第9話
※
僕とクラゲ少女は、大川室長、谷木、花宮の三人にがっちり前後左右を挟まれながら、廊下を歩いていた。
歩行中、僕がドギマギしたという事実は墓まで持っていくつもり。だって流石に言えないだろう、室長の胸が背中に当たっていた、だなんて。
僕は自分のそばを歩いているクラゲ少女を一瞥した。さぞ不安そうな顔をしているだろうな。――というのは杞憂だった。話しかけることはなくとも、この場にいる人間たちを興味深く観察しているようだ。
そうか。さっきとは状況が逆転したのだ。
僕は(恐れながら)クラゲ少女の素性を探ろうとした。なんだかんだ言って、やはり興味津々だったのだ。
クラゲ少女は、恐れることがないという点を除けば、さっきの僕と同じなのだ。知識欲が強いのかもしれない。
ふと、前を歩いていた谷木が振り返った。両腕を後頭部のあたりで組んでいる。
「そうそう、あんたは何者なんだ? 凪人先輩とはクラゲコーナーで出会ったみたいだけど?」
(それが……。覚えていないの)
「い、いやいや、人間なら何かのショックで思い出すこともあるもんだぜ? それとも、やっぱりあんたは人間じゃねえのかなあ」
「ちょっと、耕助くん! 言葉遣いが汚いよ! ごめんね、この人いっつもこうなんだあ……」
すると谷木は花宮の肩に腕を回した。が、のろけているわけではないらしい。繰り出したのは見事なヘッドロック。これに対して、花宮は谷木の脛を蹴っ飛ばし、一撃で轟沈させた。
僕は取り敢えず注意する。人間というのが皆、こんな蛮族であると思われたら困ってしまう。
「おいおい、今はそんなに遊んでる場合じゃないぞ?」
「遊んでなんかいません! このDV野郎を懲らしめているだけです!」
「だからそれが――」
と言いかけて、僕は自分のそばで空気が動くのを察知した。
なんと、クラゲ少女は肩を震わせ、目を手で覆っていたのだ。
耕助の馬鹿! 泣かせてどうするんだよ。あの茶番のどこに泣けるポイントがあるのかは知らないけれども! 僕は内心、谷木を酷く罵った。
だが間もなく、僕はそれが誤りだと気づいた。クラゲ少女は泣いているのではない。笑いをこらえていたのだ。
「へ~え、あなた、人間の茶番劇で笑えるのねえ!」
意気揚々と言ったのは室長である。
「この二人、面白いからあなたも笑ってあげてね」
(あっ、は、はい!)
ふむ。大川室長が初対面の相手に、こんな優しい声をかけるとは。珍しいことがあるものだ。ん? 待てよ。
「あの、クラゲ少女さん?」
(クラゲ少女、って私のこと? 蒼樹凪人さん)
「そうそう。もし嫌だったら呼び方を考えるけど。……あ、あれ? どうして僕の名前を知ってるの?」
(あなたの脳内を覗いたの。って言っても、表層部分だけね。ついでに伝えておくけど、私が口を動かさずに自分の考えを伝えられるのは、テレパシーを使えるから。大した能力じゃないよ)
「い、いや、それは『大した能力』だと思うよ、クラゲ少女さん……」
するとクラゲ少女は眉をハの字にして、少し寂しげに答えた。
(私、最近までの記憶がないの。自分がどうやって生まれて、どうやって育ったのか、分からないんだ)
と、いうことは。
「クラゲ少女さん、僕をソファに寝かせた記憶、ってある?」
(うん! それはあるよ)
ほう。寝ぼけた僕をソファに寝かせてくれたのは彼女だったのか。
海月に化けていただけあって、腕はたくさん持っているもんな。しかし、どうして彼女は海月の中でも、特にベニクラゲに変身することを選んだのだろう?
きっとまだそこまでは記憶が戻っていないかもしれない。無理に聞き出そうとするのも気の毒だ。
「さあ、これを」
大川室長が手渡したのは、スポーツドリンクだった。
「クラゲに擬態していたのなら、直に空気にあたっているのはよくないわ。水分を摂りなさい。そこのお兄さんたちが、いくらでも買ってきてくれるから」
案の定、室長の指先には僕と谷木がいた。
やれやれと肩を竦める僕に対し、谷木は文句を並び立てた。
「ちょ、ちょっと室長! レシート持っていけば、ちゃんと給料払ってくれるんでしょうね?」
「さあ~、どうかしら? 面倒だっていうなら、今から勝負する? クラゲ少女ちゃんに優しくしてあげた方の勝ち。負けたら一生、スポーツドリンク係ね」
「むきー!!」
分かりやすい。分かりやすすぎるぞ、この男。
それはそうと、僕は歩きながら考えていた。クラゲ少女の名前だ。いつまで経っても『クラゲ少女』と呼び続けるのはまどろっこしい。何より、彼女のアイデンティティを育む障壁にならないか? という懸念もある。
何かいい名前はないだろうか? 短くて、呼びやすい名前。
海、水、空、雨……。雨?
日本には四季があるな。でもその隙間に、全国的に雨が多い時期というのも存在する。
とすれば、六月くらいだろうか?
そのまま『ろくがつ』と名付けるのも味気ない。『むつき』とか?
しっくりこないな……。
「え? クラゲ少女さん、ジュース飲みたいのか?」
意外そうな声を上げたのは谷木だった。
クラゲ少女曰く、人間の飲食物を広く摂取してみたいのだとか。
「ジュースか……」
ふむ、六月は英語で『ジューン』。今の話題は『ジュース』。
ジューン……ジュン……ジュリ、とか?
「あ、あのさ」
僕は軽くクラゲ少女の肩を叩いた。
「ジュリ、ってどうかな?」
(ジュリ?)
尋ねながら、こてん、と首を傾げるクラゲ少女。
「そうだよ。『ジュリ』って短くて言いやすいな、と思ったんだけど」
クラゲ少女は黙考する。腕を組んで、半透明の姿のまま考える。
気に入らなかっただろうか。僕が後悔し始めた、その時だった。
「うん! 私の名前、『ジュリ』がいい!」
おおっ、という四人分の感嘆の声が混ぜこぜになって、沈黙から脱却する。
「よし! じゃあ、あなたの名前は今日からジュリね! よろしく、ジュリ!」
嬉しそうにクラゲ少女、もといジュリは大きく頷いた。
その笑顔を見ていると、何というか……僕の方まで元気が流れてくる。
今更だが、ジュリは女性にしては平均身長位に見えるものの、表情が実にあどけないというか、子供っぽいというか……どこか庇護欲を掻き立てるものがある。
それはそうと、ジュリの代わりに別な人物が『取扱注意』になってしまった。
「ねえねえ耕助くん、泣かないで。チャンスはこれでお終いじゃないんだからぁ!」
「放っておいてくれ、絵梨ちゃん……。どうせ俺なんて、俺なんて……」
ああ、なんてこった。谷木のやつが屈折した嘆きっぷりを発揮している。こいつは面倒だな……。
何はともあれ、僕たち五人は一旦警備員室に向かうことにした。予定通りではあるのだけれど。
しかし、大川室長はどうして、僕がクラゲコーナーにいることが分かったのだろう? 監視カメラの位置を変えたのか? そんな話は聞かされていないが。
奇妙なことがあるもんだな……。
※
流石に僕を含めた警備員たちも、未知との遭遇を果たした直後とあって疲弊していた。元気なのはもちろん、ジュリだけである。
(へえ~、これが人間の住まいなんだね!)
「住まいというか、一時的な休息室というか」
説明しながらも、僕は部屋の隅から丸椅子を持ってきた。ジュリの分の椅子だ。
「ジュリ、何か気になるものとかあるかい? もしかしたら、取り扱いに注意しなくちゃいけないものもあるかもしれない」
(注意? 危険ってこと?)
「いや、そうではないんだけど。正しく使わないと怪我をする、っていうものだね。……って室長、何してるんですか」
僕が真顔で室長を睨むと、室長はぺろっと舌を出した。
「どうしてあなたが待機室用のお饅頭を一人でドカ食いしてるんですかねえ?」
ううむ、やはり僕も、緊張感から解き放たれて苛つきやすくなっているようだ。
(凪人くん、あの丸くて白いやつって、いわゆるデザート? お菓子、って言った方がいいのかな)
「お菓子だろうね。日本の食べ物だから。食べてみる?」
ジュリが満面の笑みで頷いた、まさにその時のことだった。
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