第14話


         ※


 優太郎が足を止めた時、僕の息は完全に上がっていた。思いっきり膝に手を当てて、肺に空気を叩き込む。しかし、優太郎は息を荒げるどころか、汗一滴かいていない。どんな訓練をしているんだ、こいつは。


 いや、そもそも。

 優太郎は、僕の味方ではあるようだが、ジュリの味方であるとは限らない。どこかで誰かが見張っていなければ。


「おい、大丈夫か、凪人?」

「ああ、すまない……」

「厨房を抜けた先に梯子がある。そこからなら、警備網の外側に出られるはずだ。ほれ」


 軽い掛け声を上げながら、優太郎は何かを僕の前に差し出した。スポーツドリンクだった。

 僕は礼を言う間もなく、一気に半分ほどを胃袋に流し込んだ。少しは呼吸が落ち着いてきた気がする。


「まあ、ここまで来れば追っては来れないだろ。徒歩で行くぞ」


 無言でいることで、僕は肯定の意思表示とした。


 歩き始めて約三分、僕は一つの教訓を得た。

 人間というのは、本当に恐怖を感じている時は、誰彼構わず騒ぎ立てるものだと思っていた。だがそれは間違いだ。

 僕なんて、優太郎について行くこと以外、何もできやしなかった。


 今の僕は、頭の中が疑問符で一杯だ。

 知りたい、知らなければならない、記憶しておかなければならない。


 落ち着ける場所に到着したら、優太郎を質問責めにしたい。その気持ちは山々だ。

 しかし、そのためには僕は生きて脱出しなければならない。


 そう考え込んでいると、ザッ、というノイズが耳に入った。

 顔を上げると、無線機を耳に当てる優太郎の背中があった。スラックスのポケットに入りそうな、小型の機材だ。


「こちら藤野、目標00の身柄と安全を確保。離陸ポイント到着まで約四〇〇秒。離陸体勢での待機を要請する」

《了解。待機を続行する》

「了解。……よし、もう少しだぜ、凪人」

「分かった」


 ふっと息をついて、僕は背筋を伸ばした。


         ※

 

 垂直方向の梯子を上り切ると、穏やかな海風が頬を撫でた。それと同時に耳は封鎖されてしまう。この音は――そうか、ヘリコプターの回転翼の音だ。


 優太郎は駆け足で、ヘリの方へ向かっていく。それを認めたパイロットが何かを放って寄越した。腕を振る優太郎の下へ歩いていくと、ヘッドフォンを手渡される。ヘリの爆音の中でも会話ができるように、ということらしい。


 ヘリを見て、随分小さいな、というのが第一印象だった。キャビンの座席は、大人が二、三人座ればいっぱいだ。

 優太郎に続いて乗り込もうとした矢先、ふと尾翼に目を遣った。分かりやすく『陸上自衛隊』の文字が書かれている。


 優太郎は自衛隊、ひいては防衛省の工作員だったらしい。ということは、レストランに乗り込んできたのは別な勢力ということか。そのあたりの勢力図は把握しておいた方がいいだろうな。


「凪人、随分怖い思いをさせちまったな。すまない、こっちの手落ちだ」

「いや、それより水族館で捕まってた三人は……?」

「おう、これだ」


 優太郎がスマホを差し出している。覗き込むと、三人が揃って溜息をつくところだった。どうやら解放され、安堵の溜息をついたところらしい。僕も同じく、ほっと胸を撫でおろした。


         ※


「着いたぜ、相棒」


 僕が自分を抱くようにして俯いていると、優太郎がそう声をかけてきた。

 ヘリコプターに乗ったのは初めてだったが、思ったよりもずっと快適だった。いや、考えすぎで多少の揺れは感知できていなかっただけかもしれないが。

 

 優太郎に手を取ってもらいながら、ゆっくりと地面に足を下ろす。再びを頬を風が流れていく。が、それは海風とはまるっきり違っていた。

 磯の香りがするわけでもなければ、清涼感に溢れているわけでもない。人工的で薬品臭くて生温い風だ。


 優太郎とパイロットが二、三言葉を交わしている間に、僕は周囲を見回した。

 って、なんだ。ここは池ヶ崎水族館の屋上じゃないか。


 僕がぼんやりしていると、優太郎が肩を叩いて先に進み始めた。ここは僕が彼を先導すべき状況だ。しかし優太郎は何の迷いもなく階段に向かい、足早に下りていく。

 きっとこの建物の構造自体を、頭に叩き込んでいるんだろうな。


 自分の親友が、こんなにもハイスペックだった。その事実は、僕と優太郎の仲を引き裂くような大きな差であるように思われた。優太郎に比べ、僕はいったい何をやっているのだろう?


「ああ、そうだ、凪人」

「ん?」

「いろいろ訊きたいことはあるだろうし、俺も答える。けどよ、さっきまで人質だった三人にも知る権利はあるんだ。説明するのに、警備員室を借りてもいいか?」

「もちろん、構わないよ」


 むしろそうでなければ困る。

 いろんなことがあったけれど、今日という日を忘れられるはずがない。多くの謎を残したままで、いつも通り元気に過ごしましょう――なんて難しいし、そんな鈍感でもいられない。


 僕はインターフォンで大川室長と少しだけ話し、警備員室に踏み込んだ。


         ※


《はい、警備室は内側から開錠したから、二人共お入りなさい》


 室長のその言葉に、僕はがっくりと膝をつきそうになった。なんだかんだ言って、僕は大川室長や谷木、花宮のことが心配で心配で仕方がなかったのだ。 


「失礼します……」


 震える手で開錠ボタンを押すと、そこにはいつもの三人がいた。誰も負傷していない。そのくらい、素人の僕でも判断できる。


 再び安堵の波に呑まれ、僕がくらり、と倒れそうになった直後のこと。


「おいてめえ! 何者なんだ!」


 という怒号が飛んだ。谷木が騒いでいる。いや、僕は僕、蒼樹凪人だとしか言えないのだが……。


「威勢がいいな。自分は藤野優太郎。警視庁外郭組織『特殊生物対応課』のサブリーダーを務めている。警察の特殊部隊の人間だと思ってもらえばいい。階級は警部だ。先ほどは、先走った部下が諸君を一時拘束してしまったと聞いている。誠にすまない」


 腰を折る優太郎の前で、僕はどうにか姿勢を正した。と同時に、眼前に迫った鉄拳に気づき、慌てて身を縮めた。


「落ち着いてくれ、谷木耕助くん。自分は敵じゃない。それとも、謝罪が足りなかったか?」

「ごちゃごちゃうるせえ! 謝罪だけで済むんなら、警察はいらねえんだよ!」


 僕は転がるようにして距離を摂り、ゆっくりと立ち上がった。

 谷木の右手を、優太郎の左手が受けとめていた。軽々と、正確に。


「ぐっ……」


 この一撃で力量の差を把握したのか、谷木はゆっくりと腕を引っ込めた。じりじりと後ずさりする。立ち上がりかけた花宮が、慌てて谷木の背中を支えた。それを見て、ご理解感謝する、と言ったのは優太郎の方だ。


「ところで凪人、彼女はいないのか?」

「彼女? いや、今はいないけど……」


 なんだなんだ。突然恋バナか?


「そうか……。あのベニクラゲ変異体――ジュリ、といったか――、少女に変身するのだったな? 通常クラゲに雌雄はないが、取り敢えず今は女性として扱おう」


 ……ああ、そういう意味ね。

 僕がぐったりするのを無視して、優太郎は他三人の方へと向き直った。


「ここから先、自分がお話することは、国家機密に関わる案件です。我々の予測では、これをご承知くださった方の方が、他の組織からも狙われにくくなる、という報告が上がっております。また、我々も皆様の身辺警護に全力を尽くします。どうか、お聞きいただけないでしょうか?」

「構いませんよ、藤野さん」


 真っ先に賛同したのは大川室長だった。僕は思わず室長に振り返ったが、その目は真っ直ぐに優太郎を射抜いている。


「ただし、条件が一つ」

「お伺いしましょう」


 頷く優太郎に頷き返し、室長はこう言った。


「あたいの安全確保をする暇があったら、他の三人の警護を強化してください」

「なっ!」


 その言葉に、谷木が座ったまま跳び上がった。


「駄目ですよ、室長! あなた自身はどうするってんですか!?」

「なんてことはないわよ」


 へらっと軽薄な笑みを浮かべて、谷木に応じる。


「あたいはここの責任者。皆の安全を守る義務があるの。さあ、藤野さん、どうぞお話を」

「了解しました」


 優太郎は再び、しかし深く頭を下げた。

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