第18話


         ※


 花宮絵梨。旧姓は加山。両親の離婚に伴い、母親に育てられる。

 幸いだったのは母親の両親、すなわち祖父母が母親の子育てに協力的だったことだ。

 そうでなければ、こんなに天真爛漫な性格には育たなかっただろう。


 こんな言い草、年寄りじみているのは分かっている。だが、少なくとも僕から見た花宮絵梨は、自分の過去を黒歴史呼ばわりしたり、悲壮感を漂わせたりしたことは一度もない。

 金銭的な問題で、小学校から大学に至るまで公立、という制限はあった。しかしそれをマイナスと捉えるほど、彼女の心は狭くない。少なくとも僕よりは。


 大学入学時のこと。

 そんな花宮に一目ぼれをした馬鹿がいる。それが谷木耕助だ。谷木の方が学年が一つ上だったので、花宮は彼に敬語を使い、先輩として顔を立ててやっている。


 そんな谷木も、なかなかの苦労人だった。本州中部に位置する農村に生まれ育った彼の夢は、宇宙飛行士だの戦闘機のパイロットだの、おおよそ実現不可能に思われるものばかりだった。

 適当な高校を出て、農家を営む実家で手伝いをし、頃合いを見て妻子を育む。それが、当時の両親の想像、予定だった。


 しかし、谷木はそれを見事に裏切り上京。ハローワークで『水族館警備員募集』の掲示を見てここにやって来た。

 谷木はどうやらこの仕事に向いているらしい。今はバイトの身だが、本人も大学卒業と同時に入社をする意志がある、とのこと。


 僕の持論としては――。

 完璧な善人などいるはずはないけれど、善意に満ちた『場所』ならある。

 それが、僕も含めた警備員メンバーの総意だと思う。


「って凪人くんは言ってるけど、あなたはどう思う? ジュリちゃん」


 いつの間にか目を覚ましていた大川室長が、最後尾のシートから声をかける。谷木はまだ盛大ないびきを連発していて……仕方ない、後でまとめて話を聞かせなければなるまい。


         ※


 それが、車内で行われた遣り取りの大半だった。僕たち四人の地球人とジュリは、互いにおおよその身の上を明かしきった。

 さて、喫緊の問題はまさに目の前にある。


「ジュリ、目的地はどこなんだ? 君の体質上、多くの衛生的な水を確保できる場所がいいと思うんだけど……」

(そうだね。私はベニクラゲの特性を模倣していただけだから、今度はベニクラゲから人間に変身して、その特性を得られるようになれば何も問題は――おわっ!?)

「何だ? どうし――ぎゃっ!」


 脳波で遣り取り中でも悲鳴を上げられるとは恐れ入る。

 だが、それは今の話題とは関係ない。


「ジュリ! 目的地を教えろ! そして運転を代わってくれ!」

(えっ? 突然どうしたの、凪人くん!?)

「この車、ただの車じゃないだろう?」


 僕が運転席に無理やり座り込むのに合わせて、ジュリもまた助手席へ。

 問答は続く。


「この車、もしかしたらこれ自体が罠だったんだ!」

(それはどういう……?)

「万が一、僕たちが逃げおおせても、人工衛星を経由して交通情報をトレースできる。この星にいる限り、逃げられやしないんだ! 最悪の場合、ジュリを生きたまま確保するのを破棄して、この車を自爆させることだってできるかもしれない!」

(つまり、私のせいだってことだね)


 そんなジュリの一言に、僕は自分の心臓が氷の拳でぶん殴られたような気がした。


「そっ、そんなことは言ってない! ただ、その、これから僕たちを待ち受ける敵について、思ったことを言っただけなんだ!」

(さあ、どうですかね)


 そう言うジュリの態度は、挑発とも絶望とも諦念とも取れる複雑なものだった。


「ジュリ、僕たちは君を邪魔者だなんて思ってないよ!」

(嘘だね)


 短く鋭利な切り返しに、僕は怯んだ。


(邪魔者だと思ってたから、さっきの言葉が出てきたんでしょう? 私だけじゃなくて、皆も殺されるだなんて! 皆で生き残ろうっていう気概があれば、また話は別だけどね!)


 ジュリの剣幕に、僕は再び押されそうになった。が、同時に疑問が湧いた。

 僕は基本的に、自身を無気力な、非生産的な存在だと思ってきた。

 しかし、今はジュリに対し、これ以上は退かない覚悟で話している。

 何故だ? どうして僕は、ジュリを相手にこんな必死になっている?

 

 だが、そんなことはどうでもいい。

 僕にとって、僕自身の信念、生き様をここまで捻じ曲げる『存在』は、未だかつてこの世にありもしなかった。そんなものなどないと信じ込んでいた僕のせいでもあるが。


(なっ、何を考えてるの? ちゃんと前見て運転してよ!)

「分かった。向かう場所は?」

(えっと……。ここ!)


 ジュリが自分の手を、ゆらりと僕の前に翳した。その手を引っ込めると、そこには蛍光色で半透明に表示されたこの地域一帯の地図が展開されている。


 ジュリが指先で示しているのは、とある製薬会社だった。


「ジュリ、このまま市街地を突っ走ることになるけど、いいんだな?」

(もちろん! 直線距離的にすごく近いし、一般人の目の前で戦闘を行う馬鹿はいないでしょ)


 この僕に、さしたるドライビング・テクニックなどあるはずがない。もちろん、何をどうすればより速く走れるかなど、詳しいわけがない。僕は僅かにドリフトをかけた。

 周囲から響くクラクション。僕はそれを無視して、ジュリの指定した場所へとひたすらに車を飛ばし続けた。


 念のため確認だ。


「皆、体調はどうですか? 気分の悪い人は?」


 皆が首を横に振るのを確認し、僕は広い車道をぶっ飛ばした。


「到着まであと五分! 五分で目標の研究所に到着します!」

(了解!)


 ふと、ここで気づく。ジュリの指示でここまでやってきたものの、何をすればいいのだろう?

 疑問でフリーズする僕をよそに、ジュリは颯爽と夜のアスファルトに足を下ろした。


         ※


 あの馬鹿! と叫びたくなるのを、僕は辛うじて食い止めた。

 いくら再生やら分裂やらが可能だとしても、走行中の車から飛び降りるなんて無謀過ぎる。


 待てよ? 今のジュリはベニクラゲではなく、人間の性質を持ち合わせると言っていた。これって、ジュリにとってはあまりにも大きなデメリットではないのか? 腕や足の一歩や二本、折れてしまってもおかしくないぞ。


「ジュリッ!!」


 僕は急ブレーキをかけ、同時に開いた助手席に身を移し、思いっきり叫んだ。

 しかし減速が不十分だったのか、風音と風圧に呆気なく遮られてしまう。


「凪人くん、前! 前見て運転して!」


 大川室長の怒鳴り声に、僕は再びブレーキを踏んだ。しかし、そう上手く事が運ぶはずがない。やはり減速が間に合わないのだ。このままでは、研究所の耐爆性の外壁に直撃し、車はペシャンコになってしまう。

 今更だなと思いつつ、僕は耐ショック姿勢を取った。僕らを失ったら、ジュリはどうやって生きていくつもりなのだろう? それとも、僕たちがジュリよりも早死にするような脆弱な存在だということなのか?


 せめて衝突時の衝撃を軽減すべく、僕は思いっきり左にハンドルを切った。このまま真横から壁にぶつかれば、車体後部は接触を免れるかもしれない。現在、前部に乗っているのは僕だけだ。他三人の命を思えば、軽いものだ――。


 そんな考えは、しかしすぐさま吹っ飛ばされることになった。


(馬鹿なこと考えてないで、もっと身体を丸めなさい!)


 そんな鬼気迫る声音、否、精神力。

 それが僕の脳内で認識される頃には、僕は勢いよく車から引っ張り出されていた。


「うわああああああ!?」


 何かが僕の胸から腰に巻きついている。この蔦というか鞭というか、触手状の物体は、間違いなくジュリのものだ。

 その状況やら理由やらを理解して飲み込む前に、僕は研究所の前面に広がる芝生にそっと寝かせられた。

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