第10話


         ※


 響いたのは、なんの変哲もない電子音だった。

 警備員室直通の通信端末。それはこの部屋の壁面にはめ込まれたディスプレイ直通の構造をしている。インターフォンの防犯強化型、とでも言えばいいだろうか。


 早速昨日残してきた日本酒に手を出そうとしていた大川室長は、よりによってこんな時に! と愚痴を垂れ流しながら受話器を取った。


「はい、こちら池ヶ丘水族館警備員室でーす……、は、はあ、そうですか。うーん……。警察の方でしたら、まあ、仕方ないですね。分かりました。ロックを解除しに参りますので、そのまま館内を……分かりました。しばしお待ちを」


 室長の方へ身を乗り出し、谷木はさも楽しそうに告げた。何を騒いでいるのかさっぱり分からないが、朗報である可能性は限りなく低いだろう。。

 ……などと悠長なことを言っていられる状況ではない。

 もし警察が、この水族館の設備に文句を言いに来たとしたら。あ、それは警察の管轄外か。


 では、どうして警察が、なんの変哲もない水族館にやってくるのだろう?

 僕はすっと、ジュリを視界の中央に据えた。他の三人も、やはりジュリに関係のある事案であると見当をつけた様子だ。


 ここで疑問がある。

 SF映画のような展開だが、警察は何らかの国家機密を担っていて、ジュリの身柄を拘束しようとしているのではないだろうか。


 根も葉もない仮説だが、僕は背筋が凍る思いがした。ジュリが、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。そんな漠然とした不安が襲いかかってきたのだ。せいぜい二回しか会ったことのない人間(?)にこんな気持ちを抱くのは、確かに奇妙なことではあるけれど。


 ジュリを警察に引き渡すか否か。こればっかりは避けられない。

 それに、もしジュリが危険な存在だったら? 逆に、人間がジュリを傷つけるようなことをしたら?

 これはジュリと警察との遣り取りを見聞きして察する外ない。


 何故、自分がジュリをそばに置いておきたいと思うのか? 適当な答えが見つからない。

 それはそうだ。今の僕は、冷静さを致命的に欠いている。

 だからこそ、素直に警察、ひいては政府にジュリの身柄を渡すのが無難な選択だ。

 こんなわけの分からない胸中のもやもやなど、元凶と一緒になくなってしまえばいい。


 では、ジュリを引き渡さずに済んだとしたら、僕たちはどうなるのだろう。

 ああいや、それは無事ジュリが連行されなければの話だ。彼女の運命は、僕たちにも想像のつかない大きな掌の中で転がされている。


         ※


「先輩? 凪人先輩! 起きてくださいよ、全く……」

「んあ、いや、起きてはいるよ」


 単純に考え込んで、自分の世界に入り込んでしまっていただけだ。


「耕助、今の状況は?」

「室長と絵梨が、刑事二人の足止めをしてます。その間に、ジュリちゃんにはどこかに隠れてもらって――」

(逃げ隠れしないよ、私は)


 唐突に脳内に刺し込まれたジュリの言葉に、僕と谷木は少なからず動揺した。


「だ、だってジュリちゃん! 相手は二人だけど、拳銃を持ってる可能性が……!」

「そ、そうだ、谷木の言う通りだよ! それに、追い返すのに成功したとしても、今度は大軍勢で来るかもしれない!」


 僕と谷木が交互に叫び合う。ジュリはそれをしっかりと受け止め、深い首肯を数回繰り返した。

 

(私、作戦がある)

「さ、作戦……?」


 皆がぽかんとする眼前で、ジュリは淡々と語り出した。


         ※


 やってきた二人の刑事は、ロートルとルーキーといった風だった。実戦同様に(ああ、これも実戦のうちか)バディで行動し、しかもルーキーを連れているとなれば、きっとこの水族館の調査は適当で構わない、ということなのだろう。


 それに対する僕たちのあしらい方も適当なものだった。というかジュリ曰く、全て自分に任せてくれ、とのこと。

 時間的に、作戦会議の準備などできたものではない。しかし、刑事たちをどう扱うかで、僕たちはジュリの真価を見定めることができる。


「ジュリ、君が何をするつもりなのか、見届けさせてもらうよ」


         ※


 手狭な警備員室に、三人の人物が入ってきた。案内役の大川室長と、刑事二人だ。刑事たちは厳しい目で室内を見渡し、ゆっくりと懐から警察手帳を見せた。


「私は丸山、こっちのノッポは長谷川。お仕事中失礼します」

「さあ皆、一旦部屋の外へ出て頂戴。刑事さんの邪魔にならないように!」


 僕たち三人は、緊張感に苛まれながらゆっくりと退室した。

 ジュリ、見つかるんじゃないぞ……。


 念のため振り返ってみたが、確かに今の警備員室に人影はない。だとすれば、掃除用具入れやら食器棚やら冷蔵庫やら、調査対象になるのは精々そんなとことだろう。ならば、正面にどん、と居座るしかない。

 そうして年嵩の刑事が真っ先に目をつけたのは、部屋奥に置かれている物体だった。


「大川室長、あの半透明の彫像は何ですか? どうしてここに?」

「以前、私が骨董品店で見かけて、ついつい買ってしまったんです。綺麗でしょう? この光沢といい、無機質感といい、そこに溶け込まれたような――」

「あー……はい、そうですね」


 どうやら年嵩の刑事は、美術や芸術には造詣がないらしい。どうでもいいけど。

 さっさと壁面を確かめた刑事は、最後にジュリが変身した置物状の物体に手を触れようとした。迷いも躊躇いもなく、すっと手を伸ばす。

 その手が触れるか触れないかといったところで、事態は急展開を迎えた。


 バシン! と肉質的な物体がぶつかり合う、生々しい音が響いたのだ。


「うっ!?」

「丸山さん!」


 慌ててロートルに駆け寄るルーキー。そこにいたのは、右手首のあたりにミミズ腫れを造ったロートルだった。


「こんにゃろう!」

「やめろ馬鹿! 拳銃なんか仕舞っとけ!」


 僕を含め、流石に皆がドン引きした。おいおい、発砲事件に発展させる気か? 勘弁してくれ。


 それはそうと、僕は改めて、『彫像』と呼ばれた物体に目を遣った。

 その像は、聖母マリアの姿を模していた。僅かに水色を帯びた透明な物体で、高さは二メートル近くある。

 あのジュリが、というより生物がこんな変身を一瞬で遂げるとは。俄かに信じられる事態ではなかった。


 やや自分たちの方が優位に立った。そう読んだのだろう、大川室長は高々と告げた。


「それは最新鋭の機密情報流出措置システムです。部屋の奥にある棚には、この水族館が開館してからの四十年ほどの貴重な記録があります。誰でも触れていいものではありません。だからこうやって、不法侵入者に対しては容赦なく対処します」

「お、大川室長……。我々は警察官だ。捜査任務中にこんなことをされれば、あなた方こそ業務妨害の罪を負うことになるぞ!」


 ロートルの言葉を聞かされても、大川室長は涼しい顔をしている。


「ではひとまず、あなた方に思い知らせて差し上げましょうか。ねえ、ジュリ?」


 再びジュリの様子を確かめる。すると、彼女はちょうど動き出すところだった。

 それだけでも十分怖いだろうが、僕が恐怖を覚えたのは彼女の頭部のことだ。

 いつの間にかジュリの髪は、蛇がうじゃうじゃと絡み合いながら形成されていた。


「メデューサかよ……」


 目を丸くしている谷木。我に返った僕は、慌てて谷木の背後から目元に手を当て、彼の視界を奪った。


「ちょっ、何するんすか、先輩!」

「静かに!」


 確か西洋の神話に登場するのがメデューサだ。その髪の毛は、今のジュリと同様に蛇が絡み合うことでできている。極め付きは、その眼力だ。目が合った者を石化させてしまう、呪いの眼光。


 そこまで自分の知識を整理したところで、一つの疑問にぶち当たった。

 ジュリはその知識をどうやって手に入れたのか? 考えてみれば、昨日は何も話せなかったのに、今日になったらいつの間にか日本語を流暢に行使している。


 ……君はいったい、何者なんだ……?

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