第17話【第四章】

【第四章】


 はっとして、僕は思いっきり息を吐き出した。改めて空気を吸い込むものの、呼吸のバランスをとれずにむせ返ってしまう。


(皆、大丈夫?)

「あ、ああ……」


 僕は荒い息を落ち着けようと、胸に手を当てた。

 ジュリはとんでもないことをやってしまった。その認識があるからだろう、頭のみならず全身の感覚がおかしい。とりわけ、心臓の鼓動が上手くタイミングを刻んでくれない。

 こういう時は、何か別なことを考えるのだ。何か。何かって、何だ?


「ぐっ……」


 やはり、それはできない、と誰かが叫ぶ声がした。思考から逃げずに、現実に何ができるか、それをすぐに考え出せ、と。そもそも、それがきっかけで戸島雄介・三等陸尉の脳内情報をジュリに中継してもらったのだから。


そう、自衛隊の人たちが何を語ろうと、ずっと隠し通すことは不可能だ。

ジュリが池ヶ崎水族館の上空で、あれだけの大騒ぎ起こしたのだ。それに関与した人間として、何らかの情報を掴み、理解し、然るべき場所へ伝達する義務がある。


 と、その前に。


「ジュリ、ここはどこなんだ? 車の後部座席……だよな?」

(そう。今は凪人くんしか意識が戻っていないの。皆が目覚めてから、話し合ってもらえればいいと思ったのだけれど)

「ん……」


 僕は後頭部をガシガシと掻きながら、もう片方の手で頬をつねった。痛い。うむ、夢ではない。

 そう思うと、ふっと身体が楽になった。軋んでいた全身の筋肉が、いっぺんに解放されたかのようだ。


(取り敢えず、凪人くんがいてくれてよかった。いつも冷静だものね、あなたって)

「冷静だって?」

(違うの? なあんだ、冷静だからこそ最初に目を覚ましてくれたのかな、と思ったのに)

「……そいつは悪かったな」

(あれ? 褒めたつもりだったんだけど)


 ううむ、緊張感が足りない様子だな。でも正直、ジュリに『冷静だ』『褒めたつもり』と言われたのは、嬉しかった。少しは頼りにされているのだと、自分を認めることができたから。


 それはさておき。

 今回の戦闘で、警視庁と防衛省の軋轢は決定的なものになってしまった。最早、ここにいる四人(ジュリを含めると五人)の力ではどうにもならないのではないか。


 そもそも、何を以て目標達成とするのか、それがさっぱり分からない。

 ベニクラゲの水槽を、中の水ごと川や海にぶちまければいいのだろうか。そうすれば、人工衛星で捕捉したと言われるジュリの位置を、再びランダムに移動させることができる。


 しかし、また人工衛星を複数ジャックしたら、今度はどんなトラブルが起こるだろう? 


(いや、そんな心配はないよ。私たちは、人工衛星を使えない)

「何だって? その根拠は?」

(前回の海洋スキャンで、気象衛星は全面的にダウンした。それを受けて各国は、密かに技術を持ち寄ったんだ。現在、気象衛星には軍事衛星並のセキュリティが施されている)

「流石にそれをジャックして回るのは無理、ってことか」


 ジュリはぱちり、と大きな瞳で瞬きした。どうやら僕とジュリは同意見であるらしい。


「でっ、でもでも! まだ手段がないわけじゃないです!」

「うおっ」


 隣席で横になっていた花宮が、急に上半身を起こした。話は聞いていたようで、僕とジュリに対して真剣な視線を向けている。


「要は、数億年前からベニクラゲとして地球に潜伏していたジュリちゃんが、実は死んじゃってた! ってことにできればいいんですよね?」

「確かに……。いくら人間が傲慢でも、望む相手が既に死んでしまっていたとなれば、手の打ちようがない。ということは僕たちが、人里離れた沿岸部にジュリの身柄を解放すればいい、ってことか」


 この案、どう思う? と尋ねようとする。ジュリなら何と答えるだろうか?

 しかし、ジュリはハンドルを握り、ずっと真正面を見つめたまま。まるで僕に、話しかけるな、というバリアを張っているかのようだ。

 バリアだなんて、随分稚拙な喩えだとは思うけれど。


(気をつけてほしいのだけれど、私自身がベニクラゲだってわけじゃないからね? ベニクラゲを模して地球に潜伏している、一介の宇宙生物にすぎないから)

「でも、体組織はパクってるんだろう? ほら、さっきの分裂とか。地球に順応することはできないのか?」

(……)

「ジュ、ジュリ?」

(わ……が……)

「な、何?」

(この数億年の間、私がどれだけ寂しかったか、あなたには分からないの!?)


 その瞬間、僕は再び息が詰まるのを感じた。

 ジュリは振り返らない。声が震えているところから察するに、自分の立場を嘆いているのか。そして感情が昂り、落涙しているのか。

 きっとそうなんだろうな、と、僕は思った。しかし、それを口にするほど野暮でなかったのは我ながら幸運だった。


(だって、私はずっとたくさんの種の発展と絶滅を目にしてきたんだよ? 何度も何度も何度も何度も! あなたたちのような、この星の原生生物たちには分からない苦労でしょうね!)

「そ、それは……」

(時代ごとに植物になったり、恐竜になったりしてきたけれど、転生を繰り返すたびに思ったよ。今度こそ、平和な時代が来ますように、って。でも、平和って何なのか、私は今も分からないまま! 手掛かりだって掴めない!)


 平和。彼女にとっての平和とは、いったい何なのだろう?


(あなたたち人間の登場が、あまりにも遅かったのよ! 弱肉強食というのがこの星のセオリーなのだから、それを止めようとは思わない。でも、私が希ってきた知的生命体との邂逅に成功したと思ったら、何やってんのよ? これほどの知性を有していながら、なんでまだ殺し合いなんてやってるの? それも同族同士で!)


 つまりジュリにとって、人間というのは自分と平等に意思疎通ができるかけがえのない存在になるはずだった。しかし、いざ人間の歴史を見てみたら、いつの時代のどこの場所でも血生臭い。


 僕はジュリの言葉を、自分なりにそう解釈した。これはいわゆる『どうして戦争はなくならないのか?』という問いを投げるに等しい行為だ。

 正直、貧相な僕の人生経験では、とても返答できない。もちろん、戦争なんてない方がいいに決まっているけれど。


「それで……それで君はどうしたんだ、ジュリ? 君は今、人間の格好をしているけれど」

(自棄になった)

「はい?」

(だから、人間に愛想を尽かせて、かといってこのまま母星に帰るわけにもいかない。だから一旦、知性以外は自分を退化させることにした。その対象生物として最も効率がよかったのがベニクラゲだった、ってわけ。不老不死、なんて言われているからね)

「それは、そうだな……」


 ジュリはT字路の赤信号で停車し、とんとんと指先でハンドルを軽く叩いた。

 同時に、助手席側から首を伸ばしていた僕の後ろ襟を引っ張る誰かがいる。


「先輩、凪人先輩!」

「ああ、どうしたんだい、絵梨さん?」

「わっ、あたしもジュリさんに訊きたいことがあるんですけど……」

「そうか、ごめん。僕ばかり質問していたね。ジュリ、花宮さんからも質問があるんだけど、構わないか?」

(もちろん)


 そう答えながら、ジュリは信号が青になったのを確認。ゆっくりと発車した。


「えと……、えっとね、ジュリさん? あたし、昨日から嫌なことを考え始めてしまって……」

「待ってくれ、花宮さん。今は人生相談をしている場合じゃ――」

「あたし、同僚の谷木耕助さんのことが好きなんです」


 そう言って、花宮は勢いよく僕の手を振り払った。おいおい、何を宣言しているんだ、彼女は? 安っぽい恋愛ドラマの脚本みたいじゃないか。って、まさか。


「あたしはどうしても、彼と一生を添い遂げる覚悟です。それなのに、どうしてあなたは現れたの? しかもこのタイミングで?」

(私はずっと人間と共存し続けるつもりはない。泥棒猫なんかにはならないと思うけど?)

「違う! 問題はあたしじゃなくて耕助のこと! これ以上、彼を魅了しないで!」

(私にそんなつもりはないけれど)

「だから、あなたじゃなくて耕助の問題だって言ってるじゃない!」


 この間、僕はずっと助手席で耐ショック姿勢を取っていなければならなかった。

 同時に、花宮絵梨の経歴を軽く振り返ってみようと思った。下手な言葉をかけずに済むように。

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