。場所は……」



 無論その家の位置データを覚えているわけなどなく、サシガシはメリコの端末の中を漁っていた。彼にはメモ癖があった。もしかしたらこの端末の中に手掛かりがあるかもしれない。

 しかしここで問題になるのは、それを読むことが出来るかどうかだ。

 この社会で文字は基本的に使用されない。数字は例外として、記号やピクトグラムで事足りてしまう。文字の読み書きができるのは読書好きの変わり者ぐらいだろう。

 あの時は無駄なことだと思っていたが、こんな時に役立つなんてな。

 サシガシはメリコに文字の読み方を教わっていた。もちろんサシガシには覚える気などなかったが、覚えてしまった。それほどメリコはしつこくサシガシに教え続けたのだ。それはもちろん本を読ませるための準備であったが、サシガシは結局一冊も読むことは無かった。一冊ぐらい読んでやってもよかったなと、サシガシはふと思った。

 文字を読むのは久しぶりで、出来るかどうか不安だったが、何とか読める。

 二時間ほど経って集中も途切れかけていた時、ついにそれらしきものを見つけた。

 『読書会 080-1666』

 首の端末を起動しシステムを通じて地図を開く。

 口頭で座標を読み上げると、自らの視界に目的地までのルートと地図が表示される。

 現在地からはかなりの距離があるため、サシガシは箱を利用することにした。

 箱は三メートル四方の真っ白な立方体で、他の家々より一回り小さい。一区画につき一つは配置されており、誰でも利用することができる。

 箱は家と違い生体認証は不要で、四方から中に入ることができる。中も真っ白で、どこでも良いので壁面を触るとテンキーが表示される。目的地を入力すると、確認されるので、〇を押す。

 箱内部が薄い青色に変わる。それが箱が起動された合図だ。そのまま箱は宙へ浮かび、音速を超えて移動する。しかしそれを実感したことは今まで一度もない。揺れや振動どころか、動いているということすら認識できない。

 一呼吸する間もなく、目的地に到着する。

 箱の中の色が青から白に戻る。

 サシガシは外に出た。景色は他と変わらない。ただ少し風が強かった。

 別に他の誰かと喋りたいだなんて思わなかったが、まさか今さらここに来るなんてな。



 その家は何の変哲もない家だった。ただの白い箱にすぎない。

 サシガシは壁に触れてベルを押す。するとすぐに返答があった。

 「合言葉は?」

 何ということだろう。合言葉があるなんて聞いた記憶がない。サシガシは頭が真っ白になってしまった。だが、何か言わなければ全て無駄になってしまう。

 決めた。正直に言おう。

 「オ、オレの名前はサシガシ・ザシサ。メリコ・ミリの友達だ。彼が死んでしまったのは知っているか? オレはその原因を探している! きっとそれは」

 壁の向こうから手がぬっと伸びてきて、サシガシは中に勢いよく引きずり込まれた。


 この世にある全ての家は同じ作りになっている。おそらく間違えて誰かの家に入ってしまっても、それが自分の家かどうか区別がつかないだろう。自分の意思で内装を変えようと思う人も少ない。メリコは例外だったと言えど、有機プラントを何個か設置する程度だった。

 だがこの家は違っていた。備え付けの机や椅子などは取っ払われていて、背の低く大きな見たこともない素材の机が部屋の真ん中に配置されている。それを囲むように、いくつもの座椅子があり、少し風変わりな三人が座っている。

 「サシガシ君。君の話はメリィからよく聞いていたよ」

 かなり短く髪を整え髭を蓄えた、がっしりした体格の男が最奥に座っている。少し老いて見えるのは、不老処置したのがかなり後だったのだろうか。もしかしたらかなりの高齢かもしれない。

 「え、あ……? メリィってメリコのことか?」

 「ん? あぁ、そうだよ。まあサシガシ君、立ってないで君も座りなさい」

 サシガシは素直に従ったが、どこか居心地の悪い感情になっていた。なんだろう。何か負けたような気がする。

 「あんたがサシガシか! ようやく会えたな。俺はズゥっていうんだ。よろしくな!」

 それは先ほどサシガシを家の中に引きずり込んだ女だった。座っていてもはっきりとわかるほどの巨躯をもった彼女が身を乗り出してサシガシに手を伸ばした。その意味をあまり理解していなかったサシガシだったが、恐る恐る手を伸ばすと勢いよく掴まれて、上下に振り回された。

 意味がわからず混乱したが、不思議と悪い気はしなかった。

 最奥の男が再び喋りだす。

 「申し遅れた。私はモクモ。そしてそこの小さいのがイメスだ。彼は極度の人見知りでね、君を嫌っているわけではないことをあらかじめ伝えておくよ」

 モクモと名乗る男が指した人物はあまりにも小さく、まるで幼い子供のようだった。

 そしてサシガシはそれがありえないことを知っていた。

 イメスは長い前髪に顔が隠れて目こそ合わなかったものの、サシガシの方を向いて少しお辞儀した。

 「君は今こう思っているだろう。なぜこの世界に子供がいるのかと」

 モスモの問いにサシガシは少し冷や汗をかきながら答える。

 「まあ、何故かとは思う。でもその理由を聞きたくはないね。余計なことに巻き込まれたくない。それにオレはメリコについて聞きに来たんだ」

 「現代の人間に生殖能力はない。なぜかというと死なないからだ。死があるからこそ人は子供を作り、種を保存していた。それが自然だった」

 「おいおい、やめてくれ聞きたくない」

 一瞬サシガシは立ち去ろうと思い立ち上がった。

 「この話を最後まで聞いたらメリコについて知っていることを教えよう」

 モクモは嘘くさい笑顔でそう言った。

 サシガシにはどうすることもできない。

 面倒ごとに巻き込まれたくないのは本心だったが、メリコの死について追求する上で、それはいつか向き合わなければならない問題だ。なら今巻き込まれても変わりはないかもしれない。サシガシはそう自分に納得させた。

 「わかったよ。最後まで聞こう」

 「よし、その意気だ。どこまで話したっけな。そう、今の世界に子供はいない。君やメリコのような最後の子供達と呼ばれた世代は十五歳の時点で不老になった。イメスは何歳ぐらいに見える?」

 「十歳にも満たない、ようにみえる」

 「ほとんど正解だ。少し長くなるが落ち着いて聞いてくれ。

 我々は散歩が趣味でね。あてもなく遠くの方まで歩いていく。それはもう気が遠くなるほど遠くまで。数こそ少ないが世界中に同好の士がいてね、彼らの間でこんな噂が出回り始めた。『地図にない家がある』と。

 我々はそれを見つけた男の友人とコンタクトを取ることができた。これから話すのは彼から聞いた話だ。

 その男には妙な趣味があった。彼はイムシステムの穴を探していた。すべてを管理しきれるはずがないと思っていた。そこで彼が着目したのは地図の正確性だ。

 だから彼は毎日、地図を開きながら現実にその家があるのか照らし合わせていった。そんなある日、彼はある違和感に気づく。

 地図中と現実の家の個数が合わない箇所がある。彼は焦った。まさか本当に地図に、システムにミスがあるだなんて想像もしていなかったからだ。位置コードを表示させ、一件ずつ確認していく。

 5018、5019、5020……

 5020と5021の間に、位置コードの存在しない家がある。

 もう一度確認する。

 間違いない。

 存在しないはずの家がある。

 彼はどうして良いのかわからなくなった。そしてその家の情報だけを残してから姿を消し、二度と帰ってくることはなかった」

 まるで絵空事のような話で、かつここからどのような方向に話が進むのかサシガシには見当もつかなかった。早くメリコの話を聞きたいという苛立ちもあったが、少しだけモクモの話に惹き込まれていたのも事実だった。

 「我々はその情報を頼りに、存在しない家へと向かった。

 それはなんの変哲もない家だった。他の家々と変わりない真っ白い退屈な立方体だ。ただ位置コードを表示させることはできない。間違いなく本物だった。壁を調べたところ、従来家に使われているシステムとは全く別のものが使われていることが分かった。うちにはズゥがいたので難なく突破し中へ入ることができた」

 ズゥがすごく自慢げな表情でサシガシを見た。

 「まてまてまて。どういうことだ? なぜ、その、あー、ズゥ……さん、はそんなことができたんだ?」

 「さんなんてつけなくて、ズゥでいいぜ! まあ、なんだ。俺は旧世界で技術者をしてたんだ」

 サシガシは信じられなかった。不老不死が始まる前どころか、Fマシンが開発される前、イムシステムがこの世に生まれる前から、彼女は生きているというのだ。

 「てことはもしかして、その家は旧世界の時代からそこにあった……とか? いやありえない。ズゥやあんたらの知らない、生き残った技術者がシステムの目をかいくぐって作った?」

 「サシガシくん。メリィから聞いていた通り、察しが良いな。だが、恐るべきことに前者だよ。それがどうやってその場所に作られたのか、あり続けることが出来たのか、誰にも分らない。知るすべもない。

 さあ、話を続けよう。

 その家の中には巨大な部屋が一つしかなく、旧世界のありとあらゆる機械がひしめき合っていた。配線が部屋中に張り巡らされていて足の踏み場もない。部屋の中心には巨大な直方体の箱が配置されていた。その箱の中にイメスがいたんだ」

 「その箱は一体なんだったんだ?」

 「それは人体を長期間保存するための装置だった。つまりイメスは旧世界の子供で、千年以上誰にも気づかれず氷漬けになって眠っていたんだ」

 サシガシはそれが本当にあったことなのか半信半疑だった。かつてメリコが読んでいたような創作話のように思えて、だがしかし彼の口ぶりから嘘をついているようにも思えない。モスモという人間自体には、信じられない噓くささを感じる。だがこんな嘘をわざわざつく理由が皆目見当つかない。そもそもこの話を自分にした真意がわからない。

 「興味深い話だった。ありがとう。じゃあそろそろ本題に入ろうか……」

 サシガシが話題を切り替えた瞬間、モクモがそれを遮って話し始める。

 「メリィ……メリコと会ったのは五百年ほど前、君たちが出会うよりも少し昔になる。彼はとにかく本が好きでね。読んだ本の感想をみんなでよく話し合った。そういえば最近はよく『サシガシが全然本を読んでくれないんだ』と嘆いていたよ。

 なぁサシガシくん。メリコに会いたいか?」

 「は?! 何を言っているんだ! メリコは死んだんだぞ! 何か知ってるんだろ?! 知ってるなら教えてくれよ!」

 サシガシは思わずモスモの近くまで迫った。もう我慢の限界だった。

 「残念ながら我々からはこれ以上何も教えることはできない。話を聞いてくれてありがとう。『読書会』はいつでも君を歓迎するよ」

 「おい待ってくれ! 何を言って……」

 急にサシガシは天井に向けて引っ張られた。

 何が起こったのか理解できなかったが、次第に自分が何者かに持ち上げられていることに気づいた。持ち上げているのはイメスだった。彼はサシガシの身体を造作もなく持ち上げて、家の外に放り投げた。

 サシガシはその場でしばらく呆然としていた。再び家に入ろうと試みたが、生体認証が必要で、通り抜けることができない。サシガシは何度も身体を壁に打ち付けた。何度か繰り返したのち、ここで何をしても無駄だと諦めて家に戻った。



 なぜモスモはわざわざあんな話を自分にしたのか、それがサシガシの一番の疑問だった。旧世界の遺物がいまだに存在すること。旧世界の技術者が生き残っていること。それらを考えると、もしかしたらモスモも同じで、なんならズゥよりも昔から生きているのかもしれない。

 それがシステムにとって容認し難い不都合であるということは明白である。

 イムシステムあってこその幸福。維持こそが人類生存の要。

 それらは幼き頃に受けてきた教育によってサシガシの脳に刷り込まれており、逆らい始めている自分の行動によって、胸の奥で黒いモヤのような恐怖が広がっていくのを感じていた。『このことが誰かにバレたら?』という猜疑心が彼を苦しめた。

 しかしあえていうならば、彼ら読書会が今の今まで生き残っている事実。それが今のサシガシの安全を保証しているのではないのかとも考えられる。メリコから聞いた話を思い出す。

 人類史上最後の戦争についてだ。

 現在のようなイムシステムによる管理が確立される前、不老不死の技術であるFマシンが開発され、世界中の人たちにそれが普及されようとしていた時、一部の研究者、技術者から反発があった。その理由は明らかにされてはいない。ただ彼らは軍を組織し、世界に戦いを挑んだ。

 結果は圧倒的な敗北、そしてその影響は世界中の研究者、技術者にも及んだ。反乱分子と認められた者は基本的に処刑、一部改心した者は脳から情報を抜き取られた後、イムシステムの一部に組み込まれた。肉体はもちろん処分された。

 つまり現在の世界に研究者も技術者も、旧世界の技術について知るもの、誰一人肉体を持って生きていないということだ。

 ズゥは千年以上もイムシステムの目を掻い潜って生きてきたのだろうか。ズゥよりも年配に見えるモスモもおそらく。

 オレを仲間に引き込もうとしている……?

 何のために?

 千年前の弔い合戦でもするつもりなのか?

 しかし特に何ができるでもないオレをなぜ……?

 疑問の答えは出なかったが、サシガシは確信していた。メリコの死と、読書会の連中には明確な関係がある。

 それに一番の謎は「メリコに会いたいか?」という言葉だ。そのままの意味で受け取るとメリコは死んでいないと言うことになる。

 サシガシは死体そのものを確認したわけではない。床一面に飛び散ったあの水が、もしただの本当の水だったとしたら?

 しかしシステム上、メリコは業印喪失で死んだことになっている。

 それすらも偽装だったとしたら……?

 何が本当で何が嘘なのか、サシガシには断定することができなかった。

 何か情報がないかとメリコの端末としばらく睨めっこしていたが、何の手掛かりも見つからなかった。

 またあの家に向かおうか……?

 いつでも歓迎するとか言っていたし、もう一度行けば何かあるかもしれない。それに何もしないでうじうじしているよりはましだ。

 サシガシは日を改めて再びあの家へ向かうことにした。



 とんだ無駄足だった。サシガシは思わず「くそっ!」と悪態をついた。

 無意識に自分の口から飛び出た言葉に自分でも驚き、少し恥ずかしい気持ちになった。

 結果を言うと、同じ位置データの家には全く関係ない別の人物が住んでいた。

 無理を言って家の中に入れてもらったが、間取りから何から何まで一般的な家と何も変わらない。サシガシはモスモが話していた『地図にない家』を思い出した。

 これで手掛かりが無くなってしまった。

 どうすれば……

 サシガシは考える。

 業印喪失の条件、それが今のオレのように何かとんでもない秘密を知ってしまったことだとしたら? もしくはその上で何か行動を起こしたことだとしたら?

 それは間違いなく読書会と関係しているだろう。逆に考えれば、業印喪失で死んだ人間は全て読書会の関係者なのではなかろうか?


 少し逡巡して、サシガシは首の端末をオンにした。

 これ以上悩んでいても埒があかない。それにイムシステムも、ただ死亡者について調べただけでオレのことをどうにかしようなんて思わないだろう。

 いや、待てよ……!

 サシガシは急いで鏡を確認した。そこには顔色が悪く、やつれた自分と、右上には業印が三つ表示されていた。

 サシガシは安堵する。どうやらまだ大丈夫らしい。だがこれから行うことを思うと身体が強張って、声が震える。

 一呼吸ついて、鏡の前で首の端末を起動してシステムに尋ねる。

 「ここ十年で……いや、百年で業印喪失で死んだ人間について教えてくれ」

 『ここ百年で業印喪失で死亡した人間に該当する人物は二人います。記録を照会しますか?』

 「あぁ、その中でメリコ・ミリではない方について教えてくれ」

 『3430年7月4日0時 ケァフ・サトニシキが588-7644地点にて業印喪失により死亡。同日12時、システムによる自動処理が行われる』

 「では、なぜそのケァフという人物は業印喪失してしまったんだ?」

 サシガシは鏡の右上を凝視する。もし会話の中で自らの業印喪失が確認できたら、それが何よりの答えになるからだ。

 『残念ながらその質問に答えることはできません。このサービスに満足していただけましたか? 不明な点があればお近くのシステム管理官にお問い合わせください』

 業印は……?

 鏡面にはいつもと変わらず、三つの印が確認できた。

 これで一つ、業印喪失の原因の候補を潰すことができた。『業印喪失について知ろうとすること』は外しても良い。

 イムシステムが提案してきたシステム管理官に尋ねるという選択肢はサシガシにとってはあり得ない話だった。

 まずシステム管理官は普通に生きていたら見かけることはない。彼らが普段どのように過ごしているのかなど知る由もないが、あの真っ黒な装いは、この真っ白な世界ではあまりにも目立つ。サシガシは彼らをいまだ一度しか見かけたことがなかった。

 そしてメリコが度々、システム管理官について不信感を吐露していたということも相まって、システム管理官を見つけだして話を聞くなんてことは、無意味どころか危険な行為であるとサシガシは認識していた。

 しかし手掛かりを得ることはできた。

 業印喪失で亡くなった人の位置データを入手したからだ。

 サシガシは早速ケァフという人物が亡くなった地点へと向かった。サシガシの住んでいる地点からはかなりの距離があったため、箱を使うことにした。


 道中、サシガシは考える。

 ケァフが死んだ家に、彼について知っている人物が住んでいる可能性は極めて低い。あり得ることとしてはその周辺に住んでいる人物。彼らならケァフと関わりのあった可能性がある。コミュニュケーションが希薄(皆無に近い)な現代だが、ケァフが読書会のメンバーだったなら、メリコと同じく彼も社交的だったはずだ。親交がなかったとしても、突然会話をけしかけてきた変な奴がいたと覚えられている可能性が高い。死亡時期を百年以内に絞ったのもこれが理由だ。三百年前のことなら忘れても仕方ないが、百年前程度なら覚えていても不思議ではない。



 はぁ、とサシガシは深くため息をついた。周辺の家々のベルを鳴らしたり、最寄り広場で仕事をしている人たちに話しかけてみたものの、ほとんどの場合は無視、会話ができたとしても「知らない」「わからない」以外の返答はなかった。

 サシガシはメリコと出会った時のことを思い出した。



 サシガシはその日、気分転換がてら今まで行ったことのない少し離れた広場で仕事をしていた。

 「ねぇ、そこの君」

 最初、サシガシはそれが自分に向けられた言葉だということに気づかなかった。目の前にいる頭からつま先まで真っ白で、やたらと華奢だが、自分よりも頭一つ分ぐらい背の高い性別不詳の人間の目が、しっかりとこちらを見ていることに気づくと、それがもしかしたら自分に向けられた言葉ではないのかと思った。

 しかしその上で無視して仕事を続けることにした。

 「ねぇねぇ、聞こえてるでしょ?」

 サシガシは面倒だと思った。今の世の中コミュニケーションに意味などない。

 「私はメリコっていうんだ。君は?」

 なんてしつこいんだろう。サシガシは一瞬「失せろ」と言いかけて、やめにした。ここで言い返してしまったらそれはまさしく会話になってしまうからだ。

 しばらくの沈黙の後、メリコと名乗る人物は「まぁいいや! 気が変わったら喋ってね!」と残してサシガシのあとを去った。

 そして驚くべきことに、そいつは広場にいた別の人物の元へ駆け寄り、自分にしたことと同じことをし始めた。結果はすべて同じ、無視だ。

 仕事をしながらサシガシはそいつの行動を度々眺めていたが、広場の全員に話しかけては無視をされていた。

 仕事を終えたサシガシは家に帰り、眠ろうと目をつぶった。真っ暗な視界の中に何か白いものが浮かんでいる。それはあの広場にいたおかしな奴の顔だった。あの瞳の奥に吸い込まれるような感覚を思い出す。頭の中からそれを消そうとするが、消しても消しても浮かび上がってくる。その日、サシガシは朝になるまで眠れなかった。

 次の日もサシガシは仕事に向かう。今度は普段行っている近場の広場だ。しかしどうも上の空で、なにか落ち着かない。

 サシガシは自分に何が起こっているのかよくわからなかった。仕事を終えて帰路に立つ。

 しかし足は自然と、昨日向かったあの広場へと向かっていた。

 日も落ちかけているし、今更向かったところでもう誰もいないだろう。

 サシガシはそう思いながらも、なぜかあの広場へ向かわずにはいられなかった。

 夜に外へ出るのは久方ぶりだった。

 ただでさえ何もない広場が、普段よりも寂しく見えた。もちろん誰もいない。

 サシガシは「わかっていたよ」と心の中でつぶやいて、すぐに帰ろうとした。

 「あれ! 君、昨日会ったよね? 何で今日は来なかったの?」

 背後から聞こえた声にサシガシは驚いた。振り返ると、昨日と同じ真っ白な変人がそこにいた。

 「ここは普段使いの広場じゃない。昨日はただの気まぐれで来ただけだ」

 「!!!! そうなんだね! 改めまして、私はメリコっていうんだ。君の名前を聞いてもいい?」

 その時のメリコの表情を忘れることはないだろう。彼の笑顔は、真っ暗で寂しい広場を照らすように、夜空に浮かぶ星のように綺麗だったから。

 「オレはサシガシ。なんでアンタは人と話すんだ?」

 「それはね。それが私にとって普通だったからだよ」

 「いや、普通ってのは誰とも喋らないことだろ」

 「それは君の中の普通だね。私の普通はそうじゃないってだけ」

 「やっぱり意味わかんねえわ。変な奴」

 「じゃあ君も変な奴の仲間入りだね。今私と喋ってるんだもん」

 二人は夜が明けるまで話し続けた。サシガシは不思議だった。こうやって誰かと喋ることは別におかしなことではないのだと気づいた。まるでそれが本来は普通だったのではないかと。



 サシガシは毎日のように手掛かりを探しに、ケァフがかつて住んでいた地域で人に話しかけ続けた。しかし特に何の情報も得ることができなかった。サシガシは少し焦っていた。もうこれ以上、自分にとって出来ることなどないからだ。

 日が落ちて夜になる、どの広場に行っても人はほとんどいない。サシガシが帰ろうと踵を返そうとしたとき、急に何かにぶつかって転倒した。顔を上げると、そこには見慣れないものがあった。夜よりも真っ黒な何かだ。

 「君ぃ、少し聞きたいことがあるんだが」

 それは全身真っ黒な服を着た人間だった。

 システム管理官だ。

 まずい。サシガシの全身に緊張が走る。大丈夫だと何度も心の中で唱えて自身を落ち着かせて答える。

 「はい、なんでしょうか?」

 「いやぁ、最近このあたりで不審な人物がいるって報告が入ってねぇ。こんな夜中に何してるんだろうって気になって話しかけたんだ」

 下手に嘘をつくのは得策ではない。そもそも嘘をつくことに慣れてはいないし、うまくいくわけがない。今できる最善のこと、それは本当のことだけを喋った上で、うまく誤魔化すことだ。そうサシガシは考えた。

 「いや迷惑をかけてすみません。多分それはオレのことですね。最近友人が亡くなったもので、寂しくていろんな人に話しかけていました」

 「あぁ、それはお気の毒にぃ。それはそうとこのご時世に死ぬなんて珍しいね。その友人は自死を選んだんだろう? 正直、自ら死を選ぶ人がどんな気持ちなのか全くわからないんだよねぇ。君もそう思うだろう?」

 黒い服がゆえに顔の白さが際立つ。鋭い刃物のような目が、サシガシに向けられている。

 「いや本当、全く理解できないですね」

 「そうだよね。でもぉ、あれぇ、おかしいなぁ。僕の記憶違いだったら申し訳ないんだけどねぇ、最後に自死があったのは五十年前なんだけど」

 「あ、あぁ、五十年前の、それです。個人的には最近だと思ったんですけど……」

 これはやってしまったかもしれない。サシガシに緊張が走る。

 「まあそういう感覚は人によるしねぇ。立ち直れない気持ちもわかるよ。でもねぇ、サシガシくん。嘘は良くないなぁ」

 「え? 名前、言いましたっけ?」

 「いやだなぁ、僕はシステム管理官だよぉ。それぐらいのことはわかるよぉ」

 サシガシはあまりに心臓が高鳴るので、このまま死んでしまうんじゃないかと思った。それがあり得ないことだとしても。

 「最初に謝っておくよ。さっきのは嘘だ。システムに記録されている最後の自死は二百年以上前だった。五十年前に自死者はいない。なぜ君は訂正しなかった? 大切な友人じゃなかったのかな?」

 「いや、その、緊張してましてね。すみません。管理官の方と喋ることなんて滅多にないんで」

 「そうだろうねぇ。時にサシガシくん、なぜみんな管理官と滅多に会わないか知っているかね?」

 「いえ、知らないです」

 「管理官は誰にも見つからずに動くのがモットーだからだ。稀に例外はあるがね。我々が姿を見せるのは確証を得た時だけだ」

 「確証、なんの……?」

 「そいつが薄汚い反逆者だって言う確証さ」

 管理官がらどこからともなく薄く透明の外部端末を取り出し、操作する。

 サシガシが覚えているのは、そこまでだった。



 何も見えない。目はしっかりと開いているはずなのに。サシガシは叫ぼうとしたが、声が出ない。しかし呼吸は口鼻とも問題なくできている。まるで声を出す方法を忘れてしまったかのようだ。やがて椅子に座っていることに気づくが、立ち上がることができない。それどころか身動き一つ取れない。何かに縛られているわけではない。身体が思うように動かない。声と同じように、今までどうやって身体を動かしていたのかがわからなくなったような感覚だ。

 「お目覚めかなぁ、サシガシくん」

 それが先ほどまで路上で話していたシステム管理官と同じ声だということにサシガシは気づいた。今どういった状況なのかさっぱりわからないが、ただ一つ、ピンチだということだけはわかる。

 「この世界のシステムは素晴らしい。そう思わないかねぇ? サシガシくん。本当に美しい。惚れ惚れするよ」

 サシガシは暗闇の中で、声の聞こえる位置が少しずつ移動していることに気づいた。おそらく自分の周りをゆっくり歩きながら喋っているのだと。

 「でもねぇ、そのシステムといえど完全ではない。それを補うのが我々システム管理官なんだぁ。我々あってのシステムだ。我々がシステムの一部なんだ!」

 声が一周してサシガシの正面で止まった。

 「僕はかつてイムシステムに対して疑いを持っていた。だからその穴を探してまわっていたのさ。そのせいで、そのせいで僕はっ……! ああぁ、なんという愚かしさだろうねぇ。でもそのおかげで、今の僕がいる。あの時の自分がしてしまったことすべては償え切れない、大罪だよぉ。でも、でもねぇ、そのおかげで気づけたんだ。なぜ管理官がいるのかという、その必要性に。寛大なイムシステムは僕にもう一度チャンスをくれた。本当に感動したよぉ。その偉大さにね。安心してくれ、君もすぐにわかるさ」

 管理官の顔が少しずつサシガシの眼前に近づいてくるのがわかる。

 「おっとぉ、声帯の行動制限を解除するのを忘れていた」

 サシガシの喉でつかえていた言葉が飛び出す。

 「こんなことをして、何が目的だ!!」

 「目的ねぇ。それは君の更生だよ。イムシステムは本当に偉大だと思わないかぁ? 君はすぐに変わることができる」

 「オレはただ……業印喪失のルールを知りたいだけだ」

 「はぁぁぁ? そんなことを知って何になる? 君の言っていることが、僕には理解できないよ」

 「そもそもオレが何をしたっていうんだ!」

 「君はケァフについて聞いて回っていただろう? それこそが君が読書会と関係のある人物だという証拠だ」

 「読書会? なんのことだよ」

 「とぼけたって無駄だよぉ。奴らは本当に狡猾だ。まるで尻尾を見せない。ケァフをあえて生かしておいたのは奴らをおびき寄せるためさぁ。まさか彼が業印喪失で死ぬとは想定外だったけどねぇ。死んでも役に立ってくれるなんて、本当になんて良いやつなんだろう」

 突然真っ暗だったサシガシの視界に情報が入ってきた。管理官の男が目の前にいるのは想像と違いなかったが、その奥に広がる景色に驚いた。そこはどこまでも真っ白な部屋で、どこまで奥行きがあるのか認識することができなかった。

 「今、君の視覚情報をオンにしたぁ。先ほど広場の前で君の意識をオフにしただろぉ? この端末はシステムによって与えられたものさ。個人のFマシンに干渉することができる。君は痛みというものを知っているか?」

 「ここ、どこだよ?」

 サシガシは覚悟した。もう何をしたところで助かることはないだろう。ならば最後まで抗ってやる。

 「痛みとは本来人間にあった機能でぇ、それは不快感をもってして身体の異常を認識させるものだった。不老不死の肉体にとって、それは不要の長物ぅ。とうに退化した感覚、機能だよぉ。それを君にプレゼントしてあげよう」

 管理官が端末を操作する。

 「なにをしても無駄だ。オレは何も喋らない」

 「ふははははははは!」

 突然管理官が身を捩って笑い出す。息も絶え絶えになって、やがて搾り出すように話し始める。

 「な、なんでこういう時に言うセリフはみんな同じなんだろうなぁぁ!」

 管理官がポケットから細長い透明な筒を取り出した。中には髪の毛よりも細い、線状の生き物が蠢いている。

 「これはTマシンというんだぁ。はるか昔、医療用に使用されていた。マシン自体に意思があり、身体のどこにも潜っていき、患部を治療するぅ。しかも自己再生、増殖をする優れものさぁ。マシンと名がついているが、半生物でもあるよぉ。

 もちろんねぇ、何の異常を持っていない人間には反応しない。でも、ここでいう人間っていうのは旧世界の基準でさぁ。つまりぃ、我々のような不老不死はこのTマシンにとって異常と認識されるんだぁ。その原因は、もちろんFマシンだよぉ。つまりこのマシンは君の全身すべてを攻撃することになるぅ。まぁ話を聞いただけだと想像辛いだろうから、実践してみようねぇ」

 管理官が細長い筒の蓋を開けて、その中身をサシガシに放り投げた。

 いくつもの虫のようなTマシンがサシガシの全身に着地し、勢いよく皮膚の下に潜り込んでいく。サシガシは産まれて初めて体験する違和感に耐え難い拒否感を覚えた。全身に無数で極小の穴が空いて、そこから不快という巨大なエネルギーが潜り込んでくる。それらは身体中で暴れ回り、肉を破る小さなクチャクチャという音の集合が、肉体の内側から響いてくる。サシガシは叫んだ。意識したわけではなく、なぜか自然とそうしていた。

 暫くすると自らの意思と反して何かが腹の中から口内へ込み上げてくる。堪えきれず外へ吐き出した。口の中が酸っぱい不快なもので溢れている。

 「おやぁ、珍しいねぇ! 初めての嘔吐ぉ! おめでとう!」

 管理官が歓喜の表情で飛び上がった。

 サシガシは自らの身体が少しずつ膨らんでいくのを認識していた。そして揺れ動いている。視界も正常ではなく凹凸した管理官の顔が波打って見える。正体不明のねばついた液体が全身を覆い始める。それは汗や血液や排泄物の集合で、耐え難い臭いが鼻腔をつく。大きなエネルギーが脳を刺激し、危機感を煽っている。しかしどうすることもできず、そのあまりにも大きなエネルギーの情報に思考はストップする。何も考えることができない。ただ、そこには耐え難い現実だけがあった。

 「旧世界の人間ならとっくに死んでいただろうが、君の身体にはFマシンがいるからねぇ。本来ならTマシンなど数秒でFマシンに駆逐されているところだぁ。痛みも感じなかっただろうねぇ。ただ、今は僕がこの端末でFマシンの活動を制御している。君は死ぬどころか気絶することさえ許されないんだよぉ。本当に君が羨ましいぐらいだよぉ。君は今、全力で生きている」

 白い部屋に亀裂が入る。そして壁の一部が突然爆発した。塵と煙があたりを覆い、サシガシは何も見えなくなった。

 管理官がキョロキョロと辺りを見回す。

 煙が徐々に晴れていく。

 そこにはあまりにも小さな子供が立っていた。長い髪の毛が風で揺れて、幼い顔が見える。それはイメスだった。

 「ふはははは! わざわざそちらから会いに来てくれるなんてねぇ。手間が省けたよ」

 管理官は手にある制御端末を素早く操作した。

 「その規格外の破壊力、機械体か? だが無駄だ。システムは全てを制御する。ほら、貴様をすぐに動けなくすることが……」

 イメスはゆっくりと管理官に近づく。

 「あれぇ……? ほら、動けなくすることがぁ! あれ?」

 管理官が何度も制御端末を押すも、イメスは足取りを止めない。

 「な……なぜぇ? ありえない……! 貴様ぁ、まさか!!」

 イメスの亜音速を超えたパンチは、けたたましい音とともに管理官の胴体に大きな穴を開けた。少し遅れて衝撃が部屋全体を襲う。建物全体が揺れ、椅子に座っていたサシガシも吹き飛ばされた。

 イメスがサシガシの方に駆け寄って言う。

 「遅れてごめん。もう大丈夫。制御端末を探してくる。待ってて」

 「そうはいくかぁぁ! この背信者のグズが!!」

 イメスの背後に管理官が立っていた。腹に空いた穴が塞がりかけている。

 「貴様ぁ! 人間じゃないな! 気持ち悪い化け物めぇ!! だけど、残念だったなぁ。僕は、こんなことだってできるんだぁ!」

 管理官が制御端末を操作する。すると管理官の全身がボコボコと音を立てて膨らんでいった。全身から半透明の汁が吹き出ている。サシガシが今までの人生で見てきた一番の巨躯の持ち主はズゥだったが、今の管理官はその五倍ほどの体積を持っていた。もうそれは人間だと言えないような肉の塊だった。四肢はバランスを欠いており、立っているとは言い難い。

 「そんな無理をしたら死ぬ。辞めといた方が良い」イメスが淡々とした口調で言った。

 「ぼぉぐは、しすてぅどどもにあゔ!!!」

 すでに正常な意識があるか疑わしい管理官が肥大化した拳をイメスめがけて叩きつけた。

 イメスは目で認識できないほどの速さでサシガシを椅子ごと抱きかかえ、部屋の外に出た。

 「少し待ってて。五秒で終わらせる」

 サシガシを床にそっと置き、イメスは管理官だったモノと対峙する。

 「ごぁぁぁぁぁぁ!!」

 管理官が再びイメスめがけて拳を叩きつける。しかしそれをイメスは簡単に受け止めて、それを掴み管理官の身体ごと放り投げた。

 管理官が部屋の真っ白な壁に叩きつけられる。

 イメスが口を開いた。しかしそれは人間の限界を超えていて、口が顔の3倍以上に広がっていった。喉の奥に小さな赤い光球が現れる。それはバチバチと劈くような音と共に次第に大きくなっていく。壁に叩きつけられた管理官は、もはや起き上がることすらせず、イメスの方めがけて転がり始めた。

 「ごぉぉぉぉずぅぅぅ!!」

 管理官は巨大な身体をバウンドさせ、イメスの真上に飛び上がる。

 イメスの口内は赤い光で包まれていた。そしてそれを真上に解き放つ。

 サシガシは痛みに悶えながら、その光景を見ていた。突然現れた赤い光に全てが包まれて何も見えなくなる。一瞬それが消えたと思った瞬間、赤い光の巨大な柱が空へ向かって伸びていった。それから起こった暴風によってサシガシはまた吹き飛ばされた。

 「不老不死の倒し方。その一。一気に消す」

 イメスはそう呟いて、床から制御端末を拾い上げ、サシガシの方へ向かった。

 イメスがそれを操作するとサシガシの全身が熱くなり、やがて不快感も痛みも消えていった。ボコボコと膨れ上がった身体もすっかり元に戻った。

 「急ごう。時間がない」

 イメスはサシガシの身体をひょいと持ち上げて颯爽とその場を去った。



 サシガシが目を覚ますと、そこは以前訪れた読書会の家の中だった。

 「おっ! 目が覚めたか」

 ズゥの大きな声が耳によく響く。身体は完全に元に戻っていたが、サシガシはまだ違和感が拭えなかった。気分は悪く、あの時に感じた痛みを思い出し、また身震いする。

 「本当にすまなかった。実は君を囮にしていたんだ」

 モクモが頭を下げる。

 「もしかして……ここまで想定済みだったってことか?」

 「あぁ、我々にはこれが必要だった」

 モクモは手には管理官の持っていた端末があった。

 「近頃管理官はほとんど人の目に触れることは無い。下手に動けば我々が壊滅してしまう可能性もある。だからあえて向こうに有利な状況を産むため、やつらを誘き出すために君を利用した」

 「もう何でも良いよ。助かったしな。なぁ、そろそろメリコの死について、業印について話してくれない……おえぇぇぇ!」サシガシは我慢できず、胃液を床にぶちまけた。頭の中がぐるぐると回転するような感覚が止まらない。

 「今我々のいる空間は、君が元いた世界ではない。イメスの開発した装置によって開いた『次元のポケット』にいるんだ。説明はまぁ……しなくても良いだろう。時間が無いしな。この空間で、普通の人間は長時間滞在できない。君が以前この家にいたときは、数分程度だったから異常はなかっただろ。だが今は、もう半日程度経つ。限界は三日程度だ。超えたら死ぬ。Fマシンもそれには耐えられない。君の気分がすぐれないのは拷問されていたからではなく、この空間に適応できていないからだ」

 異常な不快感で支配される頭で、サシガシは言葉を絞り出す。

「じゃあなんだ、お前らは普通の人間じゃないのか?」

「そうだ。俺たちは機械体なんだ」

「なんだそれは? もう作り話みたいなのはうんざりだ。なぁ、もう良いだろ? メリコの死について教えてくれ。頼むよ」

 一呼吸置いて、モクモが返答する。

 「あぁ。そうだな。もう条件は整った。話しても良いだろう。しかし……」

 モクモはゴツゴツした端末のようなものを取り出して、サシガシに手渡した。

 「これは……?」

 「これは本だ」

 「何を言ってる? この端末はどうやって使うんだ?」

 「旧世界ではこういった物を本と読んでいた。植物の繊維質から作り出した、紙というものを束ねたものだ」

 「で、これが何なんだよ。オレは本は読まねえんだ。良いから簡潔に話してくれよ」

 「我々の口から何も言うことはない。それはな、メリコが書いた本なんだよ」

 「メリコが……?」

 サシガシは馴染みのない手触りの、紙という物質を手のひらで撫でる。ありえない話だが、それはまるで生きているようで、手のひらで生物のあたたかみのようなものを感じていた。

 「で、どうやって読むんだよ」

 「一枚の紙の一面をページと呼ぶ。タイトルの書いている表紙と呼ばれる部分から一ページずつ開いていくと読むことができる。時間があるとは言えないが、ゆっくり読んでくれ。我々はやることがあるのでポケットの外に出ているよ。では、また会おう」

 読書会の三人が壁の向こうに消えていった。

 サシガシはその本の表面に書かれているタイトルを読む。

 『回顧録 メリコ・ミリ』

 そしてページを開いた。






 いざ何か書こうと思い立ってみたものの、何から書けば良いのやらさっぱりで、ひとまず生い立ちから始めるのが定石なのかなと思い、とりあえずつらつらと書き始めてみようと思います。(ここは後で直す!)

 私が産まれた時、世界はすでに安定していた。最後の戦争が終結してはや七百年。イムシステムにより全てが管理されていた。人口の減少を懸念したシステムによって作り出された、デザインベイビー(体内にあらかじめFマシンが組み込まれている)の生産が終了したのが同年。全人類の生殖機能全面撤廃がなされたのも同年で、私は最後の非デザインベイビーの一人ということになる。

 その歴史の背後では世界中から研究者や技術者が姿を消し、旧世界のテクノロジーは全て廃された。システムが行なっている管理とは支配であり、そのことに当時のほとんどの人は気づいていなかった。だがそれも決して悪いことでは無いと思う。個人が幸せに過ごしているならそれが一番だ。ただしそうでない人も一部いることを忘れてはならない。

 非デザインベイビーの私には多くの人々と違い、両親がいた。

 二人は少し変わり者だったが、とても良い人たちだったと思う。五歳になって学校に通い始めた。そこではイムシステムの偉大さ、そしてその中での正しい生き方について学んだ。だがその集団の中で私は異分子であり、誰とも馴染むことができなかった。だからずっと本ばかり読んでいた。しゃべる相手は両親のみで、友達など一人もいなかった。

 本を読み始めたきっかけは両親だ。両親は私に本の読み方や、おすすめの作品について教えてくれた。

 新しく何かを書く人はもう長い間いない。アーカイブに収録されているものは遥か昔に書かれた作品で、なおかつシステムによる検閲が入っているため、偏りがあった。しかし当時の私はそれを気にも止めず、空想の世界に心を踊らせていた。

 十五歳になり学校を卒業するのと同時に不老の手続きがとられ、私は完全な不老不死になった。けれど日常は変わりばえなく、ただ学校に行くことが、仕事に行くことに変わったぐらいだった。


 百年ほど経って、両親が私に紹介したい人たちがいると言った。私は両親がずっと前から仕事以外の何かをしていることを感づいていたし、向こうが触れない限りこちらから触れようとは思わなかった。だから意外だった。なぜ今になって?

 そこで私は初めて読書会に参加することになる。

 てっきり両親と同じ集まりに参加するものだと思っていたが、私は位置データだけ教えられて一人で彼らの家に向かった。読書会にはいくつも支部があって、両親が通っているのは第三支部、私が向かい今後も通うことになるのが第六支部だ。なぜ同じ場所に行ってはいけなかったのか、その理由は後に知ることとなる。

 そこで会った読書会第六支部のメンバーは四人。現代において一番老けて見える男、モスモ。いわゆる彫りが深い顔つきで、髪の毛はいつも短くまとまっている。彼はこの世界では珍しい、本当の意味で生きている人間と言えるだろう。私は彼を見ると幼い頃に見た大人たちを思い出した。

 優しいお姉さんといった印象のズゥ。少し赤みのかかった彼女の髪は彼女自身を表しているようだ。彼女がいればその場が一気に明るくなる。あと、現代では珍しく身体を鍛えていて、いつも自信を持っていた。それでいて知的で、メンバーの中で一番の物知りだった。

 コグは少し小柄だけど、メンバーの中で一番態度がデカかった。思ったことがすぐ表情に出るので、わかりやすいやつでもあった。そういえば彼とは何度もケンカをしたものだ。彼の話は面白い。彼が本について語ると、まるでその内容は自分が読んだ本とは別物のように感じた。また読み返そうって思うようになった。

 アサナメは綺麗な人だった。彼女に会って、初めて上品と言う言葉の意味を知ったような気がする。物静かだけど、いざという時にはちゃんと言うべきことを言う人だ。いつも周りを見ていて、私も彼女みたいになれたらな、とか思ったりしていた。

 みんなと本を読んで感想を話し合う。

 初めて家族以外の人とコミュニケーションをとった私には、世界が一変して見えた。自分が思っていた解釈と全く違う解釈をする人がいる。その意見を聞いて、私も新たな発見を得ることができる。なんと素晴らしい体験だったことか。時には仕事に行かず、家にも帰らなかったこともあった。思えばこの時、読書会の活動だけに身を置かず、もっと両親と喋っていればよかったと、今では後悔している。


 私が読書会に初めて参加してから二百年近く経った。そのころ私は何か妙な空気の変化を感じていた。

 「メリィ、君に話さなければならないことがある」とモクモが切り出した。

 私は何を今さら改まってと思っていた。この読書会というものが、ただ読書をして感想を共有しあうだけの集団だとは到底思えなかった。何かしらのイデオロギーを持った集団に違いないと確信していた。

 「落ち着いて聞いてくれ。君の両親はシステムに殺された」

 私はモスモが何を言っているのかわからなかった。さすがにこれは想定していなかった。モスモは続けて「この先の話を聞くと君は後戻りできなくなる。それでも聞きたいか?」と私に尋ねた。断るという選択肢は無かった。ただ知りたかった。自分がどうなろうとも。


 私の両親は六十年ほど前から読書会に参加していた。両親が偶然読書会を見つけ出して参加したのは、ただの本好きが高じただけで、なにかしらのイデオロギーによるものではない。 

 だがある日、両親は読書会の真の目的を知る。

 イムシステムからの解放。

 それが読書会が結成された目的だった。組織したのは最後の戦争で敗北した科学者、技術者の生き残りたち。彼らは自らの脳から抽出した意識を機械体に移す、いわゆる『機械適合化コンバート』をすることで、イムシステムとFマシンの支配から逃れることができた。かつてズゥに「なんでそのボディを選んだの?」と聞いたことがあったが、機械適合化コンバート前の肉体と、後の肉体に大きな差異があった場合、精神に大きな異常をきたすケースが多かったからだそうだ。それで納得。みんなとっても人間らしい。

 話がそれたが、両親はFマシンでシステムに支配された身でありながら、彼らの信条に感化され、その活動により深く関わることなった。活動の内容は、大昔の科学者が隠した遺産を探すこと。いわゆる散歩というやつだ。それに参加することが大きなリスクになるということは言わずもがなである。

 そしてもちろん、ここで問題になってくるのはシステム管理官の目である。モスモたち旧世界の生き残りは家の外に長時間出ることができない。彼らは機械なのでシステムに異物扱いされ、すぐに居場所がばれて管理官に追い回されることになるからだ。だから散歩をするのは決まってシステムの支配下に置かれた人たちだった。ちなみにコグとアサナメは読書会の真の意義について知らず、散歩には参加していなかった。

 両親の活動していた読書会第三支部のメンバーは五人。両親二人と、ギャニンという旧世界の生き残りで機械体の男、ハージというシステムの穴を見つけたいという変わった趣味の男、ケァフという熱意ある好青年、五人で構成されていた。ある日、ハージが地図にない不思議な家を発見する。そしてそのことを仲間たちに相談したのち、しばらくして彼は失踪した。

 後で分かったことだが、彼は突然イムシステム側に寝返った。理由は全くの不明。彼自身はおそらく処分されただろうが、彼は両親を含む第三支部全員のことをシステムに密告していた。不幸中の幸いというべきか、支部同士での交流などは希薄で、モスモ達は無事だった。

 さらに早い段階でモスモたちが動いて地図にない家を確保していたため、最悪の事態は避けることができた。

 しかし両親は真っ先にシステム管理官に捕まってしまった。彼らは最期まで口を割らなかったという。モスモたちは動けずにいたが、ギャニンは周囲の反対を押し切り、両親の救出に向かった。しかし間に合わず、現場にはまるで見せつけるかのように拷問され痛めつけられている彼らの映像データだけが残っていたという。怒りに歯止めが利かなくなったギャニンはその後、単身で管理官たちに戦いを挑むが、あっけなく敗北してしまう。そして自らのメモリにアクセスされないよう、自らの命に蹴りをつけた。


 まとめると以上のような内容になる。突如訪れた両親の死。私はその本当の意味を理解できなかった。悲しみや喪失感などは無く、ただそうなのかと思っただけだ。モスモは言葉を選んで気を遣いながら話してくれていたが、それもなぜなのかよくわかっていなかった。死というものに何百年もまともに触れ合ったことがない。それがこの時代を生きる多くの人の共通点だろう。例に漏れず私もその一員なわけで、両親の死を悼むことができたのは、それからずいぶんと先のことだった。

 モスモのあの言葉は今だからこそ真に理解することできる。私は両親に愛されていたのだと。

 「メリィ、先ほどは試すような真似をしてすまなかった。この話をすることは君の両親の意向に反することだ。だがもう君はすでに巻き込まれてしまっている。下手に誤魔化しても頭の良い君ならすぐ真相に気づいてしまうだろう。だからこそ今話すのが最適だと思った。だがメリィ、両親は君を危険事に巻き込むつもりは決して無かったんだ。それだけは知っていて欲しい。この時代には珍しい、本を読むことも誰かと喋ることも好きな君の幸せを祈って、彼らは君に読書会を紹介した。活動には近づかせないつもりだった。だから君は今第六支部にいるんだ。ここでは目立った活動をしていないから」


 そう、第三支部のメンバーのうちケァフだけはなぜか無事だった。おそらく彼は泳がされていて、周りには管理官たちの厳重な監視がつけられていただろう。そして不思議なことに、それから何百年も経ち、彼は業印喪失で死亡することになる。

 ここで、ついに業印喪失について書かなければならない。これは読書会の中でもトップシークレットの内容だ。なぜならば禁忌を知れば、その時点で禁忌に近づいてしまうことになるからだ。システムの管理下にある以上、何が条件かを知ること自体が危険に繋がる。だから誰も口にしない。それどころかシステム管理下の人間に対しては、そこから思考を離すよう、共有する情報を統制していた。

 勘の良い読者はお気づきだろう。(これは言ってみたかったやつ!)

 業印喪失は思考により起こる。それを三回考えるだけで死んでしまう。でもここには書かないよ。だって読んでる君も危なくなるからね。まだ書かない。



 それとここで地図にない家に何があったのかについても書いておこう。

 そこには旧世界の科学技術の粋が詰め込まれていた。そして何よりの成果はイメスだった。その子供のように見える機械体には世界をひっくり返すほどの知能を誇る人工知能が埋め込まれていた。そしてそれを守るための力も。

 イムシステムの中枢は人工知能だ。それが故にイムシステムが最も恐れるものは人間ではない。自分以外の人工知能の存在だ。正直言ってイムシステムに人間が知能で勝ろうなんて不可能だ。であれば対抗する術は一つ、新たな人工知能を味方につけること。

 しかし製作者は何を思って、イメスをわざわざ隠したのだろうか。それはきっとイメスが、イムシステムに対抗するどころか、世界を滅ぼしてしまうほどの力を秘めているからだろう。それをモスモたちは知っていた。だからこそ慎重に動くべきだったが、そうも言ってられなかった。管理官による読書会への締め付けは日に日に増していく一方で、散歩と思わしき行為をしていた読書会メンバーたちが標的にされた。

 だからモスモたちは箱からイメスをとり出すしか手はなかった。彼は産まれたての子供そのものだった。モスモたちは慎重に彼を育てていった。私も何度かイメスに会ったことがある。本当に可愛くて仕方なかった。彼と触れ合っているとあたたかな気持ちになれた。

 イメスは成長するにつれて多くの発明をした。そのうちの一つが多次元宇宙罅移動モジュールだ。いくつもに広がる多次元宇宙と今私たちがいる世界の間に空いた隙間に移動することができる。そこは次元のポケットと呼ばれていて、そこは現実と瓜二つ、まったく同じ世界なのに誰もいない。もちろんシステムさえも干渉できない。ポケットの中の街並みは私たちのいる世界と変わらない。モジュールを端末から起動すると、どこからでも次元のポケットに移動できる。次元のポケットの中で移動し、目的地で再びモジュールを起動すると、元の世界の同じ位置に誰にも気づかれず移動できる。これは読書会の隠密活動を支える礎となった。モジュールから十メートル以内の人なら誰でも自由に次元のポケットに飛ばすこともできる。だから読書会の存在に気づいた無垢なる人も隠れ家に飛ばすことができる。 (この説明いる? 残しておくかどうかは保留で!)

 まあその装置の開発がなされたのはもう少し後になる。

 話を戻そう。

 ハージの裏切り以降、毎日行われていた第六支部の集まりは、月に一回程度のペースになり、読書会の真相について知った私も何か特別なことをするでもなく、ただ以前と同じように過ごしていた。

 コグとアサナメが死んだのはこの時期だ。二人は殺されたのではなく自死を選んだ。ある時期を境に、二人の読書会に足を運ぶ頻度が下がっていった。そしてその日、コグが急にさっき死亡手続きをしてきたと言い出した。

 「最近みんな様子が変だ。それに最近の死者数の推移を知っているか? 誰も興味がないだろうが僕はよく見ているよ。明らかにおかしい。何かが起こっている。でも何が起こっているか知りたくなんかないね。僕は怖いんだよ。死ぬのが怖い。不老不死が当たり前のこの世界で、何を言ってるんだって自分でも思ってる。でも怖くて仕方ない。死そのものが怖いんじゃない、それが急に訪れるかもしれないということが一番怖い。だから自分で終わらせることにした」

 アサナメがそれに続く。

 「私もコグの話に賛同したよ。このままだと正気を保ってられそうもなくてね。鏡が視界に入るだけで最悪の気分になれる。そうさ、私たちは業印喪失に近づいているんだ。そのルールは一向にわからない。わからなかった。あんたたちは知ってるんだろう? いいよ、言わなくて。知りたくもない。最期は二人で過ごそうと思ってる。じゃあみんな、さよなら」

 二人が去っていったあと、私は妙な気分になった。

 二人が感じている恐怖。それが何なのかさっぱりわからない。それに自ら死を選ぶ理由も。今まで読んできたどの本よりも難解だと、その時は思っていた。

 二人の死から十年が経った。モスモは突然、読書会で集まることを休止しようと言い出した。どうやら第二支部と第八支部がシステム管理官に見つかり、壊滅状態にあるらしい。この時点でも私にとってそれは他人事のようで、これから暇になるな、なんて考えていた。

 それから百年近くの間、私は一人で本を読んで過ごしていた。その中で自分の気持ちが徐々に浮き彫りになっていく。

 人と喋りたい。

 下手に動けば死ぬかもしれないという危機感などはなく、欲望の赴くまま行動した。そこら中にいる人たちに無差別で話しかけることにしたのだ。

 まあコミュニケーションという概念すら消えかけてるこの世界で、わざわざ他人と喋ってくれるような奇特な人間はいない。多くの人に無視される日々が続いた。意味があるのかどうかはわからないが、結果が無視だとしてもとにかく話しかけることがルーティンになっていた。

 私はまるで存在しない人間のようだった。話しかけているのに誰もこっちを見ることすらしない。でも、そいつは違った。

 見ない顔だなと思って話しかけてみたら、そいつはこっちを見た。くりっとした眼でじっと私の眼を見て、無視をした。そうだ。彼はあえて無視を選んだんだ。

 彼は私より少し背が低くて、髪の毛はボサボサで、正直他の広場で仕事をしている人たちと見た目はそんなに違って見えない。でもその眼の中は死んでいなかった。

 こいつにはなんかあるなって思った。

 そしてなんと翌日、彼はやってきた。しかも私と会話した!

 その時の喜びは今でも新鮮に思い出すことができる。こうして書いている今も、心が震えている。

 彼の名前はサシガシ。彼は私と違いデザインベイビーだったが、私と同い年で同じ日に産まれたいわゆる最後の子供たちだった。これはなにか、何かとんでもない偶然のようなものを感じる。たしかこういうのを運命って呼ぶらしい。

 その日から私はサシガシと広場でよく喋るようになった。徐々に打ち解けて、彼は私の家に来るようになった。サシガシは頭がキレる。彼は本を読んだことがないらしいが、私がいつも本の内容について話すと、すぐにそれを飲み込み自分のものにする。しかも意外と的を射た意見を言ったりする。私はよくサシガシに本を読んでよと言ってみたが、サシガシはその気が一切ないらしい。意地を張っているのかな。

 朝起きてサシガシは私の家にやってくる。夕方まで一緒に喋ったり、ぼうっとしたりして夕方まで過ごす。それから一緒に仕事に行ってそれぞれの家に帰る。そんな暮らしを二百年ぐらい過ごした。これは長いようで一瞬の出来事だった。毎日が楽しくて仕方なかった。その間にイメスが多次元宇宙罅移動モジュールを開発したおかげで、読書会に参加することもできたし、システム管理官の目立った動きも無く、平和が続いた。

 私はこんな日々が一生続けば良いのに、十年後も百年後も、千年経っても続けば良いのにと思った。

 思ってしまった。

 ある日鏡を見ると、何か違和感があった。業印が一つ消えていた。全身の血の気が引いた。初めて死の恐怖というものがどんなものか味わった。理解してしまった。両親の死、コグやアサナメの死、それらの意味を。

 大きな闇が足元に絡みつく。それはどんどんと全身に伸びてきて、私は動けなくなる。真っ暗な闇の中で誰にも気づかれず消えていく。そんな想像が頭から離れなかった。

 読書会に向かうのはかなりリスクがあったが、そうせざるを得なかった。他に選択肢などなかった。

 第六支部に向かうと、彼らは私を無視した。時空のポケットからこっちを見ているはずなのに。

 私は絶望した。読書会の人たちに見捨てられたのだろうか。

 彼らはリアリストだ。何よりも目標を達成するために動いている。私など切り捨てられても仕方ない。もうどうしようもない。私は家に帰って寝た。

 翌日、サシガシがいつものように私の家を訪ねた。正直悩んだ。全部話してしまおうか。

 でもサシガシを巻き込んでしまうかも。それだけは避けたい。絶対にそんなこと起こってはならない。

 だけど、会いたい。会いたくてしょうがない。

 気づいたら私は彼を招き入れていた。

 いつものようにサシガシが目の前に立っている。彼の顔を見ただけで、何故だか涙が止まらなかった。そしてなんと私は自然とサシガシに抱きついていた。サシガシは一瞬戸惑ったようでその場で凍りついていたが、泣きじゃくる私をそっと抱きしめ返してくれた。

 サシガシは何も聞かなかった。でも彼は察しが良すぎる。とにかく言い訳をしなければならない、私はぐるぐると回る頭であれこれ考えた。そして私は読書会の話をしてしまった。でも何をしているのかはぼかした。仲が良かった人たちに裏切られたんだと言った。サシガシはボソッと言った。「そいつらがいなくても、オレがいるだろ」と。

 私の身体を包み込んでいた大きな闇が消え去った気がした。大きな光に包み込まれるようなそんな気持ちになった。

 私は死ぬわけにはいかない。意地でも生きてやると、そう思った。

 ここで私は愚かにも、これから何百年も何千年もサシガシと一緒に生きていたい。

 また、そう思ってしまった。

 次の日に鏡を見て、私は愕然とした。それとともにルールに気づいた。

 ここまで読んだあなた。もう気づいているだろうけど、あえて言おう。


 業印消失の原因、それは未来について考えることだ。

 イムシステムの目指すものは一つ、人類の維持だ。それ以外には何の興味もない。人は未来について考えると、それが不安に変わる。それを改善しようと動き出してしまう。だからこそ未来について考えることを禁じたのだ。具体的に言うと十年以上先について考えるとアウトらしい。これはモスモから後に聞いた情報だ。


 私は覚悟した。明日が最後だ。おそらく業印は一日につき一つしか消えない。今日は未来のことなんて一日に何度も考えていたし、それでも消えた業印は一つだけ。だからそれは間違いないだろう。

 明日は、普通に、ただ普通にサシガシと過ごそう。そう決めて次の日を待った。

 最後の日、それはいつも通りの日常。ずっと続くと思っていた日常だった。結局自分の思いをサシガシに伝えることはできなかった。それが何なのか、自分でもはっきりとわかってはいなかったしね。サシガシは昨日のことについて何も聞いてこなかった。それが彼なりの優しさだろう。とにかく最後に、お別れすることができた。だからよかった。もう悔いはないとその時は思った。

 夜、家に着いて改めて鏡を見た。やはりそこに業印は無かった。過去の業印喪失の死者について調べたが、全員日が変わる瞬間に死んでいた。だから私の命はもうあと四時間ほどということになる。いつものように外部端末を有機プラントの底にしまう。ベッドに横になろうとした瞬間、何かが変わった。頭がぐるぐる回るような、急に天地が逆さまになるような感覚。床に倒れかけたが、なんとか持ち堪えた。

 ふと顔を上げると誰かがいる。それはモスモだった。


 私は気を失っていたようで、気づけば馴染みのある読書会の家にいた。

 そしてここが次元のポケットの中であることを察した。モスモ曰く、この中ではシステムの干渉を受けないため、業印喪失した状態でも死ぬことはない。つまりタイムリミットが四時間から三日に延びた。それだけだ。正直サシガシと会うことのできない三日間に私は興味を持てなかった。モスモはすまないと私に言ったが、私は別にモスモ達に怒ってなどいない。だから謝る必要などないと言った。もうどうでも良いことだった。

 しかしなぜわざわざ手遅れになった私のもとにモスモ達はやってきたのだろうか。

 それは生き残る可能性があるからだった。

 モスモ達のように機械適合化コンバートすること。それが唯一の生存する方法だ。それを行うための機器はイメスのおかげで完成したが、ひとつ問題があった。私の体内にあるFマシンだ。脳から意識を抽出する際に、Fマシン内にあるイムシステムの意思が混ざり合ってしまう危険性があるという。

 だからシステム管理官の中でも一部しか持っていないFマシンを制御できる外部端末が必要だった。それを奪うために彼らは奔走していたが、結局まだ手に入っていない。彼らは私のタイムリミットまでに端末を探すと約束した。

 

 その話を聞いて、少し希望が芽生えてしまった。

 もしかしたらサシガシにまた会えるかもしれない。。

 しかし私は考えた。端末が見つからずに死んでしまう可能性は高い。ではその場合、私にできることはなんだろうか。私に何か遺すことはできるのだろうか。かつて死が当たり前だったころ、人は子供をつくった。それは自分の分身のようなもので、それは生きた証だったのではないだろうか。

 じゃあ私には何ができる?

 何かを生み出すことはできるか?

 自分の人生について考えて気づいた。

 それはずっと自分の傍にあったものだ。

 そうだ。本を書こう。

 でもどうやったら良いのかわからない。だからモスモに聞いてみた。電子データで本を残すことはシステムの管理下である以上困難だ。だからこそ唯一可能性があるとしたら、紙を使うしかない。

 彼はそう言った。しかも彼らは以前から誰か本を書く可能性を考えて、紙を合成することに成功していた。さすが読書会と言ったところか。

 そんなこんなで私は全てのページが真っ白な本を手に入れた。あとペンとインクもね。

 書き方なんてわからないから、その辺りにとにかく書きまくってなんとか読める程度の字を書けるようになった。時間がない。早く書かないと。

 身体は重く、気を張り詰めておかないと意識を失いそうになる。そのたびにサシガシを思う。勇気が出てくる。

 でも何を書けば良い?

 悩みに悩んで、私に物語を作ることは向いていないんだと気づいた。何も思い浮かばない。ならば実際にあったことを書けば良い。

 だから私は自分が産まれてから今までに起こったことを書いていくことにした。時間はない。今まで時間は無限だと思っていた。今までどれだけ時間を無駄にしてきた? そう思うとドス黒い悲しみが心を覆う。でも今は悲しんでいる場合じゃない。

 だから書き続けた。

 体力がもたなくなる。何度も気絶している。すぐに眼を覚まし書き始める。とにかく最後まで。

 これをサシガシには読んでほしくない。だってこれを読んだらサシガシはすべてを知ってしまう。彼に死んで欲しくない。私のことは忘れて生きてほしい。いや、それは嘘だ。悲しんでほしい、ちゃんと悲しんで、その後前を向いて生きてほしい。もし死ぬなら、その直前にこの身体を現実に戻してほしい。そうすればサシガシは私が死んだことに気づいてもらえるかな?

 いつまでも覚えていてほしい。

 そうしたら二人でずっと生きていることと、変わらないんじゃないんだろうか。

 最後にもう一度話したかった。でももうダメらしい。

 私はモスモに死ぬ時は元の世界に戻してほしいと頼んだ。彼は難色を示したが、渋々了承してくれた。

 そろそろ時間だ。

 最後にサシガシ、君の幸せを祈るよ。





 読み終わった時点ですでにサシガシは決心がついていた。涙が乾いて顔が少し張り付く。サシガシにはとある推測があった。これを読むことはメリコの意思に反することだ。それをわざわざモスモは勧めた。その意味は。

 サシガシは大声で叫んだ。

 「オレを機械適合化コンバートしてくれ! 今すぐ!」





 イムシステムや管理官との戦いは苛烈だが、サシガシには絶対に死ねない理由があった。自分の身体は、自分だけのものではないからだ。

 そして長い月日が経ち、サシガシにも終わりがきた。その瞬間まで、あの本はずっと彼の手元にあった。

 何千年も経って、複製された本は歴史的価値のある資料として世界中に広まった。

 ただ複製されたそれには原本と違う部分が一つある。

 その物語はハッピーエンドだ。祈りを込めて。

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メリコとサシガシ すやすや太郎 @suyasuyataro

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